下津絣の女
奈津崎県に来てからというもの、驚きの連続だ。
同じ日本とは思えない奇妙な方言に謎の食べ物、祭り好きでケンカ好きの奈津崎男児にレモン頭のヒーロー。次から次へと起こる摩訶不思議な出来事は、今の私にとっていい現実逃避だった。
この世界に来て、私はずっと目を背けてきた自分の中にある怠惰さをなおさら強く自覚することになってしまった。
現在、私が置かれている状況は悪い。仕事もなく、金もなく、住む家もなければ誰一人知り合いもおらず、このまま何も手を打たなければ明日からホームレス生活である。
結局この世界でも明日から何らかの手段で食べていかなければならないことに変わりはない。
しかし。
「明日は明日の風が吹く。そして何より、腹が減っては戦はできぬ」
少しは逃げたっていいよな。
そう自分に言い聞かせて、小腹がすいてきた私は有り金をはたいてお祭りの露店で食べ物を買ってしまったのだった。
「これ、『あんじょうやき』っていうのかなぁ?」
私はそのタコスのような食べ物を手に取ってまじまじと見つめた。「安城焼き」というのは薄いパリパリの皮にエビないしハム、もやし、レタスなどを巻いたもので、味としては全く悪くなかった。一見おかずクレープのようにも見えるそれは、中国やベトナムのストリートフードという感じであまり日本らしさはなかった。
「入ってる材料だけ見たら日本っぽいんだけどな……」
着物を着て縁日で遊ぶ親子連れを横目に、私は口の中に熱々の安城焼きをほおばりながら境内を歩いていた。
改めて周囲を見回すと、大体子連れかカップルかで、自分が孤独であることを思い知らされた。
そういや、お祭りなんてずっと行ってなかった。
まだ日本にいた頃も、インドア派の友達が多かった私は彼らと一緒に遊園地やこうしたイベントに出かけることはめったになかった。年に数回友達同士で集まっても、精々家の中でゲームをするぐらい。
一人暮らしで彼女もいない私は普段アパートでずっと一人で過ごしていたし、オフの日はただ家で寝ていることが多かった。
慣れっこになってはいたが、やはり一人はさみしい。心のどこかでずっとそう思ってはいた。
そしてそんな私は今、見知らぬ異国の地にいる。
私は食べ終わった包装紙をゴミ箱に捨て、孤独感にさいなまれていた。
午後八時を回った。完全に夜の帳が下り、真っ黒な夜空にきらきらと星が瞬いていた。ライトアップされた神社の境内にはいまだ多くの参拝客がいて、祈りを捧げたり談笑したり思い思いのことをして楽しんでいた。
いい加減、今晩泊まる場所を探さなければならない。
再び石段を下りようと、私は参道を歩いてさっき来た道を引き返そうとした。
その時、後ろから私に声を掛けるものがいた。
「やい、うめえまさか、きっちゃんけ?」
若い女性の声だった。声の主が気になって、私は反射的に後ろを振り返った。
するとそこには着物姿の若い女性が立っていた。彼女はそれは大層驚いたように大きく目を見開き、私の方をじっと見つめていた。
人通りの多い参道で、私たち二人は雑踏と喧騒の中でお互い黙ったまま見つめ合った。まるで一瞬、そこだけ時が止まってしまったかのようだった。
「あー、やっぱきっちゃんざー! 久しぶりー、元気け?」
彼女は私の顔を確認すると、飛び切りの笑顔で手を振った。しかし私は固い表情を崩さず、あくまでも冷静に返事をした。
「……誰、ですか?」
先ほどのタクシー運転手の件があって、私は「きっちゃん」というのがこの世界では単に呼びかけの意味で使われているということは知っていた。だから今度こそ、大げさに反応しないようには心がけていた。
すると彼女は、私の真剣な様子が面白かったのか吹きだしてしまった。
「誰て……。言わんぜん、知っちゅるっぱ?」
彼女はそう言って自分の胸を右手で叩いた。私はもう一度彼女を頭のてっぺんから足の先まで見た。
彼女の年齢はおそらく私と同じぐらい。髪は茶髪、化粧は割ときつめで、どぎつい赤色のリップが目立つ。目鼻立ちがくっきりしていて身長が高めであることを除けば、人種的にはただの日本人のように見えた。スタイルのいい彼女の立ち姿はモデルのようで、星空と神社を背景に凛とした濃い藍色の着物がよく映えた。
そしてもちろん、私にそんな女子らしい友達がいた記憶はない。そもそも違う世界に来ているはずなのに、知り合いなどいたらおかしいはずだ。
はじめ、私はつっけんどんにはねつけた。
「いや、知らないです。人違いでしょう?」
正直この時点では、何か面倒なことに巻き込まれそうで嫌な感じがしていたので、私は早めに話を切り上げたかった。しかしかみ合わない会話にイライラしてきたのか、彼女は不意打ちの王手をかけてきた。
「あいあい、本に忘れてけ? なぜ俺が分からんな、佐藤幾多郎くん」
彼女がしびれを切らして私のフルネームを呼んだとき、私は思わずあっ、と声を漏らした。
彼女は地面の石を蹴飛ばしてつかつかとこちらへ突進してくると、至近距離までやってきて私の正面に立った。そして彼女は、何かひどく恨みがましそうな目で私の顔を見つめたのだった。
「秋実ざい、木中秋実。記憶しゃんけ、くん面?」
キナカアキミという名の女性はそう言って自分の顔を指さした。こうして並んで立つと彼女は私とほぼ同じ身長なのでかなり迫力があった。
香水のいい匂いのする若い女性にいきなり距離を詰められて、私はたじたじになってしまった。だが、いまだ私は彼女が誰なのか、皆目見当がつかなかった。
にしても「キナカアキミ」って、なんだかちょっと変な名前だな。
「……すいません、全く覚えてないです。どこかでお会いしましたっけ?」
私は申し訳なさそうな表情をしつつ、本当に覚えていないものは仕方ないので素直に告白した。
すると彼女は「あー、効がなせ」と言いながら、もどかしそうな顔で必死に訴えた。
「ざーげーん、昔、同級生ざってっぱ? あれー、小学生ん時、家ん後ん川で二人で遊んでっぱ。カエルつりなづすて」
「カエル釣り?」
「さーさー。後ぁ……、あー、海ぇ行って、泳ぐやらすっけ。ウチから海、近せな? いやー、あん時ゃまーっさ楽っさっけ!」
彼女は大きな目を輝かせて、表情豊かにありもしない思い出話をした。私は最初、一応話の腰を折らないように彼女に付き合ってあげていた。
ちなみに私は小学生の時、海なし県として名高い埼玉県の団地に住んでいた。断じて、そんな自然に溢れた環境ではない。
「いや、それたぶん違う人」
私は容赦なく真顔で否定した。
「あ?」
「いや、だから違う人。絶対。そんなことして遊んだ覚えはない」
私は心を鬼にして、少なくとも彼女にとっては美しい子供時代の記憶を粉砕した。
すると彼女はうーん、と唸りながら額に手を当てて考えていたが、一分ほど経って諦めたようにこう言った。
「ま、まぁ……、昔ん事ざげん、俺む忘れてまーてい!」
彼女はアハハ、と照れ笑いした。
あれだけ自信満々に話しかけてきたのにちゃんと覚えていないとは、いかに。
私は秋実さんのペースに乗せられながら、先ほどから疑問に思っていたことを尋ねた。
「そういえば、なんで秋実さんの着物は帯がないんですか?」
先ほどから周囲にいた女性たちの着物を見て気づいてはいたが、彼女らは皆普通の和服なら本来あるべき太い帯を巻いておらず、何やら腰の右側部分を紐のようなもので縛っているだけだった。そして私はそれを見るたび、ここが日本ではないという事実を思い知らされているような気分になって、少し憂鬱な気分になっていた。
「あぁ、くれけ? 見えんだけで、内側に帯があるんざに」
すると彼女は着物の上部から垂れ下がった布を持ち上げて、腰のあたりを見せた。すると服に隠れて、帯とも帯締めともつかないような紐が腰のあたりに巻かれていた。
なるほど。帯を隠すデザインになっているわけか。
彼女は袖を振りながらその場でくるくると回ると、上下左右何かを確かめるように自分の着物を見ていた。
「下津絣ん安っせが。西京更紗にするかで悩んでぜん、結果くれ選んげ」
彼女は袖を振りながら、少ししょんぼりした顔で寂しげに笑った。花をあしらった幾何学紋様の生地は美しく彼女にとても似合っている感じがしたが、彼女は気に入らないようだ。
しかし私はまた飛び出した謎の固有名詞に戸惑っていた。
「シモズガスリ……? 『西京更紗』って何だ? 京友禅じゃないのか?」
思わず突っ込みを入れると、彼女は眉間に皺を寄せた。
「はぁ? 安城ん『西京更紗』知らんなん? 上物ざに? 俺、大学ん時四年西京に住んぢゅってぜん、始終買わーて思うちゅってんざー」
彼女があまりにも当たり前のように言うのではじめ聞き流しそうになったが、私は思わず聞き返した。
「ちょっと待って、西京って町があるの!? 東京じゃなくて?」
彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。
「『東京』て……、何?」
なんと彼女は東京を知らないようだ。どうやらこの世界はどこまでも日本とは反対らしい。
彼女もようやくおかしいと思い始めたのか、こんなことを尋ねてきた。
「きっちゃん、さっきから高野県が人みてーな話し方すちゅんね。小学校ん後、あっちん方に居ってんけ?」
知らない場所の名前を言われて私はまた困ってしまった。
「いや、幼稚園からずっと埼玉県なんですけど……」
「サイタマ? すれ、づくん話?」
彼女は埼玉も知らないらしい。私はますます、自分がどこだか分からない世界に来てしまったことを自覚して薄ら寒く感じた。
しかしこの秋実さんと来たら、初対面なのにすごくなれなれしかった。
彼女は何かを思い出したように手を叩いて、平然とこんなことを宣い出した。
「さーさー! 今日は祭りざげん、親戚みんなで俺ん家に集まって酒飲んぢゅんざ。きっちゃんむ来るけ?」
彼女はこの流れで私を家に誘った。突然の急展開に私はただドギマギして、どう返事をするかで真剣に悩んでしまった。
「急にそんな……。私、完全に部外者ですよ?」
というか、知り合いですらありませんよ。
反応に困った私は結局そんなことしか言えなかった。
今までの人生で女性の方からこんなに積極的に来られたことはないが、まさか出会っていきなり実家に連れていこうとするとは。これはナンパとも違うような気もする。
しかし彼女は全く私の思いなど意に介さないようだった。
「ええっぱ、別に。たくさん人来るし、一人ぐらい知らん面が居ってん誰む気づかんや」
彼女は髪を弄りながらケラケラ笑った。
「そういう問題なのか」
強引な彼女に私はあきれてしまったが、彼女は更に話を畳みかけた。
「何? くん後、づっか行く予定あるけ?」
痛いところを突かれて私は言葉に詰まってしまった。
「いや、特にないけど……」
「すれなら、決まり! みんなで飲まー、飲まー!」
「でも……」
私は彼女が何を考えているのか全く分からなかった。初めて出会った男にいきなり過去に出会ったことがあると言い出して、でも自分では覚えていなくて、考えてみればメチャクチャだった。
でも、却ってそれが心強い。
私は今、見知らぬ土地で一人だった。自分を助けてくれる人がいるなら、どんな人でも構わない。
「俺む早ぁ帰って片づけなづ手伝わにゃんね。今すぐ決め!」
彼女は焦ったような顔で私を急かした。
彼女の勢いに押されたのか、旅の空気に酔っていたのか――
「……分かりました。行きます」
どうせ今日泊まる場所もないし、と言いかけて、やっぱり言うのを止めた。なんだか彼女を利用しているように感じられてためらったのだった。しかし後で思えば、彼女こそ私を利用していたのかもしれない。
「うん、支障無せ! ついて来っ!」
彼女は子供のように屈託なく笑って、元気よく手招きした。
こうして私は、今日出会ったばかりの秋実さんの実家にお邪魔する運びになった。
「そういえば、秋実さんってなんで自分のこと『俺』って言ってるんですか?」
秋実さんは女子なのに、自分のことを「俺」と言っていた。
「悪っれ、『俺』ぜぁらんで『私』ざいな。私め奈津崎に戻ってからまー大分長っげげん、方言がきつうなってまぁて」
彼女は再び恥ずかしそうに笑った。私はこれまた適当なフォローを入れた。
「まあ、女の子でも自分のことを『俺』って呼ぶのもアリじゃないかな、とは思いますよ? 俺女、って言葉もありますし」
しかし彼女は不思議そうに聞き返した。
「あ? 『俺』て、男しか使ぁていかんけ?」
後で知ったが、奈津崎弁では男でも女でも自分のことを「俺」と言うらしい。
●
秋実さんの実家は幡宮市外にあり、電車で一時間ほどかかった。祭りから帰る客で車内は混雑していたので一人分の空席しかなく、私は彼女をそこに座らせて自分は立っていた。
人混みの中、私は車窓の前で吊革につかまっていた。眼下にはすぐ秋実さんがいて、彼女の茶髪のプリン頭がよく見える。彼女はさっきから私には目もくれずスマホを弄っていたが、私はといえば彼女のことについて色々と悩んでしまっていた。
彼女はおそらく、そこまで若くはない。そして私は彼女が今までどういう人生を歩んできたのか気になって仕方なかった。
趣味は? 仕事は? 結婚はしているのだろうか?
ふつふつと、頭の中で様々な疑問が泡のように浮かび上がっては弾けた。
アキミさんは一体何を考えているのだろう。
先ほども彼女は、電車賃が払えない私の代わりに切符を買ってくれた。いくら「昔の友達」とはいえ、そんな遠いところまで誰かを連れて行こうとするのは親切というより不気味だ。そして、それに乗ってしまう私も私だ。
でも、一人で京都旅行をするのと、異世界人女性に地元を案内してもらうのと、どっちが楽しいのだろうか。
しばらくして私の視線に気づいた彼女は、バッグの中をごそごそとあさっていたかと思うと、銀紙に包まれた小さなお菓子を差し出した。
「チョコラートなづ食う?」
彼女は笑顔だったが、よく分からない発音に私はまた面食らった。
「チョコレートじゃないの? 『チョコラート』って、そういう商品名なの?」
すると私の言い方がよほど面白かったのか、彼女はチョコレートを握りしめたままケラケラと笑った。
「『チョコレート』て……、何すれ? 変な発音!」
どうやらこの世界だと外来語の発音も私の知っている日本とは節々違うらしい。そもそも標準語が存在したとして、こちらとは異なる可能性もある。
少し気になったので、私はここで一つ思い切って聞いてみることにした。
「そういや、秋実さんは『オ』と『ウ』がちゃんと区別できるんですね」
私が挑発するようにそう尋ねると、彼女は怒ったように言い返した。
「何言うちゅるけ? ウバン扱いすなや!」
オバン、と言いたいのだろうか。
私は続けざまに抜き打ちテストをしてみた。
「『レモン』って言って」
「レム……、レモン」
「『コンピュータ』は?」
「クンピュータ」
「『アクセント』は?」
「エクセンツ」
「やっぱ言えてないじゃん」
からかうのが楽しくなってきたが、なんだかすごく悔しそうにこちらを見つめてきたのでこの辺にしておくことにした。
「でも『チョコレート』は『チョコラート』なんだよね……。どういう法則なんだろう」
私はアキミさんからもらったチョコレートを食べながら、一人考え込んでいた。すると彼女は不安そうに尋ねてきた。
「……やっぱし方言きつせけ?」
彼女はがっかりしたようにため息をついた。
「私も西京に居って時ゃちっくし安城弁が移ってぜん、今はまー大体津州弁ざい。田舎っ人丸出しざいなー」
また分からない固有名詞が出てきたので、私は一応確認した。
「『信州』ってこの字?」
私は手元のスマートフォンで漢字を変換して彼女に見せてあげた。すると彼女は訂正した。
「違違、津州ん『シン』ぬゎ、『奈津崎』ん『津』ざい」
なるほど、だから「津州」なのか。
私が一人で納得していると、彼女は奈津崎県の歴史について簡単に説明してくれた。
「くん辺りは昔、『津州』て言うて、北ん方が『上津』、南ん方が『下津』て呼ばれちゅってんざ。南ん方は訛りがとっく強いぇげんな、ぢっちゃん衆は『ウ』と『オ』ん区別が出来ん。私は気ぃつけりゃ発音出来るぜん、年寄りはなぁ……」
そう言って彼女は腕を組んだ。
「秋実さんの方言はどっち寄りなの?」
私の質問に彼女は悩ましげに答えた。
「知らん。出身ぬゎ下津ん三峪ざぜん、高校ん時ゃ上津ん幡宮ざし、チャンプンざっぱ?」
彼女は最近実家に戻ったらしく、地元にいると方言が戻ってくるとも語った。
そうこう話している内に、電車がどこかの駅に着いたようで停車した。田舎なのか電灯もなく真っ暗なせいで駅名標がよく読めなかったが、暗闇の中に「税所」という字がうっすら見えた。
私は特に何も考えず文字の通りに発音した。
「今は……『ゼイショ』?」
すると瞬時に地元民による手厳しい突っ込みが返ってきた。
「ああ、すりゃ『サイショ』て読むんざ」
秋実さんのありがたいご指導を聞きながら、私は車内の壁に貼られた路線図を見て今どの辺りなのか確認しようとした。
しかし。
「これ、漢検一級保持者でもない限り解読不能だろ……」
「椨中」に「萢田」、「廿六島」、「梁川泊」、「比咩路城」。奈津崎県の地名は読めない漢字のオンパレードだった。
先ほど秋実さんに「ユリミザカ」で降りると言われていたが、「閖見坂」という漢字を見るまでどんな風に書くのか見当もつかなかった。
私はとりあえず読めそうだった終着駅の地名を読んでみた。
「『幡波線』って……この『なみがはま』ってところまで行くの?」
これなら大丈夫だろうと高をくくっていた。しかし、またしても秋実さんに訂正されてしまった。
「すりゃ『波が浜』ざ。すっからは奈津ヶ島ぃ行く船が出ちゅる」
読めません。
いくら頭をひねっても一問も正解できず落胆する私をよそに、秋実さんは平然と続けた。
「八時十分に『卯頭山』出て、今『税所』ざげん……。九時過ぎに着くっぱ? 後、半時間ぐらいけ」
私は話ついでに彼女にこんな質問をした。
「南海道の南には『ナツガシマ』っていう島があるんだよね?」
「うん」
「南海道の周りには、他にも何か別の島があったりするの? 本州みたいな……、いや、南海道と同じぐらい大きな島」
すると彼女はさも当たり前というように答えた。
「すりゃ平洲と北東道ざい。きっちゃん、づっかで頭ぶつけてけ?」
しかし今回も私は黙っていられなかった。
「平洲に北東道? 北海道とか東北じゃなくて?」
私はいよいよ眩暈がしてきた。「南海道」はあるけど「北海道」はないなんて、何もかもあべこべの世界だ。
すると彼女は笑い交じりにいかにもそれらしいことを言った。
「何言うちゅんざ。『北東』、『北西』、『南東』、『南西』て言うっぱ? 『東北』ぜぁ順番が逆ざ」
言われてみれば確かに。
妙に説得力のある彼女の主張に言いくるめられ、私は感心してしまった。すると今度は彼女が私を挑発するように私の顔の前でひらひらと手を振ってみせた。
「うめえ、大事け? しっかりす、佐藤幾多郎くん」
彼女はそう言って、私の顔を覗き込むとクスッと笑った。
だからなんで俺の名前を知ってるの、と言いかけて私は黙った。それ以上追及しても自分に得がないように思えたからだった。
駅の改札から外に出た時、夜空には食べかけのクッキーのような半月が浮かんでいた。秋実さんの故郷三峪町は海も近く、空気には微かに潮の匂いが混じっているように感じた。
九時を過ぎて、私たちはようやく閖見坂停車場に到着した。三峪は幡宮と比べるとかなり田舎で、この時間ともなると立ち並ぶ店のほとんどはシャッターが閉まっていた。駅前のコンビニには祭りから帰ってきた若者たちが行き場をなくして屯しているのがちらほら見られたが、閑散とした町はとても静かだった。人混みの中ずっと気を張っていたせいか、私はなんだかほっとした。
彼女に連れられて、私は駅のすぐ近くにある有料駐車場にやってきた。トヨタでも日産でもないエンブレムが入った車が並ぶ中、彼女は黄色いフォルクスワーゲンのビートルの前で立ち止まった。
「中古車ざぜん、体がええっぱ?」
彼女はいかにも大事そうにボンネットを撫でながら自慢げに言った。しかし私は別のことに気を取られていた。
「この世界にもフォルクスワーゲンはあるんだな……」
私の反応が気に食わなかったのか、彼女はムスッとした顔で「早ぁ乗り!」と私を車の右側の助手席に無理やり押し込んだ。
彼女の車に乗せられ、道路の右側を走ること五分――
駅を離れるに従い、辺りの風景は次第に農地とその間に点在する住宅だけになっていった。
「高校の時どうしたの? こんな遠くから通うの大変だったでしょ?」
畑や川の間を縫うように続く農道を横目に、私は彼女に聞いた。すると彼女はハンドルを握りながら声を張り上げた。
「気張ってフイッツで通っけい。はー、あん三年ぬゎえらさっけ」
またよく分からない言葉が出てきて私は聞き返した。
「フイッツ?」
すると彼女はすぐに答えた。
「あぁ、バイクん事ざ」
そういや駅前商店街に「フイッツ」が売ってたけど、バイクのことだったんだな。
「へー、高校生でバイク通学か。いいね」
私が羨ましそうにそう言うと、彼女は一旦怪訝な顔で私の方を見返した。勾配のきつい坂道に差し掛かり、彼女はシフトレバーに手を掛けながら尋ねた。
「『フイッツ』てフランス語け?」
思わぬ質問に、大学生の頃第二外国語でドイツ語をとっていた私は答えることができなかった。
「フランス語は知らないなぁ……。ドイツ語だとバイクは『モトーラート』だよ。英語でも『モーターサイクル』って言うでしょ?」
私の蘊蓄を聞いて彼女はしばらく考えていたが、標識の前で車を一時停止してこんなことを言った。
「Motorcycleは自動二輪ざっぱ? フイッツは英語んbikeざい」
私ははっとした。
「え? 秋実さんの言ってる『バイク』って『自転車』のこと?」
すると彼女は恐ろしいことを言い出した。
「『自転車』て何?」
なんと奈津崎県には「自転車」という言葉が存在しないらしい。
「待って、『フイッツ』が英語でいう『バイシクル』なんだったら、高校の時『自転車』通学だったってこと?」
「自転車」という言葉が通じないかと思い、私は一応ジェスチャーで自転車を漕ぐ真似をしながら尋ねた。すると彼女はうん、と頷いた。
なんでそこだけ正しい英語を使ってるんだ。
この時やっと今までの会話がかみ合わなかった原因に気づき、私は頭を抱えた。しかし、そんなことには気づかない彼女は外来語攻撃の手を緩めない。
「まぁ、週三たー言え、今ぜん三峪から幡宮まで出勤するんえらーて……。私、車ん運転苦手なんざ。ドゥラスクで免許証取ってんなんて、二十五ん時ざし」
「ドゥラスク?」
「ドゥライビングスクールざい。高野県ぬゎ『自動車学校』て言うけ?」
「それってもしかして、『教習所』のこと?」
私たちが方言談議に花を咲かせていると、木中家に到着した。
その平屋建ての建物は四方をたくさんの低木に囲まれていた。この広さから見るに、これは庭ではなくおそらく農園だろう。
そういえば、ここに来る途中に見かけた他の家も全て農家のようだった。
車の外に出た私は大きく伸びをして、深呼吸をした。夜の冷たい空気が肺を満たし、何かの苦い香りが鼻をつく。
「ここって、何育ててるの?」
玄関まで歩く道すがら、私は何の気なしに秋実さんに尋ねた。すると秋実さんは道沿いに並ぶ植樹に鈴なりになった果実を指さした。
「レモン。奈津崎ん名産品ぬゎレモンざっぱ」
そう言って彼女はなぜかふぅ、と息をついた。
そういや、レモンのマスコットキャラとかいたな。
そんな話をしていると、段々と木中家の玄関が近づいてきた。木中家は郵便ポストが黄色いことと玄関脇に猫が鎖でつながれていることを除けば、一見どこにでもありそうな日本家屋だった。
そのブチ猫は「なぜるな!」という張り紙の貼られた猫小屋の中で居眠りをしていた。そして接近してくる足音に一応目を覚ましたが、秋実さんの顔を見るなり大きくあくびをしてまた寝てしまった。
「ああ、県が条例で決まっちゅんざ。あったしゃんと、猫っちゃが増えるげん」
私が不思議そうに猫を見つめていると、秋実さんが家の鍵を取り出しながらそう言った。
奈津崎県に生まれた猫はかわいそうだな。
私がそんなことを考えている内に、彼女は玄関の格子戸の鍵を開けた。先ほどから家の中から誰かの話し声が漏れ聞こえていたが、彼女が戸を開けた瞬間、そのがやがやとした話し声が一気に大きくなった。
「ただいまー」
彼女が玄関でそう叫ぶと、家の中からドドッ、という足音と共に笑顔の子供たちが勢いよく走ってきた。
「姉っちゃーっ!」
その三人の子供たちは帰ってきたばかりの秋実さんの足にまとわりついた。彼女は「童は早ぁ寝え」と言いながら、子供たちの頭を撫でていた。彼女は困り顔で、それでいてとても優しい眼差しだった。
「この子たちって兄弟?」
彼らがまだかなり幼かったので、私は気になって彼女に尋ねた。すると彼女は彼らを抱きかかえたまま答えた。
「いや、親戚ん子たち。かわええっぱ?」
彼女は男の子を背中に背負ったままそう言って微笑んだ。するとアキミさんの足にまとわりついていた女の子が私を指さした。
「くん人、誰?」
するとアキミさんは彼女の頭を撫で、笑顔で返事をした。
「姉っちゃン昔ん連れざ」
「へー!」
子供たちは一斉に私に好奇の目を向けてきた。
視線が痛いな。
私が子供たちの熱い眼差しに困っていると、居間の方から酔った男の声が響いた。
「アキミ、今帰ってけ? うめえ、遅うまでづけ行っちゅって?」
彼女は玄関の土間に立ったまま叫び返した。
「別に、山明大社ん辺りでてらぐらすてだけ!」
「酒買ぁてけ?」
「ねーや、すなんが! 家にある南海焼酎だけで我慢す!」
彼女がまるでケンカでもするように大声で怒鳴ったので、私は少しびっくりしてしまった。
「……今のは?」
「つっちゃ」
「?」
「あぁ、『父さん』て意味」
彼女は子供たちに居間に戻るように言いつけると、やっと靴を脱いで上がり框をまたいだ。
私も彼女に続いて家に上がろうとしたが、スーツケースをどこに置いていいか迷った。すると彼女が床に新聞紙を敷いてくれ、私たち二人は協力して重たいスーツケースを一緒に持ち上げその上に乗せた。
「せーのっ!」
「やっせ!」
ちぐはぐな掛け声とともに、スーツケースは無事玄関横の棚に収納された。
私が一息ついていると、アキミさんが居間へと続く廊下の方を手で指し示した。
「一んむ二んむ上がって何か食べ。疲れてっぱ?」
彼女は特に歓迎の言葉も口にせず、まるで古い友人に接するように私を家に招き入れた。
私は彼女に導かれるまま奥へと進んだ。木中家の居間には多くの人が集まっているようで騒がしく、壁越しに時折ガハハ、という笑い声が聞こえた。
宴もたけなわ、か。
たくさんの知らない人と話さなければならないということに気づいて、私は今さら少し緊張した。そして私が気を引き締めて居間の襖を開いた時、そこには錚々たる面々が待ち構えていた。