反出生主義な彼女
夜空を見上げる。
屋根の上に佇む満月の輝きに軽く眩み、顔を落とす。
下草の生え切った休耕田を突っ切る、ひび割れたアスファルトの農道を踏みしめていく。
ビニールハウスの密集した十字路を抜けると、上下紺ジャージの華奢な立ち姿が目じりでぼやける。
河川敷方面へと角を曲がると、彼女の影も月明りにそっと揺れた。
そして二人並んで歩き出す。
遠くの街灯から車の音が流れる。
滑るような車の音が途切れると、ただただ心地よい沈黙があった。
目配せするように、隣を歩く秋野へと目を向ける。
彼女は微笑むでもなく、殆ど無表情のまま視線を返してくる。
背景を黒く切り取ったような、浮世離れした黒髪。
学校で見る時は後ろ結びにしているけれど、夜はいつもこうして流している。
シャンプーの甘い香りが、小さな風に乗って俺の鼻腔をくすぐった。
「綺麗な月だね」
立ち並ぶ似たような家々。顔を上げて満月に軽く目をやる。
「少し眩しいけどな」
また、沈黙が流れた。
「私達の関係って、何だろうね」
「……んー」
唸るような声で誤魔化しながらも、夜の涼しさに不思議と冴えた頭を働かせる。
友達という感じでは無い。
恋人という訳でもない。
秋野とは同じクラスだが、学校で話す事は殆どない。
どこかに一緒に出掛けるなんて事も、連絡を取り合う事も皆無だ。
夜に散歩している時、偶然出くわしたら一緒に歩く事がある。
俺と秋野はたったそれだけの関係だ。
友達以上、恋人未満……というのも何か語弊がある気がする。
俺と秋野の関係を、そんな使い古された言葉で枠に嵌められたくはなかった。
「……友達以上、恋人未満って奴かな?」
「そんな使い古された言葉で枠に嵌められたくはないな」
俺の芝居がかった台詞が気に入ったのか気に入らなかったのか、秋野は鼻で笑う。
そして俺に顔を向け、すぐに俯き逸らす。
「私ね、春瀬に言っておきたい事があって」
「何だ?」
用水路に堆積した砂利に片足を立てて眠る青サギに目を落とす。
「もしもの話だけど。仮に私と春瀬が付き合って、いずれ結婚する事になったとしても……私子供産むつもりないから」
「…………」
こういう場合、喜ぶべきなのだろうか。それとも寂しがるべきなのだろうか。
どちらも腑に落ちないままに、どこか思いつめたような声が続く。
「私、反出生主義だから」
反出生主義……聞いた事はある。
子供を産む事を不幸を生み出す不道徳な行為であるとして批判する立場の事だ。
「春瀬は、この国の未来に希望持てるの?」
「まあ……持てないねえ」
30年程前はアメリカを追い越す程の勢いがあったのに、今では落ちぶれて一人当たりGDPは先進国最低クラス。
少子高齢化も順調に進んでいる。
最近では訳の分からないウィルスまで流行り出した。
政府の借金は気にしなくていい、という理論も最近出て来たようだが……理屈では理解できても直感が付いて来ない。
何せ、俺が生まれてこの方この国はずっと右肩下がり。
毎年給料と物価が上がり続ける経済なんてのにも半信半疑なくらいだ。
政治家も口では経済成長なんて言いながらも本当はする気がないし、大多数が期待していないだろう。
そんな漠然とした停滞の予感は、俺や秋野の住むこの閑静なベッドタウンにも漂っている。
県道に立ち並ぶ空きテナント。シャッター街と化した商店街。
それらを踏み台にして隆盛を誇って来た大型ショッピングモールすら、最早どことなく覇気がない。
そんなこの国の現状は、肌感覚でも嫌という程思い知らされて来た。
「きっとこの程度じゃ済まない。この国はこれからもっと酷くなる」
「まあ、そうかもなー」
「何その言い方」
軽く睨んでくる。
「腹が立たないの? 上の世代の連中のせいで、私達はずっと失い続けるんだよ?」
「そう言われてもなあ。今に始まった事じゃないだろ? 生まれてこの方この国はこの感じだし」
「…………」
「怒って何か解決するなら怒るが、そういう訳でもないしなー」
「もういい。……春瀬は、もし結婚したら子供欲しいの?」
子供……か。
「……うーん。よく分からんな。悪いが、俺には子供がどうたらの話を現実問題として考える事はできないかな。秋野の質問がそもそもナンセンスなんだよ。彼女すらいた事ない俺に子供がどうこう聞くのは、牛肉食べた事無い奴にかつ丼の感想を聞くのと同じようなもんだろ?」
「春瀬はかつ丼好き?」
「好きだが」
「私も好き」
心臓が何を勘違いしたのか、勝手に鼓動を高めていく。
違法改造したであろうバイクの騒音が流れて、俺は頭を掻いておいた。
「じゃあ、反出生主義についてはどう思ってるの?」
薄闇の中、送電塔が彼方の山々へと連なってはどんどん小さくなっていく。
ミニチュア模型のように立体感があるそんな景色が、俺は好きだった。
「ねえ。聞いてる?」
「ああ……」
「こんな社会に産み落とすなんて、無責任な事だと思わない?」
少しだけためらって、呟く。
「……どうでもいいかな」
「…………」
「結局のところ人それぞれだし、各々が好き勝手にすればいいんじゃないか?」
いつからだろう。
俺が社会に対して無関心を決め込むようになったのは。
今では凄惨なニュースを聞いても全く心が動かなくなった。
親がテレビの前で鼻息を鳴らして怒っている姿を客観的に眺めながら、ただ事実を事実として受け取る自分に気付く。
それでも同情する事は稀にあった。
……世間という得体の知れない物に袋叩きされている犯人の方にだが。
そんな俺の無関心は日を追うごとに拡大していくようで、今では自分の将来さえ殆ど関心を持てない程だ。
俺はどうも、頭のネジが何本か外れているのかも知れない。
それに……
「社会にどうこう言っても、結局なにも変わらないしな。義務感で選挙には行くかもしれんが」
「……春瀬らしいね」
「秋野は親と仲悪いのか?」
「悪くは無いけど、嫌いかな」
「何だそりゃ」
秋野は答えないまま歩幅を広げ、俺の前に進み出る。
せっかくなので、女性らしく婉曲したヒップラインを目の保養にしておく。
無用の長物となりそうだが……安産体系って奴なのだろうか。
俺だって男だ。秋野とのそういう行為を夢想した事も枚挙にいとまがない。
しかし、そういった行為の結果に関しては、やはり現実感を得られないでいた。
そんな下世話で最低な視線を持ち上げ、夜風に靡く黒髪を眺める。
黒髪が翻って行く。
「何見てるの?」
「別に」
言い訳するように満月を見上げ、耳を掻くついでに呟く。
「秋野は少し、真面目過ぎるんじゃないか?」
「真面目?」
「確かに今の日本は厳しいが、人類の歴史から見たら十分すぎる程マシな方だろ?」
「視点が浅いわね。今がどうだろうが言い訳にはならない。一番肝心なのは、今後良くなるか悪くなるか。違う?」
秋野は苛立ちを吐き捨てるように俯き歩いている。
彼女が何の為に、何に怒っているかも分からないが、その姿に俺は奇妙な清々しさを感じていた。
どういう訳か、秋野が義憤に駆られている姿を見ると安心する。
世間の動向に無関心を決め込んで来た小さな罪悪感が、ぼんやりと滲んで行く気がした。
「相対的な価値基準なんて、くだらない。昔はもっと大変だっただの、もっと苦しんでる人がいるだの……そんな詭弁反吐が出るわ。肝心なのは今、私が苦しんでるかどうか。そしてその因果だけ。春瀬はどう思うの?」
「ノーコメント」
「…………」
警笛と、電車の流れる音が遠くで響く。……やはり夜はいい。
少し早歩きに歩幅を広げ、秋野に追いつく。
横並びに歩きながら、そっと目をやった。
「別に秋野の考えを否定する訳じゃないが、一つだけ言っておくとするなら……」
「なに?」
「もし秋野の考え方が変わって手の平返ししても、俺は別に責めたりしない」
「……ズルいよ。そんなの」
◇
秋野と別れ、なだらかな坂を登って家路につく。
秋野は自分の考えを否定して欲しかったのかもしれない。
別れ際、小さく微笑んでくれた秋野のジャージ姿を思い描く。
秋野と二人なら、こうして失われ続けるのも悪くないかもしれない。
そんな事を思いながら、マスク紐に痛む耳をそっと撫でた。