1の7 物見
楽しい行人小屋の一夜はあけた。
なんだかんだと、結局俺も熟睡していた。考えてみれば、これだけ次から次へと無茶苦茶な事態に遭遇するのだ。疲れていないはずがなかった。
一階に降りると、既に三人は起きていて、粥をすすっていた。
キョウが無言でお椀を差し出してくれたので、俺も黙ってすする。
味は…ない。
繰り返すが、味はない。
「これも修行の一環ってことか?」
キョウは何も答えず、すぐに空になった椀におかわりを入れた。他の二人は無視。ということは正解なのだろう。
教えたら逃げ出すから黙っていると、オッサンは言った。知らなかったから望む行動をとったと、ナギは言った。二人は今も、その主張に従って行動しているようだ。
………別にいいけどね。
幸い、一年のトレーニングのおかげで身体は問題ない。俺をどうしたいのか知らないが、ここまで来たらつき合ってやる。そしてきっと、期待を裏切ってやる。
そう思っていた時期がありました、とさ。
「本当に山頂に背を向けるんだな。まさかあれか? あちこち振り回して、方向感覚を失わせて…」
「そんなことをしても、どこかで山頂が見えた時点で無意味になると思わない? ミコトってこんなにバカだったっけ?」
「悪いが俺はバカだ。記憶が違うなら今訂正しろ」
「ざんねーん、元から記憶なんてありませんでしたー」
相変わらずイライラさせてくれる毛皮女の後を歩く。もう発言が意味不明なのは慣れた。美人は三日で慣れるというが、慣れないのは汚物のような毛皮だけ。あ、汚物そのものだった。
ミダガハラの湿原は広い。アーミダという神を祀るというが、少なくとも行人小屋にはいなかったので、どこか別の拠点があるのかも知れない。興味はないし、たぶん誰も教えてもくれないだろう。
ぬかるんだ道を歩いて行くと、石を積み上げた場所に出る。
「ふっふっふ、ミコトちゃん、ここはねー」
「サイノカワラって言うんだろ?」
「えっ!? ミコトちゃん、裏切者!?」
「何がだよ」
本当にそう呼ぶ場所なのか怪しいと思うが、ナギの反応にそれ以上ツッコミを入れるのも面倒なので放っておく。
そもそも、ここは河原ではない。ただ三つ叉の分岐点に少し大きな岩があり、その上に小石が積み上げられているだけ。ただの目印とか、山に登った記念とか言う方がまだ分かる。
ただし、この山に登って来るのは、昨夜の苦行を望んで受けるような連中だ。そんな奴らが何を記念するのか、とも思う。
「右が山頂、左に今から進む」
「キョウさんの説明は分かりやすい! すごい!」
「…………」
「なーに? まさか色目使ってんの、ミコト」
自棄糞気味に素直な感想を述べれば、別方向から絡まれる。いろいろ面倒くさい。
実際、キョウは必要最小限の情報は教えてくれる。何も伝える気のない残り二人より評価が上がるのは仕方ないだろう、なぁナギ。
なお、キョウの神々しいまでの見た目にはそろそろ慣れた。というよりも、昨夜の地獄の苦しみを与えた犯人であるという事実で、夢から醒めた気分。いや、夢を見たのも何も、俺が勝手にそうなっただけなんだけどさ。
広い湿原を遠巻きに巻きながら、山頂に背を向けて進む。高低差はほとんどないので、鼻歌交じりの道だ。
湿原の草は黄色く色付いて、一部は茶色に枯れている。生憎、山の植物には詳しくないから、どんな草なのかは知らない。似たような景色が続くから、似たような草が生えているような気がする。
時々岩が露出していて、そこには何かの草の実のようなものが見える。長い毛が生えたものが渦巻き状になっていて、不思議な形だ。え? 現実逃避するなって? この旅路で逃避しない奴がいるかと言い返すぞ。
ケンガミネ。剣が峰。名前のような山を想像していたが、頂上部の岩が多少ゴツゴツしている程度で、どうということはない。
今日の日程は、今のところ楽だ。というか、楽すぎて怖い。
「で、俺たちは今何をするために山にいるのか、誰か教えてほしい」
「さぁ…」
「山はなぁ! 山があるからだ!」
「……そろそろ出発だ」
何なんだよいったい! こんなあからさまに隠すのか? 隠すよな。昨夜のアレを黙ってるような連中だからな。
ついうっかり、誰か漏らしてくれないかと時々問いかけてみるのだが、その程度の揺さぶりでどうにかなる三人ではないようだ。
そのまま山頂を降りかかったが、わずかに下った所に大きな岩があった。山頂からは陰に隠れて見えない位置だった。
その岩には………、あったよ。あれが。ということは…。
「天よ見よ!」
オッサンのうわ言が始まった。
ちなみに今は曇り…というか、山特有の霧に覆われている。突き上げた剣を誰に見せようとしているのか分からないが、天からここは見えないよなぁ。こんなどうでもいい感想を漏らしてしまうのは、俺も結構毒されてるよなぁ。
あ、光った。
今度はオッサンじゃなくて、剣が一瞬光を放った。
単に反射した光が、ちょうど俺の目に向いただけかも知れないけど、今さら光ったぐらいで驚く俺じゃない。あ、やっぱり毒されてる。
「どうだ相棒! ワシの真の姿を見て感動したか!!」
「あー感動した。感動したなー」
「見よ! 無敵の筋肉ワシ筋肉!」
とりあえずロッチのオッサンは上機嫌。俺のイヤミを聞き流すほどに。というか、まだ相棒って設定は生きてたのか。これだけ俺を蚊帳の外に起き続けて、何が相棒かと怒鳴りたくなるぐらいだって言うのに。
なお、オッサンの見た目は何も変わっていない。例の剣を持っているだけで、無敵の筋肉は村にいた頃も無敵だった。むしろ山に入ってから、無敵感が薄れた気がする。ナギはともかく、キョウの得体が知れなさすぎて…。
出会ってまだ二日のキョウ。相変わらず、化け物のように美しい。あの行者小屋で、地獄のあれをやってのけた張本人なのに、髪の毛のほつれの一つすらない。絶対、人間じゃないよな?
登山道は次第に方向を変えていく。山頂とは完全に逆を向いているようだ。
腰の高さ程度の木々が生い茂る尾根は次第に痩せていく。とはいえ、身の危険を感じるような歩きではない。登ったり下ったりして、たぶん全体としては下り気味。
下り気味なので、前方は見渡せるはずだけど、残念ながら霧で霞んだまま。まぁ今さら何が来たって構わないさ。
不思議と思わないんだ。帰りたい、とは。
「ここはフダラク」
「はぁ…。で、またオッサンのアレか?」
そうして着いたのは、尾根の上に大きな岩を積み上げたような奇妙な景色だった。
そろそろ俺も、でっかい岩があれば何か祀ってあって、オッサンが奇声を上げると学習できた。なので、例の剣を持った石像の前で唱え言をする姿をちらっと確認して、寝っ転がった。
ああ、いい風だ。
昨夜の地獄の臭気もこれできれいさっぱり流れて行くに違いないさ。
………。
…………。
「うわっ!」
「失礼な子ねー、ナギちゃん悲しい」
驚くだろ。ぼんやりしていたとはいえ、いきなり目の前に顔があってびっくりしない奴がいたら会ってみたい。
というか、黙っていて毛皮を被ってなければ、ナギだってあり得ないぐらいの容姿だからな。少しはその辺を自覚してもらいたいぞ。
「それで、何か用か、ナギ」
「アンタ、ここに来た目的忘れてない?」
「教えてもらった記憶がないのはどうしてだ!?」
ナギに手を引っ張られて、向かった先は並び立つ岩の一つ。というか手が小さいな。この身体のどこに大猪を蹴り上げる力があるんだ?
岩の最上部には、小さな石の祠がある。余りに小さすぎて、中の何かはただの石ころにしか見えない。あとは何か赤く塗られた箇所があるな。
「物見という」
「相変わらず余計なことは話さないな」
余計じゃないことも話してくれないけど、キョウにはイヤミが通じないのも織り込み済みだ。
物見というのは、もちろん何か分からない。何かを見るんだろう、たぶん。
岩に登れば見晴らしはいい。
「腹ばいになれ」
「ああ?」
「見るのは下だ」
……………。
他人に頼む時は、もうちょっと愛想があったほうがいいと思うぜ、キョウさんよ。
まぁ仕方ねぇ。オッサンもナギも黙ってこっちを眺めてるし。
大きな岩は向こう側が切れ落ちている。その端の辺りに頭を置いて、落ちないよう慎重に身体を預けた。
…っと、脚をつかまれる感覚。
振り向こうにも身体が動かせないが、たぶんキョウの手なのだろう。何となくだが、ナギではないと感じる。あ、オッサンの手はゴワゴワだからすぐ分かるぞ。
「何が見える」
「え? あー、木が生い茂っていて…」
「そうか」
「あ?」
ふわっと身体が浮いた気がした。
そして―――――。
「あ? あ?」
本当に驚くと、碌に声も出ないらしいぞ………。
※※※※※
光に満ちた日々。
希望に溢れた毎日。
それが未来なのか過去だったのか、もう僕には思い出せない。
だって、もう失った後だから。
誰かが決めた時。目印。
君と僕はサヨナラさ。
抵抗しようにも、相手は触れることもできない。お手上げさ。
だけど、僕は黙って終わったりはしない。
あきらめが悪い奴だから。
君と僕の日々を失いたくなかったから。
何度頑張っても、何度繰り返しても届かなくて。
世界の悪意が二人を引き裂き続けて。
そして僕が悪意と呼ばれて。
望まれもしない相手と扱われて。
ああ、でも俺は見た。
確かに見た。
次のお前を。
久しぶり、だな。
僕の天使。
俺の求めているもの。
俺の………、シェリー。
※※※※※
「目が覚めた? ミコト」
「……………」
「どうしたの?」
「ナギ」
「え?」
「お前は…、お前はなぜ泣いている」
跳ね起きた。
霧に包まれながらも、黄色く色づいた草、腰の高さの低木林。
ここは地獄…ではなさそうだ。
「ミコト。次は穴に潜る」
「キョウ、貴様は…」
すぐに何食わぬ顔で近づいてくる女。さすがに覚えている。コイツが俺に何をしたのかを。コイツが俺を岩から放り投げたことを。
「貴様っ!」
立ち上がって殴りかかった右腕は、簡単につかまれてしまう。
くっ、何だこの馬鹿力。
俺は本気で腹を立てて、本気で殴ろうとしているのに、つかまれた腕はびくともしない。
「お前はまだ生まれたばかりだ。大人しくしていろ」
「やかましい! 俺を殺そうとした女!」
「お前は死んだ。だから生まれたのだ」
「何をわけの分からないことを…」
「シェリー」
「うっ…」
「思い出しただろう、お前は」
……………。
なぜその名前を知っている、と叫ぼうとした俺は、目の前の女に心当たりがあると気づいた。
キョウ。外側にいる者。
そして。
「ロッチ、ナギ…、そうか、俺はまたここにいるのか」
「ワシはここにいるぞ!」
「相変わらず話が通じねえな、オッサン」
フダラクの岩の崖下のガレ場で、少しずつ俺がミコトになりつつある。
ああ、オッサン、今はこんな格好か。いや、以前もそうだったか? そこの記憶は靄がかかって思い出せないな。
ナギ。お前は味方になったのか。それとも、最初からこっち側にいたのか? 毛皮はこんなに汚れたのか。
それは、思い出している…のではない。
侵食されている。生まれてからクラコウジ村で一年を過ごすまでの記憶に、余計なノイズが割り込んでくる。
騙されるな。
俺はオッサンの過去なんて知らないし、ナギには数日前に会ったばかり。
「アンタがただ生まれただけなら、この先は同行しないけど」
「期待できそうか、毛皮の女」
「私はいつだって期待してるのよ。もう時間がかかりすぎて、ジンミの寿命も尽きかけてる」
頭の中で俺は抵抗しているが、勝手に会話は続いていく。
どうやらこの勝手な奴がミコトらしい。他人を侵食する魂。この三人は、俺に巣食う異物に気づいて近づいてきた。そういうことか。
「逢いに行く。ナギ、貴様はそれでいいのか」
そこにキョウからナギへ、意味不明な問いかけ。
もちろん俺には分からない。が、ミコトはどうやら理解しているらしい。らしいが何も口を挟む気もない、か。
「逢いに行く。それをしない限り、先に進むことはない。そうでしょ、外側?」
「…………」
「四人で向かう。それは見ているわ」
「そうか」
ナギは悲しそうな顔で、外側呼ばわりされたキョウは無表情で。
オッサンは…、いつの間にかフダラクの上まで登って、例によって剣を掲げていた。分身の剣を。ああ、知っているのは俺じゃない。
いい加減にしろ。
俺は、今の俺は―――。
「ということで、茶番は終わりだ。俺は頭を打った程度で別人になる気はない」
「一度死んだ程度で戻ってくることはない」
「あぁ?」
「ミコトちゃん、残念だけどこれで終わったりしないのよ。ナギちゃんが代わりに泣いてあげる」
「いらねぇ」
………。
格好良く三人の目的を台無しにしたつもりだったが、どうやら早まったらしい。
俺はまた殺される。
キョウはともかく、ナギは本気で泣きそうな顔をしている。そうか。俺は死ぬ。何度も死ぬ。はは、は…。
「天よ! ワシにはまだ力が足りん!」
そんな絶望的な空気を無視して、オッサンの雄叫びが聞こえてくる。オッサン、代わりに死んでみろよ。そうすれば力が足りるかも知れないぜ。
悪いが俺は、これからも抵抗する。
お前たち、そしてお前の思い通りにはならない。させない。
殺されて生まれ、役目を果たさずに死ぬ?
ジンミなんて糞食らえだ。
だけど、君に会ってみたいな。
シェリー。