1の5 敵か味方か
オッサンと蛇頭のじゃれ合いがあったその日。
既に夕暮れに近かったが、龍神池を離れて再び山に分け入った三人。そろそろ足元も怪しくなりつつある頃に、次の休憩場所らしき草原に到着した。
周辺は少しだけ開けていて、小さな草原の中央には沢が流れ、奥に巨石が幾つかある。そして沢沿いから巨石周辺には、例によって石の祠が幾つか立っている。
巨石の一つは空洞を作り、そこに誰かが石板を組んで岩室が造られている。入口の広さは二人並んで入れる程度で、奥行きは暗くてよく分からない。
ナギは薪を並べて、手際よく火を付ける。薪は…、さっきオッサンと蛇頭が暴れた時に散乱した枝だ。俺も少しは背負ったが、オッサンがとんでもない量を持ち込んだので、一晩燃やし続けても大丈夫だろう。
赤く照らされる巨石には、読めない文字らしきものや、人物の姿らしきものが彫られているのが見える。どれも風化が進んでよく分からない。いや、風化してなくとも分からないけど。
「気味が悪い場所だな。何か出そうにしか思えない」
「出たら大喜びで手を合わせなさい。ミコトちゃんに逢いに来てくれたんだから、ありがたやありがたやって」
「そんなありがたいものが現れる気はしないな」
そもそも、奥行きのある岩室なのに、ロッチのオッサンはその半ばで勝手に腰をおろし、その先に進ませようとしない。火で照らそうにも邪魔をしやがる。
どう考えても、碌なものはない。人骨が散乱していても、正直全く驚かないぞ。
で、そのオッサンは、用意した食事を済ませると、彫られている何かの一つの前で胡座を組み、ブツブツと何かを唱え始めた。
ちょっとだけだが、俺はそれを見て戦慄した。
過去一年間、オッサンが神に祈りを捧げたことなど一度もなかったというのに、目の前にいるのは熟練の風格をそなえた修行者だ。悪い夢を見ているようだ。
「ミコトも拝んだらどう?」
「拝むって、何を? ナギはこの神を知っているのか?」
一方のナギは、持参の汚い毛皮にくるまって、興味なさそうに俺に提案してくる。
自分は拝む気ないくせに。
「よく見たら分かるでしょ? 剣を持ってる」
「え? …………あぁ、あれか?」
オッサンの前に見えるのは、せいぜい人っぽい輪郭が見える程度。言われてみれば、縦に線のようなものが彫られている気がするが、気がするだけで確証は持てない。
結局、ぼんやりとオッサンの背中を眺めている間に、詠唱は終わった。オッサンはくるりとこちらに向き直すと、いきなり立ち上がって剣を頭上に掲げた。
「天よ見よ! 我は故あって力を戻した! これはこの世のための唯一の道であるっ!」
……………オッサン大丈夫か?
思わず声をかけようとして、そのまま俺は動けなかった。
オッサンは光っている。
あの熊のような図体で、突然発光したのだ。
「いったい…」
「災厄の蛇神が目覚めたのよ」
「はぁ!?」
「蛇神ではない! 龍神と呼べ!」
「どう見ても蛇だったじゃない」
理解を超える事態が目の前で起きた。
俺は速やかに目を閉じて、そのまま意識を失うことにした。ああ眠い…。
「寝るな相棒!」
「叩くな」
「目をそらすな相棒! 俺は人であって人ではない。そしてお前も!」
「何言ってるか分かんねぇよ!」
既にただのオッサンに戻ったオッサンは、意味不明な発言を大声で繰り返す。これが普通なら、わざわざ狼や熊に居場所を教えているようなもの。
しかし、錯乱しながら俺はなぜか確信していた。
ここは今、安全だ。
だから眠るべきだ。岩室の中にも入らず、オッサンから目を背けるように寝っ転がると、勝手に眠気は襲ってくるのだった。
翌朝。本当に俺は外で寝っ転がったまま熟睡していた。我ながら大胆…で片づけていい問題じゃないような気がする。
ただ、岩室の中からは地鳴りのような鼾の輪唱。オッサンはともかく、ナギが張り合うように轟音を鳴らすのが辛い。いや、目覚ましになっていいのか?
仕方ないので、とりあえず火を起こす。
野宿では、野獣に襲われないよう火は絶やすな。そんなことを偉そうに教えてくれたオッサンは高鼾で、教わった俺もこの有り様。
しかし、俺たちは襲われなかった。何かが近づいた形跡もない。
よく分からないが、そしてできれば考えないようにしたいのだが、あのオッサンの光のせいじゃないかと思う。
昨夜の出来事は、未だに理解できない。
人間という生物は、突然発光しない。それは子どもでも知っている。じゃあ?
…………。
つい最近、オッサン以外に発光した何かを見た記憶がある。つい安易に結び付けたくなる。そして、そのまま思考を放棄する。
荒唐無稽。結論はそれしかないのに、耐えて考え続けるのは苦痛だ。
「お前がミコトか」
「あ、ああ?」
突然名前を呼ばれ、反射的に返答しながら違和感に気づく。
慌てて頭を上げてみれば―――――。
「…………そうか」
オッサンが買う娼婦のように、際どい衣装の…、ああ、何かの装束を着た女がいた。いつの間に? 別に俺に特殊な能力はないから、ぼーっとしていただけ? まぁその辺はどうでもいい。
一方的に、俺の素性を確認しただけの女。それを咎めようと思ったのに、声が出ない。
でかい。
いや、背も女とは思えない高さだが、一応俺よりは低い。それよりも、頭の下の方にある二つの盛り上がりだ。ただの修行者がよく着る白装束だったのに、谷間がすごすぎて娼婦と勘違いしてしまうほど。やばい、二度見、いや、三度見してしまう。
それ以外もとんでもないな。上から下まで、およそこの世に存在していいと思えないような、恐ろしい美女。ああ、ナギも相当だが、これはまさか…。
「き、吉祥天女…」
「バカ?」
「お前には聞いてないぞ、ナギ」
いつの間にか隣にいた毛皮女。ものすごく不機嫌そうな顔で、不機嫌そうな声。
対する目の前の美女は、相変わらず口を開かない。
「知識の足りないミコトちゃんに、ナギお姉様が教えてあげるわ。吉祥天も観世音も、性別なんてないのよ。そして、こんな淫らではしたない姿で男を襲ったりしないのよ!」
「お、おいナギ?」
明らかに不穏な台詞を吐いたナギは、そのまま謎の美女に向き直り、戦闘態勢をとる。
睨みつけたまま数分が経過。
謎の美女は、その間表情一つ変えることはなかった。
「余裕ね。私じゃ相手にならないわよね、キョウ」
「貴方とじゃれ合うために来たわけではない」
「お、しゃべった。………キョウ、さん?」
「そうよ。キョウ。邪悪な魔人とでも憶えておけばいいわ」
「それくらいにしておけ、ナギ」
ボサボサ頭のオッサンも起き出した。
相変わらず目の前の女が何者かは分からないが、この反応を見るにどうやら敵というわけではないらしい。
まぁ…、ナギの態度も本気だったのは最初だけで、少なくとも攻撃する気はなかったようだし。
「わざわざご足労すまない、キョウ」
「光が…見えた」
「ああ。まだ本調子ではないがな」
光? ああ、あれか。やはりあれは夢でも冗談でもなかったのか。
熊のようなオッサンが光るという異常事態を、表情一つも変えずに受け入れるキョウ。どうやらあれが何を意味するのかも知っていて、しかもそれがここにやって来る契機になっている、と。そこまでは推理した。
あとは、もうちょっと口数を増やしてもらいたい。
「ミコトは…、条件を得たか?」
そこで再び俺の顔をちらっと見て、オッサンに問いかけるキョウ。
何度見ても、その外見は人間のレベルを超えている。これでオッサンのように光ったら、五体投地する自信があるぞ…。
「一年経った。量は足りている」
「そうか」
「ちょ、ちょっと待て! 勝手に話を進めるな! なんだ条件って、足りてるって!?」
「…………」
いきなり俺の話題。しかもオッサンの発言は何だ? 何が足りてる? 一年で足りさせるような何かがあったか?
しかし、当事者の困惑は徹底的に無視されていく。
「大丈夫、よ」
不機嫌な態度を隠さないナギが、穏やかな声でつぶやく。
それは俺をなぐさめる言葉ではなく、オッサンへの同意。キョウは無表情のまま。
「ナギも見た。だから行くぞ。邪魔はしないな、キョウ?」
「私には、干渉する権利はない」
「あら、そうかしら? ナギちゃんは見たわ。この女、いつまでもついて来るわよー」
ナギの茶化すような台詞に、初めてキョウの表情が曇った…気がする。
ともあれ、三人の間で話はついた…らしい。良かった良かった……なわけあるか!
「だから勝手に話を…」
「ミコト」
「え、あ、はい」
い、いきなり名前を呼ばないでくれ。緊張する。
とりあえず分かったのは、キョウは口数が少ない。そして、ご多分に漏れず、他人の話を聞かない。どうでもいいな。
「会いに行く。お前の親に」
「親? 親!?」
余りに予想外の返答に大声を挙げてしまったが、キョウはそれ以上何も説明しないまま、オッサンとナギに支度を促した。
親…だって?
天涯孤独、親の顔も知らずに育ったことで有名なんだぞ。両親なんて都市伝説の域なんだぞ。というか、仮に親がいて、なぜこんな死地で会う必要があるんだ? 親に会うのに身体を鍛えるってどういうことだ?
いくら俺の心が混乱しても、この場の三人は何も答えてくれそうもない。
はっきりしたのは、三人はグルだ。「ミコト」という名前に反応して、勝手に人を翻弄する者たちだ。