1の4 龍神池
ロッチのオッサンが村長に「しばらく留守にする」と告げた朝。
ナギが涙を流しながら、村長のはげ頭を撫でた朝。
クラコウジ村を離れた三人は、ハラエ川の上流に向かって歩き出した。
涙を流したら抱き合うだろう、普通は。
つーか、村長に何か恨みでもあるのか、ナギは。
ハラエ川は、東に聳える山から流れ、蛇行しながら西の海に届く。河口には大きな町があるというが、俺は行ったことがない。
クラコウジ村を通っている街道は、南西から北東方向に続く。南西方向の道は、ハラエ川の対岸に渡って、そのままなだらかな丘を越え、隣の谷あいに抜けていく。そこからボジ川沿いに下っていくと、ロッチのオッサンが俺を買った町、ホウジに着く。
そして、反対に北東に向かうと――――。
「祠があるのか」
「ここは境の社。死にたくなければ左の道を進む。そうすればカリカに抜けるわ」
「ふぅん」
得意げに解説するナギに、オッサンは黙ってうなづいている。ということは、死ぬ死なないはさておき、左が本来の街道なのは間違いなさそうだ。
周囲は針葉樹の森。街道は草に覆われ、そのまま消えてしまいそうなほどに荒れているが、辛うじて轍が残っている。
ここまで右手を流れていたハラエ川は、祠の付近で二つに流れを分ける。本流らしき流れは左の道に沿い、右手の流れはどこに続くのか見渡せない。
赤茶けた水は、右手の側から流れている。そちら側の河川敷にだけイタドリが群生しているのは、きれいな水の方が山菜採りに採り尽くされたためだろう。ハラエ川の水で育ったものは例外なく不味いと、これは村の常識だ。そんな水を飲まされ続けた俺の肉は、山の猛獣も避けるぐらい不味いに違いない。
左の道には、ここまでと同じような轍が続いている。車を牽くにはきつい坂道だが、行商人たちはここを通る。小さな祠の傍らには冷たい水が湧き出し、休憩するにはちょうどいい場所である。
さて…。
「ナギ、ここに祀られている神様については説明できるのか?」
「一柱ではないぞ。いいか相棒、まず目の前に見えるのは道祖神だ。境にはだいたいいるから知ってるな?」
「あ、ああ」
大して興味はなかったのだが、気が向いたので案内人に聞いてみた。しかし、オッサンが代わりに答えてくれた。こういうのに興味なさそうなオッサンなのに、しかもやたら詳しい。
それから三十分近く、点在する社殿を連れ回されることになった。
路傍には小さな祠しかなかったのに、針葉樹の森のあちこちに、似たような大きさの社殿が隠れている。それらは山の神、川の神、風の神などの自然神たちで、かつてこの地に籠った伝説の修行者が祀ったらしい。針葉樹も植えられたものだそうだ。オッサンは伝説の修行者の名前まで教えてくれたが、聞いた瞬間に忘れた。
あー。
名前は忘れたけど、修行者は今もたまに現れるそうだ。俺たちは幸い出くわさなかったがな。何歳だよ修行者。
「オッサンが途方もない年寄りだって話、信じる気になったぜ」
「そんなことはどうでもいい」
「どうでも良くないわー。ナギちゃんは嘘つきじゃないもん」
そうして、ナギは何食わぬ顔で右の道を歩き始める。嘘つきではないと自称する毛皮女の言う通りなら、死地に入ったことになる。
轍は消え、けもの道のような細い山道は、やがて針葉樹の森の急坂になった。
暗い山道で、足元はよくすべる。しかしナギは平地と何も変わらぬ速さで登っていく。今さらだが、毛皮女は只者ではない。この状況でも、多少臭いが薄れただけの汚い毛皮をまとっている、その異常な見た目も含めて只者ではない。
ナギの後ろには、熊のようにのっしのっしと登っていくオッサン。俺は二人に遅れないよう、最後尾を登る。まぁ幸い、一年のトレーニングのおかげで、この程度の坂道でへばったりはしないが。
急坂を登りきると左右は広葉樹に替わり、やがて痩せ尾根に取り付いた。ここからはゆるやかな尾根道…かと思ったが、今度は尾根の反対側に下って行く。
そして、祠から約二時間。そこだけ再び針葉樹に覆われた窪地に、池があった。思った以上に大きく、暗く濁った水面は、その深さを測れない。
「こんな池があったのか。なんて名前なんだ、ナギ」
「それは当人に答えてもらえばいいと思うよ」
「はぁ?」
池の畔には、小さな祠がある。そして不釣り合いな大きさの鈴。
オッサンは無言のまま祠の前に立ち、ガラガラと鈴を鳴らした。
「ちっ、ひどい音だぜ!」
一人で怒りだすおっさん。鍛冶屋の血が騒いだのかも知れないが、どうでもいいだろ…と言いかけ、何かに気づく。
祠の左右に並んだユキツバキの葉がざわざわ騒ぎ出す。
そして、澱んだ水面が急にゴボゴボ音を立てて…。
「……うっそだろ!?」
「ざんねーん、本当でした」
ふざけたナギの声に反応する気にもなれない。
目の前に現れたもの。
嵐のような水しぶきをあげて、現れた巨体。
「も、もしかして龍か?」
「さぁ、どうかしら」
「オッサン! あれは何だよ! というか、逃げるよな!?」
「やかましい! 黙って見てろ小僧!」
薄暗い森の中なのにキラキラ反射するのは、鱗のようなもの。水面から出ているだけでも、体長十メートルはある巨大な丸太のような物体。そんなものが、どう考えても好意的ではない雰囲気で出現した。
池に隠れていた? 無理だろ、あんな巨体がおさまるはずないだろ…って、そんなこと考えてる場合じゃなかった。
逃げる!
いや、逃げて逃げ切れるのかは分からないけど、ぼーっと突っ立ってるって選択肢はないよな? なぁナギ!
ナギ!?
………。
毛皮女は、文字通りぼーっと突っ立っている。なんだ、気絶でもしたのか?
そしてオッサンは何を思ったのか、まっすぐ巨大物体の側を向いて仁王立ちだ。おい、まさか?
「ぬおおおおぉぉぉぉ!!」
「オッサン、正気か!?」
どしゃ降りの雨のように水しぶきが上がり、そして襲いかかってきた巨大物体と、オッサンは格闘し始めた。
でかい口を開けて迫ってきたのは、少なくとも顔に関しては蛇だった。ただし俺たちが一飲みにされるサイズだけど。
その巨大蛇の口を、オッサンはむんずと捕え、無理矢理閉じさせようとしている。今までに見たことのないほど盛り上がる、背中の筋肉。というか裸? いくら熊みたいなオッサンでも、無茶苦茶だろ? 勝てるわけねぇ。
「ナギ、何か方法はないのか!?」
「黙って見てなさいよ。それでもミコトなの?」
「これが黙って見てる場合かよ!」
「そうよ。この先の旅路、ロッチのままではいられないもの」
「はぁ?」
オッサンはわめきながら格闘を続け、毛皮女はそれを平然と眺めている。
なんだよ。まさかこれが予定通り…なのか?
「龍神池はねぇ、山に登る人が金目のものを投げていくのよ」
「助けないのか!?」
「助ける必要がある?」
「な…」
いくら他人でも、それは…と思ったところで、違和感に気づく。
蛇頭とオッサンが取っ組み合いをして、もう五分が過ぎただろう。
オッサンは、人間としてはとんでもない怪力だ。今目の前の光景は、それをはっきりと証明している…が、相手はとてつもない巨体。いくら何でも、長期戦になれば体力がもたないはず。
しかしオッサンが疲れた様子はない。
そして蛇頭も―――――。
「頭は一つじゃないよな?」
「たぶん、八つぐらいあるんじゃないかな」
「八つ!?」
八つあるかは確認できないが、オッサンと組み合う他に、目に見える範囲で三つぐらいはある。同じぐらいの大きさの蛇頭が。
そのうちの一つでも、オッサンのがら空きの腹を突けば勝負はつく。それどころか、俺たちを同時に襲うことだってできるはずだ。
「なぁナギ」
「親しげに語りかける様子、いいわね。口説かれてみようかしら」
「ふざけるな。というか、これはアレなのか、茶番なのか?」
「茶番…とも違うわ」
やがて蛇頭が光り始める。
薄暗い広葉樹の森をライトアップした光は、数分で消え、そして蛇頭も消えた。
……………。
えぇ?
「オッサン、その剣は…」
「俺の剣、ヒノツルギだ」
「…………そう、か」
熊のようなオッサンに不釣り合いな、細身で長い剣が、水面に姿を映している。
何だよそれ。頭の中で思い浮かぶ因果関係をどうしても肯定できない俺は、ただ盛大に溜め息をつくしかなかった。