1の3 旅立ち
愛していた。
俺のすべてだった。
君を取り返すためなら、なんだってやるさ。
そう。お前の名前は―――――。
※※※※※※
……………。
嫌な夢を見た。
身の毛もよだつような臭い台詞。
ぼんやりとした輪郭。
考えてみれば、何度も見た記憶がある。いつだって、あれ以上は何の情報もないのだが。
「ミコトちゃん、可愛い寝顔だったよー」
「うるせぇ! 何だあの化け物みたいな鼾は!?」
「いたいけな美女にひどい言いぐさだわー」
朝から意味不明な発言を繰り返すナギ。本当に同じ部屋で一晩を過ごしてしまった。
まぁ昨夜は轟音に悩まされて、イライラするだけで済んだ。とはいえ、いたいけではないが美女と呼んで差し支えない。いや、異様なほどに整った顔立ちも、透き通るような肌も、ホウジの町で散々見かけた女性たちとはどこか別の世界の存在に見える。
俺の乏しい人生経験の中で言えば、これほどの女はいない。
これで性格が好みだったら、冷静でいられる自信がないな。まぁ残念ながら、仮定の話に過ぎないが。
「失礼なこと考えてない?」
「他人の心の内など分からないと、俺は教えられてきた」
「へぇ…、立派な親もいたものね」
親というか育ての親というか、育ての豚が裏切られて殺される時の遺言だけどな。
元から人付き合いが苦手な俺。俺をしゃべる家畜として育て、勝手に出荷させられた豚。それを現金一括で買った、人の皮を被った熊のような男ロッチ。さらにこの轟音毛皮女が加わった。そこには信用という言葉など存在しない。
もっとも、だからいつも気を張っているわけでもない。
当たり前だ。俺という人間に、狙われるほどの価値はないのだから。
「で、アンタは鍛冶見習いってこと?」
「こいつはワシの弟子じゃねぇ。そんな才があるわけねぇって知ってるだろ!?」
「そうね、ミコトだし」
「……………」
金属音と熱気、たまの蒸気に包まれた神聖なる創造の場に、野獣のうなり声がこだまする。
ロッチのオッサンの本業は鍛冶だ。刀が本分だが、鍬、鋤、ハサミ、何でも造る。服を着た猛獣みたいな外観のくせに、やたら繊細で、そして人使いが荒い。
まぁ奴隷として買われた俺にとって、唯一奴隷らしく労働させられる時間なんだけどな。
無賃無給で、衣食住のみ保証。ただし労働時間は短い。それはオッサンがあんまり働かないからだ。
「つまり、ミコトって奴は不器用ってことか」
「鍬とハサミは使いようって言うらしいわ」
さりげなくナギに探りを入れてみたが、はぐらかされる。というか、ツッコむと自分がバカ認定されるという姑息な返しに一同驚愕涙が止まらない。
昼間のナギは、仕事もなくぶらぶら町を歩いているだけ。ぶらぶらすると言っても、細長い集落を往復しても一時間はかからないし、逆に隣の集落には一時間近く歩くから、すぐにやることがなくなって戻って来る。
村の数少ない若い男たちには声をかけられまくって、そしてそれをいちいち自慢してくる。非常に鬱陶しい。そして何よりも、俺に鍛冶の腕があるかないか、何が分かるんだ。
ああ、念のために言っておくが、鍛冶になりたいわけじゃない。一年手伝って分かったが、俺にはああいう細かい作業は向いてない。それが事実だから、オッサンに言われるだけなら別にいいが、ナギの同意にはやはり腹が立つ。
「そして夕方はこれが日課、と。毎日やってる?」
「もちろんだ。苦情はあのオッサンに言ってくれ」
「感謝の言葉の間違いだ、相棒!」
夕方のランニングにも、なぜかナギが参加した。
これでも身体は鍛えていると自慢する毛皮女は、確かに俺たちと同じだけの鍛錬をこなした。
「ヒトー三段っ蹴り~~っ!」
「調子が狂うからやめてくれよ」
「ミコトちゃんも叫べばいいの。ミコト反転キック!」
「してない」
ふざけたポーズで叫びながら、ナギは大猪もしっかり蹴り飛ばした。冗談だろ? あの細い脚で巨体が跳ね上ったぞ。
つーかヒトーって何だよ。人なら人って言えよ、もう理由分かんねーよ。
「素早さはさすがだな。海辺で走り込んでいたか!」
「ふふん、どんなもんよ」
「なんでそんな簡単に納得するんだ、オッサン」
はっきりしたのは、脚力はたぶん俺以上だということ。力はそこまででもないから、一撃で猪は絶命しないが、武器を持たせて戦ったら、たぶん俺が負ける。
何者なんだ、いったい。
少なくとも、ただ旅をする女ではない。身分を隠している? あの汚い毛皮も、周囲の目をごまかすためだったのか?
「ということで、俺とナギは仲良くなった。同じ部屋で寝る仲だ」
「あらミコトちゃん、急に態度を変えたのねー」
「ああ。だからさっさと正体を現せ、ナギ。そしてオッサンも、知ってることはいい加減隠さないでくれ」
「ふーん」
食卓を囲んだ家族の団欒の時間。ただし三人が家族だったという事実は知られておらず、団欒という雰囲気もない。俺にとっては訊問の時間のようなものだ。
ロッチとナギはどう見ても初対面ではないし、二人とも俺に隠し事がある。いや、二人がただ何かを隠しているだけならどうでもいいが、その隠し事は間違いなく俺に関わっている。
つまり、二人は俺の知らない俺の秘密を知っている。荒唐無稽としか思えないが、少なくともそういう体で動いている。
「ミコト。アンタはロッチが何者か知ってるの?」
「バカみたいに強い、熊のような刀鍛冶…じゃないのか」
「おい相棒、バカはいらないだろバカは!」
「そう…」
オッサンとは一年間一緒に暮らしていた。その上で、それ以上の説明はしようがない。
大猪を蹴り殺す俺も、たぶん弱い方ではないが、オッサンなら熊だって蹴り殺す。本当だ。目撃したからな。
それなりに自信を持って答えたのだが、ナギの表情は冴えない。お気に召さなかったようだ。
「じゃあ、彼は今何歳なの?」
「ああ? ……五十ぐらいだと思うが」
「だってさ?」
「…………」
これも、見た目の印象のまま答えたが、今度はオッサンが渋い表情。ただし、その視線は俺ではなく、ナギに向けられている。
まぁあれか。他人の年齢を明かすなということか。
「二百五十ぐらいだっけ?」
「…………」
「え?」
「大きな声で分かりやすく言ったつもりだけど、聞こえなかった? ミコト」
「いや、そういう問題では…」
冗談だよな? オッサンの方を見るが、相変わらず渋い顔のままだ。
ナギはその視線を気にするでもなく、茶を啜っている。
…………え?
冗談だろ?
「そもそもミコトちゃんは、ここがどこか分かってる?」
「クラコウジ村だが」
「旅人はよくやって来る?」
「行商人を除けば、俺の次がお前だな」
交通不便な地。住人は三百人。そんな僻地にそうそう旅人が来るはずはない。
正確に言えば、俺は旅人ではなく、この村の住人が買い付けた奴隷だ。純粋な旅人は、目の前で矢継ぎ早に質問をつなぐ毛皮女ぐらいだ。だから何だというんだ。
仕方なく睨みつけてやるが、相変わらずナギは茶を啜り、オッサンはぼんやり壁を見つめている。
「山人の村」
「純粋種ではないがな」
「純粋種? 何だよオッサン。さっきからわけが分からねぇ! いつもと調子違いすぎるだろ!?」
「相棒。この村が普通じゃないことぐらい、もう分かっているだろう」
「…………」
言いたいことだけ言って、オッサンはまた壁を見つめる。
クラコウジ村の秘密。
住人が何かを隠して生きている? そんなことはない。村長も、周囲の家の人々も、ただの田舎者。不審者といえば、俺とオッサンと毛皮女ぐらいだ。
いや――――――。
知っているさ。あの遠くに霞む「何か」を。
「ミコトは世界を救う者だ」
「はぁ!?」
「山人のため…ではない。人間も海人も、求める者はお前だ」
「オッサン……。何言ってるのか全く理解できねぇよ!」
何も分からないまま、やがて俺たちは旅立ちの時を迎えた…らしい。
どこに、何をするために?
何も分からないまま、オッサンはしっかり旅支度を終わらせていた。そしてナギは案内人を名告り、そしてこの先、まずは穴に潜り、それから今度は登るらしい。面倒くせぇからあれだ、俺たちの戦いはこれからだってことでおしまい!
…………。
何も分からないまま、話は続くんだよチクショーめ!