1の2 毛皮女
人口三百人、旅人も滅多に来ないクラコウジ村に、見るからに怪しい女が加わった。
怪しい女は、ありていに言って生ゴミのような臭いの毛皮をまとったまま、ロッチのオッサンに付き添われて村長の元を訪れた。そして村長のはげ頭を大胆にも撫で回し、有耶無耶のうちに滞在を認めさせた。
そして怪しい女は……。
「なぜ部屋にいる? というか、臭いんだが!」
「貴方はレディに対する言葉遣いがなってないわ」
「誰がレディだよ、歩く生ゴミめ」
怪しい女は滞在を認められた。ということは、どこかに滞在する場所があったわけだが、今その物体は俺の部屋に突っ立っている。
まぁ、この部屋はロッチが俺に貸しているだけなので、所有権は主張しない。しかし、断じて生ゴミ女の所有物でもないはずだ。はずだよな?
「つーか、生ゴミって誰よ? ミコトちゃんはいつからそんなイケナイ子になったの? ナギちゃん悲しい」
「今日が初対面だ!」
「まったく、この美しい毛並みの魅力も分からないなんて、まだまだお子さまねー」
「少しは話を聞けよ」
木造平屋の隅にある、物置のような空間。無駄に背が高い俺が寝っ転がると、脚をまっすぐのばせないほど狭い部屋で、怪しい女は平然と座り込む。
その姿勢で、毛皮の下の麻衣から生脚が覗いていることに気づく。
まるでこの世界に古くから伝わる風習、そう、夜這いのようだ。たった今気づいたが、残念ながら緊張も興奮もしない。なぜなら…。
「せめて洗ってくれないか。生ゴ…、ナギさんよぉ」
「ほほぉ、やっと思い出した!? 思い出した!?」
「……それでいいから、言う通りだから頼む」
狭い部屋に悪臭源が鎮座したらどうなるか。興奮する前に気絶しそうだ。とりあえず、わけの分からない主張を適当に認めて追い出した。
怪しい生脚女は、べっとり油まみれの毛皮を引きずったまま、部屋を出て行った。近くの川で、せめて少しは臭いを減らす努力をしてもらいたい。というか捨てろよ、毛皮。
「ねぇミコトちゃん」
「ま、まだいたのか」
気を抜いた瞬間に声を掛けられると動揺するよね!?
もちろん、見られて困るようなことはしてないし、そもそも何がができるほど時間は経ってない。
「あの川、危なくない?」
「三歳児なら危険だ」
「ミコトちゃんはどうして意地悪なの?」
……………。
クラコウジ村を流れるハラエ川は、赤茶けた川面のせいで通称は「死の川」。実際には魚も泳いでいるし、水もうまい。
あ、最後は嘘だ。まずい。クソまずい。まずすぎて死ぬというなら、確かに死の川呼ばわりも嘘じゃない。
水量のわりに川幅は広いから、よほど流れの急な場所に行かなければ、何の問題もない。少なくとも、生ゴミ女は子どもじゃないから、どこに心配する必要があるのか分からない。というか、俺を知ってると主張するなら、あの川を憶えてないはずがあるか。
ようやく静かになった部屋。あれが座っていた場所には、毛皮についた油がべっとりと残っている。どうしてくれるんだ、拭いても取れないだろ、あれ。
冷静になって考えても、あの女の記憶などない。
だいいち、ミコトはロッチがつけた名だ。オッサンは神のご託宣でも聞いたのかも知れないが、俺にしてみれば勝手に呼ばれているだけ。あの女はもしかしたら、誰かと間違えているのかも知れない。いや、オッサンがつけ間違えたということか。
「オッサンの知り合いなんだよな、アレ」
「初対面だぞ、小僧!」
「じゃあなんで意気投合してたんだよ! つーか、なぜ家に呼んだ!?」
「……知りたいか? 子どもには分からぬ話を」
「いや、遠慮する」
夕方のランニングに精を出しながら、確認できることはしてみるが、予想通り大した情報は得られず。
ちなみに、オッサンは女好きで有名だ。それは間違いない。後腐れなく女を買うために独身を貫いているとほざくぐらいに。
トレーニングに週に一日の休みがあるのは、オッサンが近隣の町まで買いに行くからだ。ただな…。
「しっかり飲んでおけよ、相棒!」
「…考えてみりゃ、上流でアレが汚した水だぞ」
「なら手を合わせて拝んで飲め!」
「それだけは勘弁」
オッサンは家に女を連れ込むことはない。どんなに遠くの娼婦宿だろうと、自慢の健脚で往復するが、絶対に持ち出さないし、素人に手は出さない。
過去には、金に困った女が村に流れて来て、自分を買うように迫ったことがあった。その時にオッサンは、路銀を渡して村を追い出した。いや、定住して働くか出て行くかを選択させ、女は定住を拒否して逃げた。
だから違う。あの生ゴミ女には何かある。いや、あるのは最初から分かってる。
………。
なお、オッサンの訓練にはなぜか、ハラエ川の水を飲むことが含まれている。赤茶けたクソまずい水だから、村の人は決して飲むことはない。飲むのはオッサンと俺だけ。何の訓練なんだかね…。
男二人の楽しい一時が終わって家に戻ると、見慣れぬ女がいた。
…………。
「おかえり。早く晩ご飯食べようよ」
「えーと、………誰?」
長い黒髪をなびかせ、袖がちぎれた服から覗く腕は、真っ白と形容してもいいぐらいに白い肌。どちらかと言えば童顔だが、首から下は大人の身体。思わず怯んでしまう。
…いや、あぁ、まぁ。
誰なのか簡単に推理はできるのだが。
「おお貴様、なかなかの腕だな!」
「当たり前でしょ! なめないでよ、ナギなのよ!」
「会話の意味不明さは相変わらずなんだな」
汚れた姿が美女に化ける。どこかで聞いた童話のような話。
だけど何だろう。あんまり緊張してないな、俺。
汁物を手際よく盛りつける彼女の背後に、あのおぞましい毛皮が引っかかっているせいだろうか。
「洗ったのか、あれを」
「仕方ないから洗ってやったわよ。あの臭いが消えてナギちゃん泣きそうよ。ねぇ、何というかほら、実家のような安心感?」
「ゴミ捨て場で育ったのか、お前は」
俺は「なぜ捨てなかった」と言うつもりだったのだが、言葉というものは難しいな。
この家で初めて三人での夕食。
とりあえず生ゴミ女ではなくなった女…ナギを、仕方ないので質問攻めにした。料理の腕はあるし、受け答えからみてバカではない。だから素直に聞いた。なぜミコトという名を知っていたのかと。
猪肉の汁をがっついていたナギは、こう答えた。
「なぜって? 知っているからに決まってる?」
「……ああ。たぶん俺の質問が悪かった」
頭が痛くなってきた。
まぁしかし、ナギが俺をからかっている雰囲気もない。いや、女という生物は信用ならないと、俺の元の飼い主の豚は言ってたな。
それはどうでもいいか。
「じゃあ、神のお告げなのか?」
「何が? ナギちゃんの運命の人?」
「わかり合えない運命の人だろうな」
「なんだミコト、ワシが知らんうちに随分仲良くなったなぁ! 明日から修行をもっと厳しくしてやるからな!」
「どんな脈絡なんだよ!」
結局、分かったのはナギが海の方からやって来たという事実だけ。あの悪臭発生源は、肌身離さず持ち歩く彼女の分身だそうだ。まぁ、知らなくてもいいことは世の中沢山ある。
そうして食事が終わり、燈明の薄明りが一つだけの家は、すぐに静かになった。
俺は狭苦しい部屋に戻り、そして――――。
「なぜ部屋にいる」
「眠くなったからよ。坊やはそんなことも分からないの?」
「お前に坊や呼ばわりされる覚えはないが」
「坊やよ、ミコト。貴方は」
……………。
………………。
「おい」
突然雰囲気が変わったナギに、思わず身構えた俺。
しかし、次の瞬間に聞こえてきたのは闇を切り裂くような高鼾だ。
「こんなんで眠れるかよ、まったく」
生ゴミ女改め謎の毛皮女に振り回される未来を夢見ながら、渋々目を閉じた。それは夢じゃなく間違いのない未来、というか現在だよな。