2の1 胎内へ
※ミコト覚醒の章開始
念仏小屋には何日いたのだろう。
小屋というのは宿泊する場所だと思うが、ほとんど眠った記憶はない。いや、起きている時の記憶も怪しい。
一日の大半は念仏。そして食事、仮眠、それから――――。
「相棒! どうやら気に入られたようだぞ!」
「そうねー、なんだか楽しそうだわ。ナギちゃん嫉妬しちゃう」
ノージョ様にも、毎日一度はお参りに行った。白骨と、ふるふる動く舌。口にするのは念仏だけ。どの辺に楽しそうだったと判断する要素があるのだろうか。疲れているので考える気にもならない。
言い伝えによれば、千五百年ぐらい前に海の方からやって来た人。それは確かに人間だった。
しかしその姿は、首から下は人間だったが、鬼神やあやかしのような顔だったらしい。人々に敬われ、やがて山に去った。
で。
「今もこうして生きている、と」
「ノージョ様に生死など些細なことだ」
「アンタならそう言うだろうよ、キョウ」
俺を殺した女の解説。クラコウジ村を出てから、文字通り生死の境は曖昧になっている。
そもそも今の俺は生きているのか?
いくらオッサンに鍛えられたとはいえ、念仏小屋の苦行は人間の限界をとっくに超えている。一週間は経過したと思うが、睡眠時間は五時間もない。山人の話が本当なら、眠らない分の命を縮めているわけだ。
それにしても…。
朝から夕暮れまで、山頂を見続けている。
そして、少し離れた場所の塔の姿も。
アーミダーの化身。それはこの上なく美しく、誰もがひれ伏すほどだという。
正直言えば、ひれ伏す程度の美女なら二十四時間一緒にいる。最近は、たまに身体が光っているように見える時もある。単に夕陽が反射しているだけなのかも知れないが、オッサンのように発光しても今さら驚きはしない。
うむ。
そのうち俺も光りそうな気がする。オッサンに聞いても、どうやって光るのかは全く分からないけど。
たぶん一週間ぐらい過ぎた朝、ようやく念仏小屋の日々が終わった。
荷物を片づけると、出発前に今日も挨拶に行く。
「ではノージョ様、ワシらは行って参ります。お身体に気をつけて」
「風邪ひかないでねー」
二人の挨拶に合わせて、舌はふるふると動いている。
あの姿でどうやって風邪をひくのか問い詰めたいと一瞬思ったが、口にしたら負けのような気がしたので黙る。
なお、ナギは念仏の間もずっと毛皮を羽織っていた。まぁ朝夕は冷えるからそれも仕方ないのかと一応納得したけれど、相変わらず汚い。まぁ…、羽織っていなければ、俺の煩悩が立ち上がりそうだから、ちょうどいいのかも知れない。
女性二人は肌も艶やかで、何日も完徹した身には全く見えない。それを人間じゃないといえば、自分にはね返ってくるだけだ。
小屋をたった四人は、草原を抜けて笹藪に分け入る。
例によって、オッサンがすべてをなぎ倒して行くので、足元に気をつけさえすれば楽な山道。相変わらずのとんでもない速さで坂を降りて――――。
「川だ」
「ミコトちゃんが夢にまで見た川よ」
「さすがに夢には見ない」
それは物見から降りる時に渡った川だった。笹藪の道の分岐は、今回もどこにあったのか分からないまま。先頭を歩ければ気づけたのかも知れないが、オッサンの後を歩く限り発見できそうにない。
川は半月以上前と変わらない水量で滔々と流れている。もう秋だというのに。
「小便するなよ相棒! 下の村の連中の迷惑だ」
「いつも川でやってたのはオッサンだろ」
「きったな!」
「何を言う! 田んぼの肥やしだ!」
「もう稲刈りしただろ」
誰がこんな川にするか。溺れるだろう。足引っ張られるだろう?
「…ここには河太郎はいるのか?」
「いたら挨拶に来るわよー」
「一応聞くがナギ、何のためだ」
「ミコト様が現れた、ミコト様に跪け!」
「聞くんじゃなかった」
オッサンもナギも妙にはしゃいでいる。いや、河太郎とか言い出した俺も似たようなものか。久々の景色。草原と山頂と塔の生活にはもう飽き飽きしていた。
結局、オッサンは川を渡ってから草むらで立ちション、誰の足も引っ張られず、挨拶に来る奴もいなかった。はしゃぐ三人に、もう一人は加わることもなく、やがて坂を登り始めた。
足元の枯れ葉は厚みを増した。
その分、ミズナラの森は少しだけ明かりを増している。急坂を登り、俺たちは再びあの場所へ向かうと思われたのだ…が。
「あれ? ここは」
「気づいた? さすがミコトちゃん」
「気づくだろ、普通は」
わずかに坂を登った先に分岐があり、キョウはそこを左に進んだ。その方向はゆるやかな下り坂になっており、物見へ行く道ではない。どうやらあそこには行かないらしい。
そう。
行き先はもう聞いている。タイナイイワ。物見ではないのだから、別の道を進むのは当たり前だ。当たり前だけど、少しだけ、いや相当にほっとしている。
俺は物見で殺された。
地面に落下した瞬間は何も記憶にない。ただ落下して下降するわずかな時間を、ぼんやりと思い出すだけ。そして、あの野郎。
ミコト。
あの時、三人と旧知の仲だったミコトは、確かに俺の頭に巣食ったはずなのに、全く姿を見せていない。不気味なほどに。
分岐した道は、しばらく下り坂が続き、やがて水の音が聞こえてきた。どうやらさっき渡った川の上流部に近づいたらしい。
ただし道は川に出会うことはなく、川音が遠くに聞こえる距離で上り坂に変わる。
相変わらずミズナラとブナの林。黄色い葉を踏みしめて、すべらぬよう気をつけていると、別の道に出会った。一時間ほど歩いたと思う。
林の中を歩いているので、現在地を確認する手段はない。ただ、川に沿っているのだから、迷っている感覚もないし、そしてこれだけ水量豊富な川があるのだから頂上には遠い。恐らくは山の周囲をぐるりとまわっているのだ。
出会った道を右に折れると、急坂になる。ミズナラの背が低くなり、やがて青いバラモミが混じり始める。ノージョ様に会いそうで不気味な坂を登ると、突然視界が開けた。一面の草原は、黄色と茶色が入り混じっている。
「ここから横道を行く」
「わざわざご説明どうも」
今まで黙々と先頭を進んできたキョウが、草原の外れの辺りで突然行き先を告げたので、思わずイヤミの一つも口にしてしまった。
草原は見晴らしはいいものの、頂上方向は見えない。手前の山が邪魔をして隠れてしまうらしい。まぁあっちの方なんだろうと予想はつくだけマシか。
その予想の限りで言えば、ここは頂上に近いはず。もちろん、まだ相当に登らなければならないが、直線距離は今までで一番近づいていると思う。それなのに横道に行くということは、頂上に登らないわけだ。
まぁ別に俺は頂上に登りたいという気分でもない。というより、クラコウジ村を出てから今まで、自分が何をしたいのかよく分からない。はっきりしているのは、拷問のような日々が嫌じゃないことだけ。考えてみれば、それこそが俺に巣食ったミコトの罠なのかも知れないな。
「あ、あれは…」
「鳥だ、飛行機だ」
「飛行機って何だよ」
突然目の前に現れたのは、怪人と戦う男ではなく、塔だった。
クラコウジ村からいつも眺めていた塔が、目の前とは言わないが相当に近くにある。霧に包まれてほとんど隠れているけれど、石造りらしいことまで判別できる。
………とりあえず、高い。
山頂は見えないから比較はできないが、こんな山の上にあるようなものではない。
「あそこに行きたい? ミコトちゃん」
「…………」
冷静に考えてみれば、別にあれに登らなければならない…、そんな理由はない。いや、冷静に考えてみるなら、今ここにいる必然性すらないのだが。
ただ、興味はある。
あんな異様なもの。アーミダが住んでいる? そんなはずもない何か。飛んで火に入る蛾のように、意味もなく惹きつけられる。
「どうせ行かないんだろ? その…」
「前を見ていろ。道に迷う」
「はいはい、キョウはやさしいなあ!」
結局、遠巻きに進んで行く。
横道は文字通り山を巻いていく道で、あまり登山者はないらしく道跡は不鮮明。笹藪ならオッサンが踏み潰すが、草原とミヤラナラの低木林ばかりで、しかも霧がたちこめて周囲もよく見渡せない。あの大きな塔も、いつの間にか確認できなくなってしまった。
まぁ、その代わりに楽な道だ。楽なので先頭のキョウは走り、オッサンは無理矢理後を追い、ナギは涼しい顔で駆ける。三人ともどういう体力してるんだと思う。
やがて霧の中にバラモミの木が数本。そして巨大な岩が見え隠れする。
………。
「相棒!」
「着いたのか」
見上げるような高さの巨岩。ところどころにシダが下がり、わずかなすき間に枯れ草も見える。陰に隠れるようにバラモミが葉を茂らせている。相当に古い岩なのだろう。
ただし。
「タイナイイワ…だよな?」
「どうした相棒! 生きて辿り着いたのが夢のようか?」
「そりゃ悪夢だが、それよりも…」
タイナイイワ。その名前の意味を俺は知っている。クラコウジ村の近くにもタイナイという場所はあった。そしてタイナイが胎内だというぐらいの知識はある。
その知識に照らし合わせると、この巨岩は明らかに胎内ではない。ただ大きいだけの、どこにでもありそうな岩だ。岩だから違和感。あー、この状況で言ってしまった。
「なぁに? ミコトちゃんはイヤらしいこと考えてる?」
「俺が生まれた場所だろ。何がイヤらしいんだ」
「よく言った相棒! そうだ、ワシらは皆あそこから生まれてきた!」
「オッサンの方がイヤらしいよな?」
しかし軽口を叩きながら、三人は何事もなく休んでいる。どうやらここがタイナイイワで間違いないし、その岩に胎内らしさがないのも織り込み済みのようだ。
まぁいいけどさ。
そもそも、俺はなぜここに来たのかすら知らない。胎内ったって、こんな大男が入ってきたら困るだろうに。
「それで、ここからどこかに行くのか? それとも、ここで念仏か?」
「夕方を待つ。それまで寝ていろ」
相変わらず的確なキョウの指示で、オッサンとナギは本当に横になって目を閉じている。
しかし。
ここは山のかなり高い場所。しかも季節は秋。紅葉が終わって枯木枯れ草ばかりの景色なのだ。一言でいえば、寒い。
そしてここには小屋のようなものは何もない。なだらかとはいえ稜線で風も強い。寒い。どうやって寝るんだ。二度と目が覚めなくても不思議じゃないだろ?
だが、そんな不満を口にする相手がいない。
キョウは一人、仁王立ちしたまま麓の側を向いている。そしてやはり、時々その身体は光っているような気がする。
人ならざる者の集団。
ミコトが寄生する俺もまた、その一人なのだと無駄に実感させられる。
「キョウは…、いつもこうやって案内しているのか?」
「……………」
「何となく俺はお前に感謝している。それはミコトの意志だと思う。過去にも連れて来たんだろ?」
「……記憶にない」
アーミダなら拝んでしまう。
この年齢不詳の女は、ミコトを連れ回して何をする気なのか。何も分からないけれど、今の俺が不快に感じていないのは、俺の頭に巣食ったミコトが作用しているのだろう。
ミコトにとって、キョウは嫌な女ではなかった。
いや、ロッチのオッサンも、ナギも。
せめて風除けがほしい俺は、バラモミの根元に腰をおろす。
周囲の地面には、かわらけの破片や焦げた跡が見える。ここがただの岩でないことははっきりしているが、オッサンは唸ったりしなかった。まぁ、この辺には石像らしきものは何も見かけないから、オッサンの管轄ではないのだろう。
木陰は木陰で、ノージョ様が現れそうで気が抜けないが、風はだいぶマシだ。ふと気を抜くと眠気に襲われる。このまま眠っていいのか判断がつかないまま、意識が遠のいていった。
「起きろ相棒! 時間だ」
「あ、ああ?」
オッサンに乱暴に揺すられ、渋々目を開けると、山は赤かった。
……………。
「いい景色だろう?」
「逢引したくなっちゃうでしょ?」
「そんな相手はいないな」
身体を起こして、赤く染まる三人を見て、そしてタイナイイワを見る。
夕陽に照らされた岩。周囲に遮るもののない孤立した岩は、その全体が赤く色づいて美しい。確かにそれは認める。
しかし、美しい。ただそれだけだろう?
「では始める」
そこにキョウの声。さっきまで俺が寝ていたバラモミの根元で、笑いもせずに立っている姿は、相変わらず現人神のようだ。
そして―――――。
「ええ………」
キョウはバラモミの幹に両手を添えると、ものすごい音とともに左右に裂いた。オッサンの身体より太い幹を、細い腕で簡単に裂いてしまった。
無茶苦茶だ。
そう、無茶苦茶だった。
「行くぞ」
「いよいよだぞ、相棒!」
「……………」
バラモミの幹の裂け目。
それはただ、岩の周囲に生えている大樹を力任せに裂いただけのはずだった。
「ノージョ様、行って参ります!」
「ミコトちゃんも早く来なさいよー」
裂け目の奥には、何かがあった。
夕陽が照らす奥に、何か通り道のようなものがあって、キョウに続いて二人もそれを通り抜けていった。
どう考えてもおかしい。
だけど、その時の俺は、深く考えるだけの余裕もなかった。
そしてただ、三人に置いていかれては困ると思ったのだ。
「待ってくれ、ここでいいん……」
生木の臭いが漂う裂け目を通り抜けようとしたその瞬間、俺の意識は強制的に遠のいて行くのだった。




