1の1 クラコウジ村
「ミコト! あとは柵の周りを百周だ。あっという間だぜ!」
「俺を殺す気か、ロッチ先生」
「殺せるなら殺してるぜ、相棒!」
「オッサンの相棒になった覚えはないぞ!」
広葉樹の森の谷間、赤茶けた川沿いに開けた盆地には、か細い街道が通っている。旅人の姿もない街道のその先に、世の中から忘れられたような集落が一つ。人口は三百人。山奥のわりに人は多く、わずかな農地や山仕事で生計を立てている。
そんなひっそりとした集落で、俺たち二人だけは騒がしく楽しいランニング。
ソバや蕪の畑の周囲に、継ぎ接ぎだらけの柵が巡らされている。一周どれぐらいなのか分からないが、百周走ったらその時点で人間かどうか疑わしい程度には広い。ああ楽しい。
そう。楽しい…のか本当のところは異論を挟みたいが、鬼コーチに睨まれてどうしようもない。鬼、鬼、鬼。本当に鬼なんだと思うぜ。
「蹴り脚であれを破壊! 的を見失うなよ」
「はーい」
「ふざけんな、小僧!」
ふざけるだろ、普通。
麻布の服は一ヶ月でボロボロ。なぜかと言えば、死ぬほど走らされ、その疲れ果てた脚で的を破壊。しかも、オッサンは「的」って言ってるが――――。
「さらば名もない戦士、安らかに眠れ」
ブレイクダンスでも踊るように地面に手をつき、回転させた左脚一閃。悲鳴とともに吹っ飛ばしたのは、本日の獲物だ。
村の農作物に甚大な被害を与える大猪は、同時に重要な食糧でもある。オッサンは村長から一頭捕獲の依頼を受けるたびに、それを俺のトレーニングに組み込んだ。脳ミソなさそうな見た目のくせに、悪知恵の塊みたいだろ?
「肉は傷んでないだろうな?」
「ちゃんと喉元をやったからな。もう終わりでいいだろ?」
流れる汗を拭いながら、馬をつなぐ石柱にもたれかかると、オッサンは横たわっている猪を片手でつかみ、俺の質問に答えないまま去って行く。
もとより返事なんて期待してないさ。
熊のような背中の向こうに、夕日に輝く何かが霞む。村長が言うには、天に届く塔らしいぜ。んなわけあるかって。
一年前。分厚い胸板に丸太のような腕、ヒゲ面、白髪交じりと、誰もがお近づきになりたくないと避けるような大男が、ホウジという町にある市場を訪れた。
ロッチと名告ったそのオッサンは、市場で俺を購入した。
現金一括払い。一応、若くて力はあるから、安値はついていなかった商品、俺を。
そう。
俺は奴隷だった。
いや、親切な孤児院に入れられて、犬の餌のような素晴らしい食事を与えられていたはずだったが、気がつけば首輪が付いていた。
朝から晩まで肉体労働を数年間。永遠に続くと思われた日々は、突然犬小屋から市場に移されて終わってしまった。
持ち主の豚が闇討ちされ、組織は解体され、金目の物は売り払われた。俺はその、金目の物だった。
一言で表現すれば、騙されていた…のだろう。生まれつき身体は丈夫で、そして生まれつき碌な目にあっていないから、豚とその手下の顔ばかり眺める日々に、さして悪い記憶はなかったけれど。
ロッチは遠く離れたこの村まで、買ったばかりの奴隷――俺だ――に荷物を持たせ、のんびり歩いてやって来ると、村長に俺を紹介した。
白髪交じりの小柄な爺さんに、ロッチは言った。「クラコウジ村の新しい住人だ」と。
爺さんは俺に何を確認することもなく、ただ名前を聞いただけだった。だから俺は、答えなかった。
名前なんてなかったから。
するとロッチは言った。「コイツはミコトだ」と。誰だよ…と思ったが、所詮俺は奴隷だ。どうでも良かった。
金目の物を、まるで人間のように扱うオッサンは、何か頭のネジが足りないんじゃないかと思った。
ノウジョ谷と呼ばれるこの辺りには、ハラエ川とその支流が流れ、ハラエ川に沿うように一本の街道が通じている。クラコウジ村は、その街道沿いに発達した細長い集落で、端から端までは歩いて二十分以上もかかる。たった三百人の村にしては、やたら広い範囲に民家が散在している。
あまりに細長い集落なので、上、中、下とそれぞれを呼ぶ。ロッチの家があるのは上、それも端に近い。村長宅は中で、村で一つのなんでも屋も近くにある。開くのは、行商人が来た時だけで、月に数日もないが。
民家は茅葺きで、屋根はほぼ例外なく急角度に作られている。冬の雪対策だ。平らな屋根では、重みで屋根が潰れてしまう。
そしてもう一つの特徴は、玄関が立派なこと。どこかの社殿かと疑うほど立派な玄関をそなえた家も、ポツポツ存在している。これは村の伝統らしいが、詳しい事情は分からない。
社殿といえば、村には大きな社が五つあり、それぞれは周囲に小さな祠を従えている。集落の規模のわりに多いのは、この村がかつては行者の里だったからだと村長が言っていた。
今は行者の姿はない。街道も元は行者道だったらしく、今はわざわざこの村を通過して行く旅人もないから、行商人の他は猟師と山菜採りぐらいしか用がなくなっている。
つまり、どうしようもなく寂れた村だ。
「さぁ相棒、もっと食え!」
「散々食った。それと、相棒ではない」
「お前はバカな奴だな。ミコトの名にふさわしい男になれ!」
「だからアンタが勝手に付けた名に、ふさわしいも何もあるか!」
理解できないまま時は過ぎ、ひょろ長だった俺は村で二番目の力持ちになり、村で一番背が高くなった。いや、背は最初から一番だったのだろうが。
オッサンは俺を奴隷として扱わなかった。それどころか相棒だ。どこの世界に家畜を相棒呼ばわりする奴がいるんだ。ああ、いるか。愛馬なんて相棒だよな。
「いいか、ミコトはワシが名づけたんじゃない」
「だからアンタ以外に誰がいるんだ」
「神だ」
「はぁ?」
「神がお前の名前を与えた。ワシはただそれを伝えただけだ。いいかミコト。お前の一挙一動は神が御覧になっている」
ダメだこりゃ。炙っただけの猪肉にかぶりつきながら、天井を見る。
オッサンの言い分によれば、俺を買ったのも神の思し召しらしい。そのくせ、どんな神なのか分からないって言うからな。筋トレのしすぎで頭がいかれて幻聴が聞こえてるんじゃないかと思う。
まぁ。
その幻聴のおかげで、今のところ悪くない日々。少しぐらい与太話につき合ってもいいような気はしていたんだ…が。
※※※※※※※
幻影のような。
かつて失ってしまった、自分の半身のような。
甘い記憶のような。
夢と現実の狭間で、そろそろ思い出そうとしている?
あの、名前を。
※※※※※※※
麓はまだ猛暑の名残りの季節、クラコウジ村は一足先に秋の気配が漂ってくる。
格好を付けてみたが、目覚めたら寒い。それだけの話だ。そして今日も、昨日と同じ日課が待っている。
「見つけた。ようやく見つけた。……ミコト?」
「疑問形にするなら、見つけたという部分を疑問に思ってくれ。というか誰だ。俺はお前なんて知らない」
「私は知ってる。だって、私はナギだもん」
村に一年ぶりの流れ者は、薄汚れた…というか思いっきり真っ黒な毛皮を羽織った若い女。その不審者はボソボソ声で意味不明な台詞を吐き、とりあえずオッサンの同類であることがいきなり確定して、そして――――。
「ミコトは動き出す。今がその時。ナギはそのためにいる」
「俺はお前を知らない。だから動き出すことはない」
「よし、せっかくなのでロッチ様が宣言してやろう! ミコト、お前は動く!」
「何のせっかくだよ、オッサン! つーか、知り合いなのか? コイツ」
「ワシは知らん!」
当事者があずかり知らぬまま、時は動き出すのだった。たぶんな。
※剣も魔法もバトルもありますが、勇者や魔王はいません。
ブレイクダンスなんて言葉がある世界? 違います。この小説はあくまで日本語に翻訳されています…という建前で。