アカシアの釘跡
遥か、遥か昔。
未だ、この大地の上に、概念によって構築された古い神々が、今より遥かに多くいた。我らが父は、彼らを駆逐した。天使、己に似せたもの達を使って、1柱たりとも残さずに駆逐せしめたのだ。
しかし、古き神とは厄介なもので、砕かれ、千にさかれたその残り滓を集めて再構築してを、本日只今まで、その争いが続いている。
その間にも人の世は発展を続け、人を傷つけずに争うことの叶う場はどんどん失われ、ひとつ、条約が結ばれ、争いの形が変わった。
ひとつに、互いが直に交戦することを禁ずる。
ひとつに、人を直に傷つけることを禁ずる。
そうして生まれたのは、人に、代理の肉体を与え、我らの力を貸し与えて争わせる戦争様式。
稀有な金の魂を持つヒトを、古い言い回しにおいては『巫女』として、我らの代わりに、古い神と争わせる。
今ような言い回しにして『魔法少女』。
それが、あなた達である。
美しい天使の甘言に乗ってしまった染野が、まず彼に求められたのは、大量の書類の確認とサインだった。どこで調べたのか染野の個人情報が書かれた紙は内容が正しいか確認されたりと、細かく雑多なそれは魔法少女の(この表現が正しいか怪しいが)雇用契約書のようなものであった。
曰く、如何に神に使える巫女であれど、その身は俗世の決まりの中にある、それを使うのならば報奨も保護も、俗世の規範にのっとらなくてはいけない、との事なのだが。
にしても世俗に染まりすぎじゃないだろうか、労働時間やら給与やら、かなり事細かに書かれている、ような気がする。
染野はそういった事を細かく読み込んで噛み砕いて記憶する質ではなかった。
ただまぁざっくりと。
ざっくりと、染野を、と言うか魔法少女を優遇しすぎではないかと言う程の内容が書かれている。
理屈的には、魔法少女としての任務を遂行する限りは、例え戦闘行為を行わなくてもちょっといい企業の勤め人の月給くらいのお金が貰える。
「ええと、まるしゃーる、さま?貴方はどうするの?」
「どう、とは?」
染野は契約書のある条項を指さした。
【魔法少女を担当する天使は、基本的にそれと行動を共にする。】
маршалはそれを覗き込んで、ああ、と染野を見た。
とぷり、と彼の輪郭が曖昧になる、溶ける。小さなお手玉が男性になったように、男性が小さなお手玉になる。
それはぽて、と愛らしい効果音で机に落ちた。
「共同生活にあたり、こちらであればお前の心理的なさわりは薄かろう。」
「ああ、そういう」
心理的な障りとか、移動とか、それはそういった目的で小さく愛らしくなっているらしい、思わず頬をつきたくなる柔らかいラインを眺めて頷く。手のひらに乗る大きさは、カバンの中にももちろん入り込めるし、ポケットに入れることすらできる。
「ああ、それから、様付けは必要ない。他の人間であればいざ知らず、或いは原初の名を持つ方々であれば知らず。鋳造された俺たちと比べれば、お前達魔法少女の方が余程貴重で重大で、貴ぶべき存在だ。」
お手玉の姿から聞こえる、安定したバリトンボイスはどれだけ眺めても落ち着かない。まして、このお手玉は一々言い回しが面倒くさいのだ。それはどうやったって、この姿と不釣り合い。
「長いので短くして貰えますか?」
「俗世の慣習を除いて、お前が敬う必要があるのは、我らが主と原初の天使のみと言う理解でいい。」
「なるほど……え、いや」
目の前の、今でこそお手玉であるそれは、ベースとしてはミカエルと言っていなかったか?難しい言葉を使っているが、雰囲気から受け取るにはそのコピー、に類される存在であるはず。
「それは、流石に……えっと、魔法少女とは、そんなに高尚なものなんですか?」
染野にはおよそそうは思えない。選ばれた、という事実からの優越感や、そういったものは少なからずあれども、いや、あるからこそ、こんな在り来りに低劣な生きものが、神に使えるために生まれ出た天使より尊重されるなんて。
まして信仰を逃げ場所にしている自分が。
「何故尊いかは人の身で理解する必要はない。ただ、私たちはそのように尊重するし、私たちに対しては対等として接して欲しい。」
要するには、人には理解できない、この天使なりの基準があって、その中では染野は、そのように扱われる、と、内心で無理やり咀嚼する。到底呑み込める大きさにはならないが、無理やりや頷くしかない。契約書にもしつこいほどその旨が書かれているわけだし。
「納得することにします。」
「ふむ」
ぽん、とお手玉は跳躍して、染野の腕を伝って頭の上に乗った、染野からは見えないが、感触からして、あの毛束で頭を撫でるような仕草をする。
人らしい体温がないせいだろうか、人らしい肉感がないせいだろうか、その行為に酷く安心感を覚えた。
「物分りがいいのは助かる。」
満足げにお手玉がぽんぽん、と染野の頭を数度優しく叩いた。
「……ああ、」
「何か?」
「いや」
お手玉は染野の頭から飛び下りる。飛び降りながらまた人の大きさに変わったらしい、着地の音はお手玉の重量もやわらかさもなかった。
「お前の夕食を邪魔しただろう、なにか作ろう。私が有能で、そばにおいて有益だと理解させてやる。」
慌てて振り返る、маршалと目が合う。
天使の翼を隠したらしい男は、にや、と、およそ天使らしくない、妙に自信ありげな、何処か闘争心の強そうに見える笑みを浮かべていた。
「使っていい食材に決まりはあるか?」
「あるものは好きに使って構いません。」
「そうか、ではその間にお前はその書類を終わらせておけ。」
「…………善処します。」
まだ手をつけてすらいない書類の束を見ながら、染野は軽いめまいを覚えながら文字の羅列の紙に手を伸ばした。
背後から、何かを開け閉めしたり、調理道具を吟味したりする音がする。ふと、染野は今更のように首を傾げた。
「маршалさ……ん」
「なんだ」
「料理、できるんですか?」
天使はそもそも人と同じ食事をとるのか、文化水準は同じなのか、もっと言えば、天使とは天に奉仕する存在でこそあれど、それは食卓に関わることなはずはなかろうとか。そういった疑問を何気なく口にすると、後ろから喉の奥で潰した嘲笑が聞こえる。
「当然だ、魔法少女を担当することが許される基準のひとつには、乙女の世話がひと通りできることも含まれる。」
「至れり尽くせりですね。」
書類の文面からしたって、今の基準にしたって、いくら貴重だからといえど、そう思って口にした言葉に、何故か、暫しの沈黙が落ちる。
「怖い思いを、させるからな。」
思いの外、低くてしっかりした声。海より、それこそ彼の瞳の色より深い意味のありそうな言葉を、やはり染野は咀嚼するのを辞める。
恐ろしくなってしまいそうで。魔法少女という柔らかな言葉の裏の重責にが、選ばれるなどという甘い言葉の裏の痛苦が、蛇の舌のように覗いた気がした。
思考を停止して、染野は、天使が料理を作る音をBGMに書類にサインをするだけの作業に戻る。1度乗った甘言から降りることなんて出来やしない。
そんなことをした、あの美しい天使に失望されてしまう。想像したら、肩甲骨の間の当たりがぞわりとした。
愛蛇が食べ損ねて潰したネズミの血が水苔を汚していて、それすらもが怖かった。