ダヴィドの余韻
ひとつの意味不明を排除して、染野はやっとため息をついた。それは深呼吸に近く、未だ内側が強ばって痛むからだと混乱した頭を冷却しようとする感覚に近い。なんども、なんども、それを繰り返して、ようやく熱いような脳の痛痒をやり過ごした。
ちらりと水槽を見遣ると、蛇の小さな黒い石のような2つの眼がじぃと染野を見つめていた、感情を感じさせない眼差しだが、空腹の訴えとして染野はそれを捉える。
「待っててね」
なんとなく毎度声を掛けてしまうのだが、そういえば蛇は人の言葉がわかるのかしら、と何度目かも分からない思案をする。聴覚が鋭いらしいから、聞こえているというのに間違いはないと思うけれど。
冷凍庫に入れたマウスを解凍して、ピンセットで蛇の前にぶら下げる。少し動かす。
しばらくしたら、空腹だったらしい蛇はそれに容易く食い付いた。ぐぱ、と開かれるピンク色の生き物の口の中、噛み砕くための歯を持たない、つるりとした粘膜。
噛み付かれた拍子に、マウスの白い毛並みが波打つ、その色合いが実のところ、染野は結構すきだった。骨のない軟らかい表皮と水分の多い腹の中身が、咥えられたら圧で偏った形。
きぃと窓の枠の擦れる音がした。ぞわりと総毛立つ感覚を頬に感じながら見遣ると、先程の妙な生き物が一生懸命に毛束で自分が侵入する程度に窓に隙間を開けて部屋に入ってくるところだった。体を通す時にデフォルメされた頬が寄って、妙に醜くて滑稽に見える。
その生き物はキッと、まん丸の大きな海色の瞳の眦を釣りあげて染野を見る。いや、それは睨むというのが近いのだろう。しかしどうにもめいっぱいデフォルメされたような見た目と、柔らかそうな曲線からか迫力にかける。
「人の話は最後まで聞け。」
「ごめんなさい、私、お手玉の知り合いはいなくて。」
少し慣れてきてしまったのか。いや、それよりも、こんな異常なものが普通の人のように話すから、1周まわって冷静になってしまったのかもしれない。
「ああいるはずもないな、そんな知り合いがいるのは魔法少女くらいのものだ!」
その生き物はどこにそんなような筋肉があるというのか、お手玉のようなからだで跳躍して水槽の上に飛び乗った。近づいた目線、愛らしいフォルムに反してその生き物は怒っているらしいことが伝わる。
「そしてお前はそれになる」
「何を言ってるの?」
染野は軽くこめかみを撫でた、鈍い頭痛すら感じる。このお手玉は何を。意思疎通が図れると思った矢先にこれだ。
魔法少女なんて、まるで夢見がちな、幼い頃ならば目を輝かせた言葉を、やはり幼い頃ならば目を輝かせただろう異常の存在が口にした。理解を拒む脳と、ただ音を受け取る耳が乖離するような気がした。僅かな吐き気。しかし、そのお手玉が言うのは紛れもなく日本語。
「天に坐す我らが神に代わり、地に蔓延る古き神々を屠る巫女の役割、その資格をお前は持ち、それに選ばれた。」
けれどお手玉が言い出したのは、そんな幼いメルヒェンよりもずっと、染野にとって強い言葉だった。ご都合主義のアニメよりずっと、この異形を受け入れて縋りたくなる言葉だった。
お手玉が跳ねる、それはじわりと輪郭を歪ませながら光の粒子になって拡散される、そしてとぷり、と音を立てそうな動きでその光の粒子が別の輪郭を再構築する。まるで、染野にそれを教える為のように。
まず視界に映ったのは、美しく力強い猛禽の羽根。下校中に拾ったあの風切羽によく似た羽が整然と並ぶ翼。
お手玉だったそれは、その、デフォルメされた人間の面影を強く残して、人によく似た姿になった。
それに、ごく自然に、けれど震えながら染野は頽れる。
「あなたは、悪魔なの?」
咄嗟に出てきたのはそんな言葉、否と答えられるのは分かっても、予防線を張りたかった。この美しい存在は、染野を甘言で騙す為では無いと、嘘でも聞きたかった。
だってそれは、夢よりなお美しい幻想。
「そのように見えるか。」
「…………いいえ。」
泣きそうだった、夢でもいいと思った。夢であるなら、目覚めた己よ、忘れないでくれと。
もし現実ならこれは、本物の奇跡。染野の前に舞い降りた奇跡そのもの。
「私の名はмаршал。神に似たる方様を鋳型とし、唯一の父の敵を屠るために作られた第41の複製。」
それはあまりに美しかった。
斜陽を孕んで琥珀色に輝く神、海を思わせる碧の瞳を備えた、美しく、そして彫刻じみた均整の男の姿。涙が出そうなその美しい姿の肩甲骨のあたりからは、身の丈を優に超える大きな猛禽の翼が生えていた。
奇跡が、まるで洗礼のように染野に降り注ぐ。男の姿と声で以て。
「その私が、神の尖兵としてお前を選んだ。桜井染野。」
幾度となく夢見て、縋って、その教えと存在によって染野を救い続けたものの片鱗が、目眩がするほど甘い言葉を囁くように、空気を震えさせている。
「たとえヒトに捨てられようとも神は神、古き彼らを直に屠るのは、人の手でなくてはならない。その槍を、その術を。お前に預けようと思う。」
そしてあろうことかその生き物は、跪く染野の前に、躊躇いすらせず膝をついて、染野に真っ直ぐ目を合わせる。力ない染野の首に手を添え、目が合うように持ち上げる。
海のようでありながら、どこまでも透明で、そして、疑いを知らないような目が染野を覗き込んだ。
「この提案に頷くか、桜井染野。」
問の形を取りながらも、彼はまるで、染野が首を横に振るなどとは思いもしないような自信に満ちていた。事実、染野は人形のように、静かに首を縦に振った。
その時の、その男の顔といったら。
もし染野がそれに充足を感じるような女であったなら、さぞ、女としての自尊心を満たされたことだろうけれど。
染野は、この、高校生の一人暮らしには広すぎると思っていた、それでも狭いような部屋に降臨した奇跡に震えるので精一杯だった。
神様どうか、こんな奇跡を与えておいて見捨てないでくださいと、必死に祈っているほどだった。
「そうであると分かっていたが、なるほど。」
天使は、маршалは、慈しむように染野の頬を撫でた。大きな手で、今更のように気づく、人のような温度だった。
「何故、私であるの。」
その眼差しを見返しながら、染野の口を着いてでたのは問いかけ。だって恐ろしいから。期待だけ差せられて、選ばれたという自尊心を満たされて、そうやって騙されて傷つきたくなんてなかったから。
маршалは目を細める、男の姿は、そういう笑い方をすると好戦的に見えた。染野はこの男が如何様なものか分からないが、その笑顔は清廉な天使の像からはかけ離れている。
「お前がその資格を持って生まれつき、その年までその資格が残り、私が選び、そして、人を創りし御方様がお前で良いと許可された。」
それはそれは、素晴らしいことを語るように、猛禽の翼の残忍な目元の天使は染野に語った。
「何にも代えがたい無垢な黄金の魂。穢し難い白金の信仰。それから、アズラエル様に許される美貌。」
一つ一つ、なぞるように丁寧に、染野の中に落とし込むように、酷くゆっくり天使は語る。
「誇れ、桜井染野。誰にでも許されることではない。」
そんな染野と天使をよそに、蛇の食む鼠は、腹を裂いて赤い腸で、その潔癖な白い毛並みを汚していた。