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エディデアの末裔

 「そう、貴方も行くの。」

 白いまつ毛がひとつ、瞬きを描いた。太陽や炎の色を思わせる独特の虹彩が、海を映した碧を見上げる。過剰に白い姿は、眩い白の神殿にあって、その光に溶けるような錯覚を与えた。

 「ああ」

 ひとつ、頷いて見せれば白いまつ毛は上下の幅を狭めた。

 白い翼が震えた。

 「()よりも潔癖なくせに。ついに見つけてしまったの。」

 真っ白な髪を男の手が撫でた。白髪は僅かに身じろぐだけでそれを受け止める。

 「寂しくなる。」

 女に近いかたちが、拗ねる様子で唇を尖らせた。さびしく、と思わず復唱した。

 「お前はもう少し、同業と仲良くした方がいい、あいつも心配していただろう。」

 わしわし、頭ごと揺らすように男の手が撫でると、女のかたちはやはり白い眉を寄せた。

 「それなりには仲良くしているから。それより、貴方。」

 「なんだ。」

 「ヒトはとても脆い。取り決めと言ったって、神の相手には弱すぎる。」

 「俺が選んだ巫女が不服か。」

 2人が相対する間にはひとつ、大きな水盆が置かれていた、なみなみと水が満たされたそれの表面は張り詰めて、何事もなければ鏡の役割を果たすほどだ。

 太陽のような、炎のような瞳はその水鏡に視線を落とす。海を映したそれも、その流れを追って水盆をみた。

 「不服なんてない、貴方が初めて選んだだけある、尊い黄金(きん)の魂。……よく見つけられたものだわ……ええ、だから尚のこと、貴方が心配。」

 白いまつ毛は、太陽を隠した。

 「この香りが濁っても壊れても、いなくなったりしないでね。」


 「わたし、あなたを殺したくはないから。」


 「……はっ」

 男は口元をゆがめて、嘲るような調子の声を向けた。

 「俺は殺せるのか。」

 女のかたちは、口元に緩く笑みを描いた。

 「もちろん。」

 ゆるりと弧を描く唇。にこりと三日月を描く瞳。過剰に白い肌の、その目元には何を想像してか、朱が散った。

 「それが私の、役目(そんざい)だもの。」

 男が返答に迷う間に、女に似たかたちはその独特の笑みを消し去った。

 「じゃあね、маршал(マルシャール)。わたし、貴方の鋳型(ミカエルさま)に呼ばれていたの。」

 そう言って女に似たかたちは、わざと覚束無い足取りで男に背を向け、神殿を出る。

 地面など存在しないような1面の白の花畑の上、女のかたちはその、身の丈の2倍はあろうという翼を羽ばたかせて、人のような体躯が飛翔する。それは男にとって神秘ではなく、しかし酷く、胸の痛む懐かしさがあった。その姿がはるか遠のくのを見届けてから、男はため息をついた。

 「忙しない、あの方に呼ばれているなら見送りになど来なくていいと言うのに。」

 男は再び、水盆を見下ろした。光を孕む睫毛を伏せて、そこに移るかげに焦点を結ぶ。

 「壊れも濁りもしない。安心しろ、истов(イストヴェト) етност(ノースト)。」

 張り詰めた水面には、花吹雪の舞う翡翠の瞳の少女が映る。人形のように整った横顔の生き物を見て、маршалは口元を歪めた。

 それはひとつの確信であり。男はそれに気づいていた。

 それは最悪の運命であり。男はそれに気づかなかった。

 そも、名だたる運命の女神たちも消え果てたこの世界で、高々神の被造物ごときが、複雑に絡んだ因果の意図に気づけるはずもない。

 人形のように、少女という語句の理想を詰めた生き物が、その水盆に像を作っていた。

 男の背から、猛禽の翼が広がる。彼が羽撃きをひとつすると、張り詰めた水面に波が立ち、少女の象は掻き消えた。猛禽の風切羽が1枚、水盆に落ちた。



 きぃん、と耳鳴りがする。アスファルトを踏み締めた、砂の擦れる音がうるさい、肌にまとわりつくぬるい空気と、雨上がりの匂いが煩わしい、誰もいない通学路が、何よりもうるさい。いつも通りの誰もいない道を通って、いつも通りの誰もいない家に帰るのだ。

 いちおう、ペットで飼っている蛇だけはいるけれど、それは誰かが暖かく出迎える事への憧れを解消はしてくれない。とってもかわいいのだけれども。とってもいとしいのだけれども。

 友人たちとまた明日、と言って別れた直後のこの、なんとも言えない虚無感にはどうやっても慣れることはなく、肩の内側に不快な疼きを与える。それでも1歩ごとに家が近づく感覚が、桜井染野(さくらいそめの)は嫌いで仕方なかった。

 憂鬱に、まるで恒例行事のようなため息をついた。毎日だいたいここで、ため息をついている。

 ふわ、と、視界に何かが映りこんだ。それは染野の溜息に煽られて遠ざかる、何かの羽。その形の、色合いの見事なこと、とまで咄嗟にわかった訳では無いのだが、雨上がりのしめったアスファルトに落とすにはどういうわけか勿体なく感じて手を伸ばした。

 ため息に煽られたはずの羽は呆気ないほど容易く染野の手のひらの上に落ちてきた。大型の猛禽類の、風切り羽、ということは何となくわかったが、これほど大きな風切り羽を持つ猛禽が日本に、いやいたとしてもそれなりに都市開発の進みつつあるこの地域に存在しただろうか、と首を傾げる。上を見上げても、特にそれらしい鳥の気配はない。

 誰かが落としたとか、そういう様子もない。

 しばらく立ち止まってそれを眺めていたが、結局、それを丁寧につまんだまま染野は家の方に歩き出した。

 だってあんまり見事な羽なのだから。自他ともに認める動物好きの染野が耐えられるわけが無い。

 それからなぜだか、その羽を持ち帰ることに少しだけ、背徳の味わいを感じてしまったのもいけなかったかもしれない。

 とにかく染野は、それを持ち帰った。

 「ただいま」

 それなりにセキュリティのしっかりした、それなりにいいマンション、女子高生の一人暮らしには過剰に広い部屋で、なんとなしに習慣としてただいまを言う。誰も返すことは無いのだけれど。とにかく染野の優先事項は先程拾った羽だった、それをどこに飾ろうか、潰してしまわないようにとりあえずリビングの机の上に置いた。それから寝室にカバンを投げて、着替えて、ペットの蛇に餌を与えるかどうか様子を見るべく、窓際の水槽を覗いた。

 餌は与えていないはずだったが、なにかまぁるいものを蛇は見つめていた。サンビームスネークの独特の光沢が、微動だにせず獲物を注視している。

 咄嗟に染野が手に取ったのは、水槽の台の下の段に置いておいたグローブ。噛みつかれても手が傷つかないようにそれを装着し、水槽の蓋を開ける。

 「だめ、こんなの食べちゃダメ。」

 なるだけ優しい声をかけながら軽く蛇を押し退けてそれを掴みとる。それ想定外に柔らかな触り心地にふと、内臓が飛び出るのではないかと肝を冷やした。

 手のひらに乗った生き物は、人がそうするようにぜぇぜぇと息を切らしていた。真ん丸の大きな双眸は海を思わせる(みどり)、手も足もない、人の頭を究極的にデフォルメしたような、そんな感じの見た目だった。

 「助かった。お前への要件の前に危うく蛇に飲まれるとは……」

 ともすれば高い声を出しそうな見た目とは裏腹に、部屋全体に広がるようなバリトンボイスがその生き物からは放たれた。

 何だこの生き物は、とか何を言っているのか、とかどうやって入ったのか、とか。あらゆる疑問を無視して当たり前のようにその生き物は話し始める、いや、いや、そうじゃなくて。

 「声帯どこ…………じゃなくて!」

 「はっ!?」

 優先順位が決まった染野は早かった。理解の埒外だろうがなんだろうが、それは染野からしたら未知の、外の、どんな細菌を持ち込んでくるか分からない生き物であることに変わりはない。

 今空いていた手で窓を開けて、そして。

 「ばっちい!」

 思いっきりその生き物を放り投げた。

 さて、その生き物というのは、柔らかい手乗りの……スクィーズのような形をしていたのだが、そこから人間のポニーテールのように毛束が生えていた。その生き物は、その毛束でベランダの手すりに一度引っかかった、のだが、そのままするんと滑り落ちて行った。

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