クレオパトラ
かわいいねクレオ。天使みたいだ。
小さい頃からそう言われてきた。だから私は天使なのだ。その大きな勘違いを、未だに引きずっている。
わがソレイユ女学院は由緒正しき女学校でありまして、生徒達は皆、選ばれた大和撫子ばかりでございます。
私はこの文句を聞くたび、なんて嘘ばっかりの宣伝なのかしらと頭を抱えたくなる。『ソレイユ』、フランス語を冠しながら大和撫子だなんてのがそもそもバカバカしいし、生徒の有様ときたら大和撫子というよりも、南国のもっと毒々しい色と香りの花だ。花にしただけ百歩も万歩も譲っている。
「中島さん」
担任教師の声が響くが、私は無視を決め込んだ。ざわめきが広がる。他愛ない女子の視線・視線・視線!
(私は天使なのだから、こんなところにいちゃ翼も折れちゃうわよ)
「中島さん、返事をしなさい」
「……はい」
「まあ、ようやく返事をして。少しは、天野さんを見習ったらいかが?あなた」
相変わらず嫌味だね担任。誰があんなガリ勉を見習うものか。私、中島クレオ。彼女、天野パトラ。典型的な問題児と優等生。この名前のせいで二人でクレオパトラなどと呼ばれて迷惑している。
しかし、私はこの天野パトラが嫌いなわけではない。むしろ好意すら持っているかもしれない。「中島さん、髪ふわふわで天使みたい」この学校でそう言ってくれたのはこいつだけだ。天野パトラはまったく『優等生』で、悪意を持たないのだ。これは案外男みたいな性格なんだろうと踏んでいる。私の顔やスタイル、栗色のふわふわした長い髪をやっかまないのはまったくこの学校では彼女くらいだ。
おかげさまで悪意に満ちた噂を立てられたのは一度や二度ではない。(もっとも、私のこの周囲を迎合できない性格がよくないのだということもわかっているが)
『中島クレオはヤリマンだから声を掛ければヤらしてくれる』『よく鳴くからカナリアって呼ばれてる』という噂を流されたときにはさすがに頭に来て、ほんとに声を掛けてきたバカ男を殴ってしまった。学校にはバレなかったからお咎めなしだけどね。カナリアか。バカバカしい方向にばかり上手いこと思いつきやがって。
女というのはこういうところが陰湿で利口なのだ。男子ならば浅はかだから、誹謗中傷は自分の口で言うだろう。女子はお喋りに紛れて悪口の発生源をピーチクパーチクとやかましく隠してしまう。そしてそんな行為が友情に繋がるのだから女友達なんてものはろくでもない。
学校が終わるとすぐに制服は脱いでしまう。『名門女学院』のソレイユの名を汚すからなんてしおらしい感情ではぜんぜんなくて、単に窮屈だからだ。街を歩くと、よく声を掛けられるが、うざったいとしか思えない。「私には性的な魅力がある」そう思えて誇らしかったのはほんの僅かの時期だけだった。男は私をアクセサリーとしか思っていないと理解したから。頭の良さも、気遣いも何も求めてはいないのだ。
学校で禁止のアルバイトをしたり、行きずりの仲間と遊びながら、いつも誰かを探している。『天使』を探している。きっと美しくて優しい、私の伴侶。今の私が飛べないのは、私が比翼の鳥の片割れだからであって、もう一人と出会えば空が飛べるはずだ。そう思っている。恥ずかしい空想だと笑うなら笑うといい。
人通りも少なくなった夜の繁華街。一人駅に向かっていると、酔っ払いの罵声が飛んだ。
(酔うのは構わないけど不快なのはやめてよね)
私は立ち止まる。勝てそうな相手なら吹っ飛ばしてやる。「あの女の子かわいそう」そんな声がした。
酔っ払いに絡まれてる女の子は、どうにも私の見知った顔だった。生真面目な黒い髪。きゃしゃな体つき。(天野パトラ!)私は叫びそうになるのをグッとこらえた。いくら心の中ではそうだろうと、呼びつけはまだまずい。
クラスメイトか。ならば、たとえ勝てそうになくとも戦わなくてはなるまい。相手は普通のおっさんに見えるが、私は普通の女の子なのだ。
「天野さん!」
声を掛けると、天野パトラはこちらを向いて、大きな目をみはって、それから少し笑って「中島さん」と言った。笑ってる場合じゃないでしょ!それになんで優等生のあんたがこんなところで油売ってるのよ!私は高いヒールをせいぜいコツコツと響かせて(精一杯の威嚇というわけ)、酔っ払いに近寄った。
「あんた何してんのよ。その子、私の知り合いってわかってんの」
酔っ払いは何か訳のわからない言葉をグダグダ言いながら私の手を掴もうとしたのか、天野パトラの手をはなしたので、その隙にサッと彼女の手を取って駆け出した。酔っ払いは追いかけようとしたようだが、ようやくやってきたお巡りさんにがっしと捕まってしまっていた。お巡りさん、ちょっと遅かったけど、職務ご苦労様!「君たち!被害届を!」「とりあえず何もなかったからいいわ!その酔っ払いにはしつこく注意をしといてよね!」私は勝手にそう答えて、もはや彼らが見えないくらいには遠くの公園まで走った。
さすがに息が切れた。おまけにヒールだから足が痛い。天野パトラはケロッとしている。まあ、だってスニーカーだもんなあ。私より走りやすいはずだわ。優等生だから確か運動も得意なはずだし。
「ありがとう」開口一番、彼女はそう言った。「どういたしまして」だ。
「なんで、あんなところにいたのよ。五番街は特に危ないよ」
「別に平気だと思ったの。夜の街ってそういえば行ったことないなあって思っただけ」
そう言って彼女はやっぱり笑った。照れくさそうに。実に無邪気に。まったくもう、としか言えない。
「夜の街はどうだった?」
「うーん」
彼女は少し考えて、
「街自体は昼よりもきれい。人が少なくて、イルミネーションが光って……でも私、大抵のことは出来るつもりだったけど、酔っ払いには勝てなかった。まだまだね」
と言った。
「ばかねえ。そもそも酔っ払いに近寄ったらダメよ」
「だって、具合が悪そうに見えたものだから。うん、でもいい勉強になった」
「ばかね……」
もう一度言ってしまった。なんだろう、不思議だ。私はこの子とずっと親しいみたいに会話ができる。
「大丈夫。私、運が良いのよ。実際、ヤバくなったら中島さんが来てくれたでしょ」
彼女は舞台の台詞のようにはっきりと言い切った。
「私は、天使に護られてるの」
それはまったく滑稽な台詞なのだけれど、私には笑えなかった。同じような夢想を描いている。
「どうしてそう思うの?」
「夢を見るの。何度も……私は夢の中でケガをしたり苦しかったりするんだけど、天使が現れるとそれが全部治っちゃうの。痛いも苦しいも」
だからきっと、私は天使に守られてるの。と彼女は続けた。
「その天使、中島さんにそっくりなのよ。だから私、初めて見たとき驚いたわ。天使がいる……って」
「当たり前でしょ」
私は思わずそう答えた。「私は天使だもの」
「天使?」
彼女はさっき突然私が現れたときみたいに大きな目をもっと大きくした。公園の街灯が彼女の髪を照らして『天使の輪』を作っていた。きれいな髪。
「そうかもね。中島さんきれいだものね。私のピンチにも来てくれたもんね」
「そーよ」
私は足が痛くってベンチに腰掛けた。彼女も隣に座る。まったく自然な仕種で。
「私、中島さんみたいにきれいな人初めて。でも天使なんだ」
「そう、だから人間よりきれいなのは当たり前なのよ」
「化粧もヒールもすごく似合うわ。それつけ睫毛?」
「ううん。マスカラよ。ランコム使ってんの」
「ランコム?すごいのね」
彼女は言いながら首を傾げたから、たぶんランコムは知らないのだろう。化粧っ気などひとつもない彼女だ。
「大したことないわよ。ずーっと同じの大切に使ってんの……あー」
「どうしたの?」
「終電逃した」
私はベンチに反り返って手を額に当てた。大失態だ明日も学校なのに。
「よかったら、うちに来て」
「ここが最寄りなの?」
「ううん。でも、30分歩けば着くわ」
「30分――」
うむ。私は覚悟を決めた。私の家はその三倍の道程だもの。
「制服は持ってるし、お邪魔していい?」
すると彼女はそれこそ『花が綻ぶように』笑ったのだ。私はそれが了承の合図だと、言葉を使わなくても理解した。それってテレパシーじゃなかろうか。「私のことはパトラでいいよ」
道中、彼女がにこにこして言った。「それじゃそうする」お言葉に甘えて。
「じゃあ、中島さんのことはクレオちゃんって呼ぶね」
彼女は、その顔からは想像もつかない強引さで言った。私に有無を言わせなかった。私は「いいわよ」とすら言わなかったが、彼女は勝手に呼んでいる。
しばらく歩いていると、彼女の家らしい建物が見えてきた。
「オンボロアパートでしょ。一人暮らしなの」
なるほど、オンボロだ。こんなの見たことないってくらい。パトラは軽快にボロボロの金属階段を登る。私はせいぜい靴音が響かないよう注意する。小さい玄関を抜ける。狭くはあるが、中はそれなりに家らしい家だった。彼女らしく、きちんと片付いている。
「適当に座ってて。私ね、まだ晩ご飯食べてないんだけど、クレオちゃんも何か食べる?寝る?」
そういえば、少しお腹が減ったかもしれない。
「何があるの?」
「うーん」
パトラは小さな冷蔵庫とにらめっこする。
「出来そうなのはパスタとフレンチトーストくらいね」
「じゃあフレンチトーストがいいわ。うんと甘くしてね。シナモンも入れてね」
「シナモンないからクレオちゃん買ってきて〜すぐそこにコンビニあるから」
「ないならいいわよ」
私は積んである本を一冊枕代わりにして寝っ転がった。
「その代わり、ミルクたくさんいれるね。バターは最近高いからさあ」
「なんでもいいわ」
私はその辺の本を手に取りパラパラやる。つまらない。雑誌とかないのかしら。そのうち、バターの香りと、ジューという焼く音が響いてくる。うう、食欲をそそる。
「クレオちゃん、行儀悪い」
「もうできたの?」
「うん、わたし手際いいから」
自分で言って、テーブルに皿を二枚置いた。
「うまそう!」
思わず言ってしまった。あったかそうな、ほんのりミルク色のパン。焦げ目もいい感じ。バターの焼けた匂いもする。
「わたし料理上手なの」
またパトラは自分で言った。
「フォークとかナイフみたいな上等なのはないから、お箸で食べてね」
「まあ、頂いてるんだし文句は言わないけど」
難しいことを言う。お箸でパンなんて初めてだわ。苦心して食べたそれは、やっぱり見た目同様たいへん美味しかった。
「優しい味ね。おいしい」
「うふふ」
褒めてあげると、散々自分で自分を褒めてたくせに、パトラは照れ笑いをした。
「いつもひとりで食べてるから、誰かがいると嬉しい」
本当に嬉しそう。この子の顔は得だなあ。人に好印象しか与えない。
「私もひとりよ」
私は言った。両親はもともと滅多に帰ってこなかったが、とうとうロシアに拠点を移すことになったので、私はずっと家にひとりでいる。ロシアに来いとは一度だけ言われて、それっきりだ。両親は私にお金だけくれて、それで親としての責任は取ったつもりらしい。ばーか。ちなみに私のこの髪の色や、背が高いのは、ロシア人の母のせいだ。
「そうなんだ。じゃあいつでもおいでよ」
「うん、良かったらうちにも来てみて」
「いいの!?」
「いいよ、私ひとりじゃ広すぎるし」
「じゃあ明日行く!!」
パトラはやっぱり強引な笑顔だった。「うん」としか言えない。(わたし変だ。どうしてこの子とにこにこ話してるの。私ってもっとクールでしょ)そう思ったがパトラがにこにこしてるのでどうでもよくなった。
お風呂を借りたが、何せ狭い。今時珍しく、ユニットバスですらない。さっさと出ようと体を洗って湯船につかる。
「クレオちゃん、入るよ」
「えー?」
「大丈夫、どっちかが湯船に入ってればいいんだもん」
私がぼんやりしてる間にパトラがもちろん一糸纏わぬからだで入ってきた。――あらまあ。肌白いのね。
「私あがる」
「なんで?」
「狭いもん」
「だめ、だめ。ここにいるの」
パトラは湯船につかる私の肩をギュッと掴んだ。
「なにするのよ!」
「だって、せっかく一緒に入ったのに!」
私はもう諦めて、彼女のわがままに付き合うことにした。力を抜くと、彼女も肩をはなした。
「私からだ洗うから、そこにいてね」
「はいはい」
パトラはそうやって、私を少し窺ったあと、からだを洗いはじめた。腕や胸、脚。すべてきゃしゃなつくりで服を着てる時とそう変わらないのに、それでもその胸のツンと張っていること、腰回りのあまりの肉のなさに驚いた。
手持ち無沙汰なものだから、仕方なくずっと彼女の背中を眺めていた。お尻からうなじにかけてのライン。まだ直線的で子供じみているような、微かに丸みを帯びているような。他人の、それも同世代の女の子の背中をこんなに眺めたのは初めてだった。
「キャンバスみたいね」
「え?」
「背中。真っ白で」
私は何の気もなくそう言った。彼女は濡れた髪でこちらを向いて、
「だったら、なんでも描けるね。描いてもいいよ」
と言った。
「描かないわよ」
と私は言った。この背中には、何もしなくてもきっとキラキラした未来が描かれるのだろう。
「クレオちゃんもきれいだね。聞き飽きてるかもしれないけど、肌もきれい、髪もきれい」
「そうね。聞き飽きてるわね」
「でも、胸は私の方があるかもね」
そう言われて、ふと自分の胸を見る。パトラの胸を見る。
「同じくらいよ」
「嘘だあ」
「ほんとよ。ほら」
私は負けず嫌いだ。湯船から出ると、目の前の鏡に二人が映るように促した。狭いから肌が密着する。湯に火照った体。
「ほら……」
私は鏡の二人を指差す。お互いの、白いあどけない顔。
「ほんと」
パトラは鏡の私に触れた。
「私たち、背も同じくらいなんだね」
「そうね」
私も鏡のパトラに触れた。鏡の彼女が口を開く。
「こうしてると、双子みたいって思わない?」
「どこが」
「ううん、双子以上だわ。私は髪が黒い。クレオちゃんは茶色い。ふたりとも背が高い。唇が紅い」
パトラは鏡の私の唇をなぞった。なぜかゾクッとする。
「私たちは鏡みたいだわ。似ているようで正反対」
その声が鏡から発せられているようで、少し怖いと思った。やがて鏡が湯の熱気で曇ってしまうと、私は息を吐いた。あの中の二人は本当に……まるで双子みたいだった。顔は少しも似ていないのに。けれど、とてもよく似ていた。
「私は少し湯船入るね」
パトラが明るい声で言って、ハッとした。目が覚めたみたいだった。
「じゃあ、私はあがる」
今度はパトラも止めなかった。
「うん。外に寝間着用意してあるよ。あと冷蔵庫の麦茶飲んでいいよ」
そうやってにこにこするだけだった。
寝間着はぴったりだった。麦茶を飲んで一息つく。改めて見回すと――この部屋何もないんだわ。テレビすらない。図書館で借りてきたらしい本と、学校の教科書と、娯楽らしいものは唯一ラジオがあるくらい。テレビがないのにビデオテープが転がっているのには笑った。昭和の苦学生だって、もう少し豊かに暮らしてたんじゃないかしら。
――苦労してるんだわ。貧しいのね。
彼女の料理の手際を思い出す。そしてクラスメイトの他愛ない噂話も。
――天野さんは、奨学金受けて学校来てるけど、それだけじゃ足りないからバイトしてんだって。――えーっ。親から仕送りとかないんだあ。
それに比べて私は、バイトは暇つぶしだし、十二分なほど親からの仕送りを頂いている。娯楽も絶えない。私はきっと生涯、貧乏とは無縁だろうと思う。貧乏はこわい。こわいからこそ、貧乏を蔑むことはしない。むしろそれに敢然と立ち向かう彼女はとても強い。
「クレオちゃん」
パトラが風呂からあがってきた。
「何もなくて驚いたでしょ」
「ううん、一人暮らしってこんなもんじゃない?」
「優しいねえ」
その言葉の意図は、あまりに悲しい気がした。彼女は、押し入れから布団を出した。
「私はその辺で寝るから、クレオちゃんはそれで寝てね。お客様用がないの」
「やだ。これじゃあんまり、私が悪いみたいじゃない」
パトラは珍しく困ったみたいに、でもやっぱり笑った。
「一緒に寝ればいいのよ」
私は、これ以上のアイディアはないと思った。幸いふたりとも背は高いけれど、細いつくりだし、シングルサイズでも寝れないことはないだろう。
「一緒に?」
「うん」
――あらあら、嬉しそうねえ
という感想しか出ないような顔を、彼女はつくった。
人肌を感じて眠るのは久々だった。どんな感触でも、たとえどんなに頼りなくても、体温と呼吸の音は、私を安心させる。あ、同じシャンプーの匂い――
私は天使で、彼女は天使に守られてる。だとすれば、私は彼女を守るべきだろう。私は、たったの数時間で、ほんの一晩でそう思ったのだ。このいかにも自然な感情が間違っていることがあるだろうか。私は彼女を、抱き締めて眠りたいと思った。暑い夜だってのに、離れることは思いつかなかった。
学校では、パトラはあまり変わらなかった。私が他の連中とつるみたくないのを察したのだろう。その代わり放課後になると、毎日のようにお互いの家を行き来した。夏休みに入った今では、合鍵を交換しているほどだ。私は孤独だった。彼女もまた孤独だった。分かり合うのにこれ以上の理由がいるだろうか。
「クレオちゃん、クレオちゃんあのね、」
パトラは無邪気に私にはすべてを話した。学校のこと、将来のこと、それから家のこと。
パトラの家は、ひどい借金を負っているそうだ。本来なら高校なんて行けないところを、お金は頼らないから、という理由で許可されているらしい。滅多に負の言葉を吐かないパトラが、家のことになると眉をひそめた。
「うちのお母さんバカなの。誰かに頼らないとダメだから、きっと今ごろは誰か知らない男の人と一緒ね」
「お父さんは?」
「私、お父さんわからないんだって」
私の家でアイスクリームをつつきながら、まるでその味が気に入らないみたいな、それだけの口調でパトラは言った。
「カッコいいじゃん。ドラマみたい」
私は内心の動揺を隠して言う。パトラは、にっこり笑って、
「クレオちゃんならそう言ってくれると思った」
と言った。ああ、この子は本当にかわいい。そしてかわいそうだ。金銭と愛情の欠乏症に慣れ切ってしまっている。しかし彼女の笑顔には一切陰がない。すべてすべて受け入れているんだろうか。そのきゃしゃな腕で。腕の内側の、青い血管が悲しかった。
私はせいぜい、私に出来ることすべてでもって彼女を愛することにする。その為にはお金だって使うし、いつも手を繋いだり抱きしめたりして眠る。たとえ彼女が稀代の詐欺師で、今までの話すべて嘘だったとしても後悔しないだろう。
パトラには月に一度か二度、必ず用事があった。その日は会えないのだと事前に言う。「いったいなんの用事?」と尋ねても曖昧に笑うだけだった。私はパトラのすべてを知りたかったから、その日、お菓子を片手に彼女の家を訪ねてみた。トントン、ノックに出る気配はない。どこかに出かけてるのかしら――はらはらしている自分に気付いて、なんだかおかしくなってしまった。一人にこんなに執着するなんて!この私が!自虐したところで心配は尽きない。
――彼女が来るまで待っていよう。私はコンビニでエビアンを買ってきた。ジリジリ暑い。長期戦だ。
しかしそのうち、彼女の家からあからさまに人の声がすることに気付いた。しかしパトラではない。男の人――みたいだ。私は彼女に恋人がいないことを知っている。親戚がいないことも。じゃあ、中にいるのは誰?泥棒があんなにうるさいものかしら!
今にも合鍵でドアを開けようとしたが、その時勝手に開いた。中からいかにもちんぴらみたいな男が数人出て来る。私に一瞥をくれて、皆どこかへ散っていった。
「パトラ!」
彼女が中にいるのは、彼女のお気に入りの靴が残っていることで知れた。
「ねえ!大丈夫なの」
声をあげて、私は次の襖を開けた。
「クレオちゃん」
呼ぶ声は戸惑いに溢れていた。戸惑いだけではなく、もっとずっと複雑に思われたけれど、あいにく表現の言葉が見つからない。
パトラは隅に立って、どうやら服を着替えようとしていたようだった。上はTシャツを着ているのに、下半身には下着――それだけ。太股のあたりを、スッと紅い血が通った。――月経とすぐ知れた。
女は内臓に蛇を飼っている。ぬめぬめと不快に動き、時に食い破るごとくの痛みと出血を与える蛇。あの蛇をパトラが飼っていること、私は今まで認識していなかったかもしれない。ううん、普通に生活していて、他人の蛇を感じることなんてある?
「パトラ、どう……したの」
「どいてよ!」
パトラは入口に立つ私を突き飛ばそうとしたが、突然、腹を抱えてうずくまった。
「パトラ!大丈夫、パトラ……」
「痛い、痛い、お腹が痛い……」
「すぐに救急車呼ぶわ」
「やめて……すぐ治るから」
「でもあんた真っ青じゃない!倒れそうよ」
「いいの……寝たら治るから、いいの……」
やがて彼女はうずくまったまま、その場に倒れこんだ。声を掛けても、もういけない。うわ言のように、病院はいや、病院はいや……と繰り返すものだから、私は救急車もためらわれて、どうやら貧血のように思われたし、仕方なく布団を敷いてそこに寝かせることにした。バタバタしているうちに、パトラは不意に目を覚まして、「おふろはいる」とふらふら歩きだした。慌てて引き止める。
「ばかね!そんなからだでお風呂なんてむちゃくちゃだわ!」
「じゃああんたが洗ってよ!」
パトラは私の腕をめちゃくちゃに引っ掻いた。思わず声を上げる。
「痛い!」
変だ。弱っているはずなのに、こんなにも力が強い。
「あんたのせいよ、あんたが私を汚した!きれいにしてよ!あんたなんか生まれてこなきゃ私だってこんな面倒な世の中に生まれなかったのに!!今すぐ死んでよ!大嫌いよ!帰って、帰って、きれいにしてよ、かわいがってよ、もっと大事にして……」
「パトラ!」
彼女の目は血走って、顔面は蒼白で、まるでこの世のものじゃないみたいな、昔見た般若の面のような顔だった。普段は愛想のいいパトラだから、余計に妖怪じみて見えた。私がクリスチャンなら、「悪魔が憑いた!」と大騒ぎするだろう。そのくらいひどい形相だったのだ。
「パトラ!」
幸い、無宗教の私は悪魔ではないとわかって、必死に肩を揺さぶった。彼女の頭がブランブランとおもちゃみたいに揺れた。そして彼女の目が光を取り戻したのは数十秒後。
「……クレオちゃん」
「パトラ!大丈夫なの、大丈夫なの、あんた……」
パトラを抱きしめた私は、情けなくガタガタふるえていた。
「私は平気」
パトラの腕が私の背中に回された。
「でも、気持ちが悪いわ。クレオちゃん、洗って。きれいにして……」
放っておいたらまた濁っていきそうな、気怠い瞳に見つめられて、私は彼女のが伝染したみたいになんだか気持ちが悪くて、逆らう気になれなかった。言われるまま、彼女を風呂場まで連れていき、服を脱がせ、お湯をかけていく。
「水にして。それかうんと熱くして。ぬるいお湯は気持ちが悪い……」
言われるまま、シャワーを水にした。彼女の火照ったからだが冷やされていく。
「ああ……気持ちいい……すごく」
私は彼女の、まるで桃色の魚のような肢体を丹念に洗っていく。足の指の間、膝の裏、太股、局部――私はそこを特によく洗った。パトラは何も言わなかったが、汚れている気がしたのだ。とてもとても――汚れている気がしたのだ。
私が寝たのは午後の九時ごろだったと思う。彼女が気を失ったように眠ってしまったので、私はなんだか怖くなってしまって、それで、ぎゅっと彼女を抱いてすぐに寝たのだ。私はその日久しぶりに泣いた。ママは私に言った。『クレオは天使よ』……その言葉以外言葉らしい言葉もくれなかった。
「なにが天使よ」
私は自分が何もできない無力な子供だと知った。何もできない、何もできない。私には。目の前の温もりが暴力に晒されるのすら止められない。
パトラは次の日青ざめて、それでも昨日よりはスッキリした顔で、「クレオちゃんがママに見えたの。ごめんね……」と言った。
「ママはクレオちゃんみたいにきれいな人で……人間の当たり前の暮らしや思考ができない人なの」
「どういうこと?」
パトラは細い身体を折り畳んで膝に顔を埋めた。
「私、昨日AV撮られてたのよ。ママが私を売ったの」
ママが私を売ったの、ママが……
私は二の句が継げなかった。そんなことってあるだろうか。そんなことって……
「だから、クレオちゃんには来てほしくなかったんだ」
私はただただ彼女を抱きしめて、ごめんね、ごめんね、辛かったね、と繰り返した。私は本当にどうして人間なのだろう。パトラの夢の中の天使になりたかった。けれど、私が天使になれないのも道理なのだわ。だって神様がいないのだから。神様はいない、神様はいない――こんな残酷なことをするような神様はいらない。彼女が泣くのを止められない。背中がふるえるのを止められない。
――私たちはとりあえずひとしきり泣いて、それからはむちゃくちゃに遊んだ。そう、夏休みだった。
「楽しいよ、クレオちゃん」
「すごくすごく楽しいよ!こんなに楽しいのは初めて!」
私はパトラのいつも通りの笑顔を見て、安心して、同じようにむちゃくちゃに遊んだ。私にとってもいちばん楽しい夏休みだった。
夏休みが終わると、彼女は忽然と姿を消した。初日に教師が入ってきて言うには――「天野さんは家の都合で転校しました。場所は伝えないようにとのことで……」うそ。「クラスの子ひとりひとりに手紙を書いてきてくれましたよ」クラス中が静まり返った。すぐにざわめきはじめた。みんなパトラと仲がよかった。みんなパトラが好きだったんだ。
――以下、私への手紙。
『クレオちゃんへ。
突然ですが、転校することにしました。心配しないでください。まったく元気なので。
私の名前の由来はたぶんクレオちゃんには言ってないので書いておきます。私の母の名前はクレオです。クレオパトラになるよう、ってことです。頭が悪いでしょう?
ついでに、クレオちゃんはそれ以外にも非常に母に似ています。顔も、スタイルも、天使を信じているところも。あなたを見ると母を思い出します。そんなあなたを、私はどんなにか
憎く思っていたか
憎く思っていたか
憎く思っていたか
憎く思っていたか
……と書いたところでどうせ止まらないし無駄なのでやめておきます。せめてあなたが母と同様救いがたいバカなら軽蔑できて良かったのですけど、あなたは本当にいい人で、とても優しい人でした。きっと母に似ていなければ、唯一無二の親友と思えたでしょう。あなたと過ごした時間がいちばん楽しかった。
しかし、そのことがかえって腹が立つのです。私はあなたを貶めようと近付いたのですから。私に夢中にさせておいて、私の目の前で男の人に犯されればいい。あわよくば私の代わりにAVに出ればいいと思っていました。なんだか面倒になってやめましたけど。そうそう、あなたに「カナリア」ってあだ名つけたのは私です。
私はとにかくあなたが大嫌いで、とにかくあなたのことばかりをずっと考えていました。
本当にずっと、あなたのことばかりを考えていました。』