獣人Ω ~シルファの憂鬱~
(あ〜、もう、そろそろかぁ。)
ジン、と重だるく痺れる下腹部に手を当てて、シルファは憂鬱な気分になった。
シルファには数ヶ月に一度、極端に能力の低下する期間がある。なんでも人間の女性の生理痛の極端に重いやつに近いらしい。そんなこと言われても、人間でも女性でもないシルファにはピンと来ないが。
とにかく、一週間くらい役立たずなのだ。それは、成人した獣人に現れる、いわゆる“発情期”だった。
この期間は発熱や全身の倦怠感、そして、性的な接触を求めたくなるなどの症状が現れる。これは、遠い祖先が子孫を残すために必要とした性質なのだが、今となっては不都合な点が多すぎた。
特に、オスにもかかわらず、子を孕むことのできるΩのシルファにとっては、厄介以外の何物でもないシステムだった。
しかも、このΩという性は厄介で、男女共に孕むことが出来る代わりに、発情香まで発するのだ。だから、シルファは“発情期”間中、ずっと家の中に籠もっていなければならない。
Ωの発する発情香は、血が近ければあまり影響を与えないが、それ以外の獣人には種族を問わずてき面で、襲われる可能性だってある。しかも発情香に誘われたということで、襲った方はお咎めなし。そしてΩは大抵妊娠する。ちなみに、子を産むと“発情香”は徐々に薄れる。それに、αと番えば、他に影響を及ぼさなくなる。
とはいえさすがに子作りや番うのは好きな相手としたい、と思うのは、当たり前だろう。獣人は、獣ではないのだから。
そんなわけで、シルファは職場である施療院に“発情休暇”を申請した。
「いつもすいません、マリアさん。」
「いいのよぉ〜、その分、シルファちゃんは他の人より働いてるんだから。大手を振ってやすみなさいよ!」
「ありがとうございます。」
事務のマリアはふくふくとした人間のおばさんで、診療中は受付もしている、人当たりのいい女性だ。シルファの働く施療院は入院患者もおり、治癒術師のシルファは普段、交代制で働いていた。今日も夕方から明日の昼までの勤務のところ、朝までに短縮してもらったところだった。そして、一週間の発情休暇に入るのだ。
「そうだ、お友達も、そろそろ退院出来そうよ!院長先生がそうおっしゃってたわ。」
「グランスが! …良かった…!」
「シルファちゃんも治癒、頑張った甲斐あったわね。おめでとう!」
マリアに礼を言い、夕方の回診に向かう。
グランスはシルファの幼馴染で、魔法剣士として冒険者をしている獣人でオスのαだ。基本的にはソロで活動し、時折請われて臨時のパーティを組んで依頼をこなしているらしい。
今回も臨時パーティとの依頼を終えて戻ってくる途中、別のパーティが討伐しそこねて、しかも人里近くまで引き連れてきてしまった魔物の群れと戦って負傷してしまったのだ。
依頼終わりで魔法力や物資も尽きかけていたことに加えて、毒をもつ魔物たちが相手だったことも災いした。
結局、常備の解毒薬も優先して仲間に使ってしまい、毒に侵されたまま、この施療院に運びこまれたのが一週間ほど前。
今日のように当直だったシルファは青ざめながらグランスへと治癒魔法を施した。
傷はすぐ塞いだし、解毒もしたが、長い時間、毒に侵されていたため、内臓やら血管やら筋肉やら、とにかくそこかしこに損傷が残ってしまった。
それも、獣人の鍛えられたグランスだから耐えられたようなものの、これが人間だったらとっくに死んでいたような状態だったのだ。
当のグランスも、3日前までは昏睡状態だった。そしてどうやら今朝から、口からの食事が取れるようになったらしい。それによって身体も大きく回復したのだろう。退院できるほど元気になったのならもう安心だった。
基本的に獣人は回復力が高く、頑健なため、危険な仕事に就くことが多い。
冒険者としてパーティを組んでも、損な役回りばかりさせられることが多くなるので、獣人はソロで活動する者が多いと聞く。だからシルファは常日頃からグランスのことを心配していたのだ。
獣人の、とりわけオスは血気盛んなものが多い。だから一度は冒険者を目指すものだ。まるで放浪することが遺伝子に組み込まれているようだ。そしてしばらくしてちょっと落ち着くと故郷に帰ってきたり、どこかで定住したりする者が多い。かくいうシルファの父も、昔は少々腕に覚えのある冒険者だったらしい。そこで鍛えた筋肉を生かし、今は戦う大工さんである。もっとも、今の敵はもっぱら“仕事”だろうが。ちなみに母は実家の花屋を継いでいる。しかし、若いころは攻撃魔法の使い手として、バリバリやっていたそうだ。そんな二人の出会いは大規模魔獣討伐だとか。
そんな両親の話を聞いて育ったシルファだから、自分も大きくなったら冒険の旅に出るのだと素直に思っていた。母親に似たらしく魔法の才能が有ったので、学校でも熱心に魔法の勉強をした。攻撃魔法よりも治癒魔法に適性があることがわかったのもそのころだった。逆に幼馴染のグランスは剣士としての才能を開花させていたので、二人でパーティを組もう、だなんて夢を見ていたのもそのころだ。
しかし、学校を卒業するころ、シルファの夢は儚く消えた。
迎えた性判別の結果がすべてを変えてしまった。
シルファの性はΩ。
他の性よりも激しい“発情”が起こり、さらには“発情香”の働きで他性をも発情に巻き込んでしまう。しかも特に若いオスのΩは“発情”の周期も不安定で、いつ起こるか予測がつかない。よって“発情”を抑えられるαと番うか、早々に子を産むか、“発情”の影響の出にくい血縁者の近くで暮らすことが望ましい………そう運命づけられてしまったのだった。
時を同じくして、グランスはαだと判明した。αもΩも希少なことには変わりないが、様々な分野においても高い能力をもつαがもてはやされるのに対して、Ωは厄介者扱いされるのが普通だった。幸運にもシルファは治癒魔法が使えたので、施療院という働き口を得ることが出来たが、Ωの多くは日陰の身であった。
そしてグランスは、剣技だけでなく、攻撃魔法も瞬く間に身に着け、魔法剣士として世に出た。世界をめぐる間に様々な功績を残し、貴族の養子に、王女の婿に、と請われたこともあったと風のうわさが教えてくれた。そしてさすらうこと10年。俗にいう“落ち着いた”のか、グランスは故郷へ帰ってきた。
正直、シルファは帰ってきたばかりのグランスを見るのがつらかった。グランスは自分が手放した夢を体現する存在だった。シルファが手に入れられなかったもの、すべてを持っている気がした。あんなに仲が良かった友人だったのに、もうあの頃の気持ちで向き合うことなどできないと悩んだりした。何とか気持ちに折り合いをつけるのに1年かかった。そして、もう1年かけて、日常的な大人のやり取りができるようになった。それくらい、シルファの心に衝撃を与えたグランス。だが、傷を拵えて施療院に来るたびに、ハラハラしたし、心配もした。だからシルファは芯からグランスを嫌ってるわけではないと実感したのだった。
今回のことも。本当に肝が冷える思いを味わった。昏々と寝台の上で眠るグランスを見るたび、目覚めないかもしれないと戦慄した。いつもなら血色のいい肌が青白く見え、小さな変化や微かな呼吸を見逃すまいと食い入るように見つめ続けた時間はどれほどだったろう。
結局、あまり根を詰めすぎてはいけない、と院長から強制帰宅を命じられている間にグランスは目覚め、また休みの間に食事もとれるようになるなんて皮肉だが。
今も回診中にグランスの部屋をのぞくと、穏やかに寝息を立てている姿が目に入った。頬にも赤みが差し、これなら問題ないといえるまでに回復しているようだった。
(僕が帰るころには、起きて話ができるかな。)
いつもなら億劫な当直も、ちょっとした楽しみがあるだけで苦にならなくなった。
しかしうまくいかないもので、今回はシルファの方に限界が来てしまった。“発情”が本格的に始まってしまったのである。申し訳ないとは思いながら、施療院の寮に住んでいる先輩治癒師に無理を言って変わってもらい、真夜中、シルファは一人家路をたどることになった。
治癒師は少ない。だからシルファは雇ってもらえている。しかし、こう何度も周りに迷惑をかけていては、いずれ解雇される時が来るかもしれない。そんな益体もないことを考えてしまうような月夜だった。シルファの足取りは重い。いつも行き帰りに突っ切る公園の花たちも、シルファの慰めにはならなかった。
と。シルファの行く手を遮る者が現れた。月の逆光で顔は定かではなかったが、耳と尾の感じを見ると大型の猫科の獣人らしかった。
「よぉ、ひとり? イイ匂いさせてるじゃねぇか。」
シルファは慄いた。自分ではわからなかったが、発情香が漏れ出ていたらしい。しかもこんな真夜中の公園では助けを求められる相手もいない。普段のシルファらしくない失態だった。
「いえ、連れを待たせているので…。失礼します。」
シルファは身をひるがえしてとにかく逃げ出した。とっさのウソにしては上手くつけたと思ったが、相手の身体能力のほうが一枚上手だった。走り出したシルファをそいつはあっさり捕まえて、脇の東屋へ引きずり込んだ。
「こんな状態の連れをほっとくやつなんて忘れちまえよ。俺のハレムに入れてやるからさ。」
相手の狙いは明らかだった。発情中のΩを性的に襲っても罪にはならない。ハレムどうこう言ってるところから、それなりに身分の高いαなのだろう。もしくは新興の資産家か。どちらにしろシルファにとって危機的状況であることに変わりはない。襲われて孕むのも御免だし、ハレム入りなどもってのほかだ。
「やめろ、放せ!!」
手足をめちゃくちゃに動かして暴れるが、シルファのすることなどどこ吹く風で、拘束は一向に緩まない。どころか、肉厚の舌で首筋を舐め上げられて、シルファはおぞ気だった。知らず涙があふれだす。
「この匂い、たまらないな…。」
「やだ………」
「俺んとこにこいよ。俺のものになれ。」
無骨な指がシャツの裾をたくし上げ、肌の上を這いまわる。生理的な嫌悪感が沸き上がり、頭の中が真っ白になる。
「っやだ、やだっ!!」
このまま、発情を理由に襲われ、意に添わぬ番関係を結ばれてしまう…そうシルファが絶望しかけた時。
「やめろ、シルファを放せ!!」
聞き覚えがある声が聞こえたと思ったら、体にかかっていた重みが一瞬で消えた。不埒な相手に馬乗りになっているのはグランスだった。施療院からそのまま抜け出てきたようで、入院着のままだった。
「なんだよ、俺は悪いことしてないぞ。」
地面に引き倒されてる割に、悪びれない顔でにやりと笑う男に、グランスが激高した。
「ふざけるな!シルファは俺の番だ!!」
「はっ、番だっていうなら、発情中に一人になんてしないだろ。」
「そ、それは…っ」
正論をつかれて口ごもるグランス。シルファはそんな男たちをおろおろしながら眺めるばかりだった。グランスが助けに来てくれたのは嬉しい。オスに使うのもおかしな話だが、まさに貞操の危機だったのだ。しかしグランスはさらにおかしなことを言っていた。「俺の番だ」とかなんとか…。
シルファが混乱している間に、男はグランスを押しのけ立ち上がった。
「まぁ、ここは引いてやる。シルファ、そんな男なんかやめて俺にしろ。俺はベルセリオス。待ってるからな。」
その男 ――― ベルセリオスは、意味深に指を突き付け、去っていった。
残されたのは呆けたシルファと気まずそうに視線をそらすグランス。しばらくして我に返ったシルファが改めてグランスを見やると、未だにそわそわと落ち着かなげにたたずんでいる。
「えっと…グランス? あの、助けてくれてありがとう。具合はもう…いい、みたいだね。」
「…あぁ。」
「うーっと…とりあえず、一緒に施療院へ帰ろう?」
「…っ!! あ、あっ、あの、シルファ!」
「なぁに?」
「お、おれっ!」
「うん。」
「俺のつがいになってください!」
「なんで?」
グランスの差し出す手を眺めながら、シルファは通常通りのトーンで返す。グランスは驚愕が伝わるような表情でシルファを凝視した。
「なんで、って…。」
「さっきはかばってくれてありがとう。例えその場しのぎの言葉でも、相手にハッタリかますには有効だったよね。でも、それを真に受けるほど僕は世間知らずじゃないよ。」
グランスったら考えすぎ~と、最後は明るく笑い飛ばすシルファに、グランスは茫然となった。
「違、俺はそんなんじゃ…。」
「だって、ぼくと番ったって何もいいことないよ。」
「そんなこと…!」
「ぼくはオスだしΩだし、地位も資産もない。キミの役には立たないよ?」
「そんなことない!」
「そんなことあるよ。」
「俺は!!」
慌てておたおたしているグランスを眺めながら、シルファは頭の芯から冷えていくのを感じていた。グランスは良かれと思ってこの提案をしている。シルファだって何もしがらみがなければグランスは番相手として望ましい。でも、はいそうですか、と受け入れられるほど、自分も子供ではない。無邪気に二人で冒険に出かけようなどと言っていた頃とは違うのだとわかるくらい、シルファは、シルファたちは大人になってしまった。なおも言いつのろうとするグランスに、シルファは最後の切り札を突き付ける。
「それに、僕の意思は? 無視するの?」
「あ…。」
「ね。だから、一度頭を冷やそう? 施療院へ帰ろう。」
あとは無言で歩く二人がいるだけだ。さすがのグランスも、もう何も言ってこなかった。
施療院へと戻り、グランスを病室へ送り届けた後、シルファは発情香を抑える用意を万端にして、念のために馬車を読んでもらい自宅へ帰った。過信せずに最初からこうしてればよかったと思うがあとの祭りだ。
(僕らもいい年だし、グランスもついに番を迎える気になったのかな…。)
だから手近なΩの自分に声をかけたのだ。そうシルファは結論付けた。
シルファの考えは見当違いなものだったが、これまで何もなかった二人だったので、まさかグランスが本気でシルファを番にしたいと思ってることなど、まったく気づいていなかった。むしろ“二人の間に何もなかった”と思っていることすら勘違いなのだが、ここにはそれを訂正するものなどいない。
シルファの眼中にないことを知って、グランスが猛アタックを仕掛けてくるのだが、それはまた別のお話になるのだった。
読んでいただきありがとうございます。
ブックマーク、ポイント評価、嬉しいです。
短編なのに続きそうな感じになってしまいました。
次は別人サイドで書いてみたいと思います。
…機会があれば、またよろしくお願いします。