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上野千鶴子東大祝辞の根本矛盾

作者: 鈴木美脳

『がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。

 ...

 あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。

 恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。』



 とのことである。2019年4月12日、上野千鶴子さん。東京大学入学式祝辞の一部だ。

 祝辞全体として刺激的な内容で、賛否両論、話題になったらしい。

 彼女は左派的なフェミニストで、その立場には個人的には興味はないけど、賢い気がするので、少し好きである。どんな立場に立つ人にせよ、知能さえあれば、たまに面白いことを言う。社会を結果的には向上させてく。

 祝辞の内容を、よく見れば無茶苦茶だと思う人もいるようだ。ここでは細かいとこは考えない。趣旨だけ考える。



「がんばったら報われると思えること」

 それは、環境のおかげだろうか。


 才能のおかげではなかろうか。

 才能の不足の。



 「がんばる」とか「報われる」という言葉のそこでの定義は何だろう。

 何を「がんばり」、なぜどう「報われる」とイメージするのか。


 もちろん常識的には自明だ。

 勉強を頑張ったから備えることができた学力と肩書きのゆえに世俗的な幸福に報われるという意味で自明だ。


 しかし、そう前提した用語法に満足していいのか。

 「がんばる」イメージについて、直ちに利己的な努力のみイメージしていいのか。

 「報われる」イメージについて、直ちに利己的な幸福のみイメージしていいのか。

 それは現代の病理ではないのか。

 権力に抗っているつもりで率先して権力に屈従してはいまいか。



 木から降りれなくなった猫を降ろしてあげたらどうだろう。

 そのがんばりは報われるためだろうか。

 子のために働く親のがんばりは、報われるためだろうか。

 だとしたら報いとは、利他的ながんばりによる精神的喜びすら含むものだし。

 ならがんばりとは、利他的な努力を含むものだ。


 あるいはまたアリを踏み潰してみたらどうだろう。

 彼や彼女のその不幸と苦しみは、彼や彼女の努力や才能の不足ゆえだろうか。

 ゆえに肩書きや財産で他者の位を蔑むことは、普遍的には正当化されえない。

 人間存在をアリ以上だと思うなんて宇宙的にはとんだ奢りだ。

 権威主義というのは、そもそもから狂気なのだ。

 利他性の価値を捨象しきった先にしか、現代的な権威主義は成り立たない。

 だって一見どう見えるどんなカテゴリーの人も、内面的利他性には素晴らしいとこがあるかもしれない。


 自分よりがんばった人や才能のある人がしばしばひどい目にあってるなんて誰でも知ってる。

 でもそんな悲惨を直視したって辛いだけで得るものはないから。

 公正世界仮説という認知バイアスは生命の本能に組み込まれている。

 理性によって抜け出すチャンスがあるかどうかだ。



「がんばったら報われると思えること」

 それはあまりにも残酷な光景ではあるまいか。

 それは若くしてすでに規格化された脳のありかたではあるまいか。

 どうしてそこから抜け出せなかったのか。

 生まれ育った環境が恵まれていなかったのか。

 あるいは才能に不足があったと考えるべきか。



 戦場の実戦を知らない青二才ほど権威主義に立つ。

 努力が権威として世俗に報われると思ってる。

 英才が簡単に死んでいくのを見たことがないから。

 甘やかされて自身のための努力しかしたことがないから。

 生まれてこのかた本当に「がんばった」ことなんてないから。

 「がんばったら報われる」なんて感覚を持つ。

 そして権威主義に水を差されれば苛立って否定するのだ。



 誰か一人を本当に愛したことが一度でもあるのか。

 出会った人情に心から感謝したことが一度でもあるのか。

 命を捧げてまで献身すべきものの前に立ったことがあるのか。

 児童一人のために良い世界を残そうと信念したことがあるのか。

 次世代のための責任を双肩に重く感じたことはあるのか。

 倫理的責任を果たせない申し訳なさに恐怖したことはあるのか。

 市井の一人一人が仰ぐべき神だと知っているのか。


 心ある人間として生きたことがあるのか。

 幼児であることを脱して青年になったことがあるのか。

 幼児しかいないこの国に生まれて。


 本当にがんばるとはそういうことではないだろうか。

 本当にがんばったことがあるのか。

 がんばる人などそうそういないのではないか。

 いたところで東大を目指すという発想とはむしろ無縁ではあるまいか。



 フェミニスト。

 女性達がより幸せにすごせる未来を作るために、男性達を呪いさえすればそれは実現するだろうか。

 いわゆる左派。

 人々がより幸せに暮らす社会を実現するために、権力の不寛容を罵りつづければ目的は果たせるか。


 男性による女性達への不寛容を否定して破壊する先に女性のユートピアはもたらされると。

 権力による多様性への不寛容を否定して破壊する先に弱者のユートピアはもたらされると。

 それがリベラルというメンタルモデル。

 いわゆる左派の世界観の根本的な構造で、全てはそれに帰着されてる。


 つまり既存のジェンダーの問題については女性自身が内包する問題を矮小化する。

 そして既存の不満足一般の問題についても庶民自身が内包する問題を矮小化する。

 その言葉は常に聞き手の自尊心を高めてくれる。

 だから俗受けする。扇動にも使われる。

 のみならずエリートに受ける。権威を完全には手放さず自尊心だけ善人面できる哲学としてエリートにこそ受ける。



 そのモデルが言っていることはつまり。

 誰もが「報われる」ために「がんばってる」のが人間社会だと。

 しかし「がんばった」分に応じて「報われる」という因果は、報われた人々が自覚するよりはかなり少ないと。

 だから分け前をよこせと。

 恵まれた環境と恵まれた能力を、恵まれないひとびとを助けるために使ってくださいと。

 それが正義だと。



 どこまで愚かだとそんな発想が生まれるのだろう。

 どこまで依存心が強いとそんな恥知らずな嘘がつけるのだろう。



『多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。

 ...

 女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。

 ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?

 愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。

 ...

 社会に出れば、...性差別が横行しています。』(by ちづこ)


 「かわいい」という美徳は、男性が女性に強いたものだろうか。

 女性こそが、進んでその安らぎに自らを埋没させているではないか。

 女性であるがゆえに受ける好意や親切を進んで受け取れば、それは悪徳だろうか。

 それを悪徳だと自覚して自制する知能など、女性の数%にもないのではないか。

 日本女性が自ら「かわいい」の価値を手放すことなど未来永劫ありえないね。

 既存のジェンダーの半分は女性自身が望んだものだ。

 一部女性の苦しみを呪う時にその点がひどくごまかされているのではないか。

 矛盾を含むべきものでない科学が、俗受けを第一とする政治学に堕落してはいまいか。


 そこで捨象されているのは、大衆批判。

 個々人の単位で言えば自省。

 つまり利他性の美徳。

 つまりは倫理主義。



 弱者が良心に満ちていて権力者がそれに劣る時に初めて権力を侮辱できるのではあるまいか。

 それなのに、お互い利己的ですよね、不運な私達は苦しいので慈悲をくださいと。

 お客様は神様です。小銭をくださって、ありがとうありがとうと。

 そうすることで格差を固定化しているのだとなぜ気づかない。


 知的障害者しかいない学校に拝跪して。

 知的障害者しか入学もしない学校に拝跪して。

 名門大学と無縁の田舎者まで、人の学歴を噂して。

 選挙のあの候補者は東大出身ですってよみたいな。あちらは違うみたいねみたいな。

 ギャグだろうか。


 利己的な努力を努力と呼んで。

 利己的な幸福を幸福と呼んで。

 そこはゴールだ。

 弱者と権力の葛藤に世界観を帰着してしまうこと、それは最悪のゴールなのだ。



 そんな自明なことも見えない目に生まれてしまったなら、なんて哀れだろうか。

 神も仏もいないのだろうか。

「がんばったら報われると思えること」

 それは、環境のおかげだろうか。

 才能のおかげではなかろうか。

 才能の不足の。


「優しさが優しさで報われると思えること」

 そんな世界こそ目指すべきだろう。

 「かわいい」は、捨象してしまうべき価値ではなく、限りなく一般化してしまうべき価値だろう。

 「かわいい」は、利己的な価値じゃない。愛である。

 女性ホルモンである!

 女性特有の性質を否定して男性化させるのでなく、経済的即物的には日の当たらなかった価値を顕在化させてくべきだろう。

 かわいい大国日本!

 日本人は昔からかわいいものが大好き。

 動物をいじめたらよくないという発想も、かわいいという感覚からしか生じない。欧米的理性主義はとうに古い。人権概念を論理的に演繹しても破綻しかしない。


 ただし外見を見るのはよくない。

 それは結局、対象をオモチャにしているだけだ。愛じゃない。

 内面を見ましょう。

 心を感じましょう。

 優しい人情以上にかわいいものなんてまずない。そんな価値観こそ世界をよくする。それこそが第一の真実。


 人の内面なんて見たり感じたりできないよ、という人もいる。

 それはやっぱり、才能の不足なのだ。

 人間だもの。がんばってどうしようもないことなんていくらでもある。

 がんばって「心と体をこわしたひと」もたくさいる。

 才能が平等じゃなかったら不思議だろうか。

 名門の学校が心理的に不器用な人の吹きだまりになっていたら不思議だろうか。

 学校の勉強なんて始めからその程度のものなのだ。

 微積分を教わったおかげで愛の心を育まれました、って、んな人はいまい。

 だから価値を見失ってはいけない。


 かわいいは正義である。

 そしてかわいいは作れる。

 恵まれた環境にあらずとも、その中であれる範囲で心美しくすごそうとすることはできる。

 かわいいを科学する。全ての学問のそれが根本的意義だと知ってもらうことが大学の使命です。

 ようこそ、東京大学へ。

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[良い点] 終わり方が上手い。 [一言] 人に限らず、全ての生き物が自己都合で生きているわけですから、自分の事ばかりですけど、それでも偶に理由なく誰かに手を差し伸べられるのが生命の素晴らしい部分だと思…
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