出発
(そうと決まれば、即、行動ね。早く行くわよ、さっさと準備しなさい)
僕は、心の片隅に居座る何者かによって、とにかく急かされながら、長旅に必要だと思われる道具一式をかき集めている。
いや、僕を煽るのが誰か、というのは、もうわかっていることだ。
幽霊。そして、昨日の白夜祭を一緒に踊り通した少女である。確かさっき、ジュリエットと名乗っていたような気がするが、名前では呼ばないことに決めた。僕が話す言語とは似ても似つかないため、舌がもつれてどうしようもないのだ。
もっとも、ならばどうして僕はこの幽霊と会話ができているのか、という疑問は残るが。
「何も、そんなに急がなくても……」
そう僕が言ったら、
(私に旅支度は必要ないもの。何もせずに待つのは、誰だって辛いでしょ?)
と言い返されて、もう何も言えなくなった。
そもそも僕は、この幽霊少女と旅をするのが、内心、楽しみで仕方がない。なぜかと問われれば答えられる自信はないが、とにかく、遠くに行くことになって気分が高ぶっているのだ。
(ねえ、まだなの?)
そんなことを考えていたら、苛立ちを押し殺したような低い声で脅されたので、僕は持っていく服のことに集中した。
支度が、済んだ。結局、南の方に行くわけだから――僕の住む「キルマ国」より北にある国などない――、暑くはないだろうか、ちょっと厚すぎではないのか、などと悩み続けた。たとえその結果が、旅支度だけで日が暮れるというものであったからといっても、たとえそれで寝床に入るまで例の少女の愚痴を聞き続けることになったからといっても、僕は後悔していない。僕は、自分なりの価値観でもって考え、動いたのだから。
「ふあぁ……。よく寝た」
僕は、大きな欠伸とともに起き上がった。空はよく晴れていて、ちょっと散歩でもしたら気持ちよさそうだと思う。
だが僕は、なんだかおかしな幽霊に憑りつかれていて、今日から旅に出なければならない。しかも、その幽霊が行きたいという「故郷」は、どのあたりにあるのか見当もつかないのだ。
(やっと起きたのね。だったらさっさと出発しなさいよ)
「いや、無理だよ。朝ご飯を食べなきゃならない」
僕に憑りついたその幽霊少女ジュリエットは、なるほど、と小さくつぶやいた。
(そういえば、あなたの名前を聞いてなかったわね。何ていうの?)
確かに。一方的に名前を訊いておいて、自分の名前を教えないのは、よくない。
「ごめん。言いそびれてた。僕はヤースカ。この通り、ただの十八歳だよ」
(ふうん)
僕の父は前線に出て戦死したし、母は工場労働者だから年に一回帰ってきたら良いほうだ。だから僕は、身の回りのことを自分だけでできる。収入は少ないので、倹約は生活の基本だ。この辺で大量に栽培される燕麦だって、人並みに買えば母からの仕送りが半分消える。僕は普段は森に入ってなんとか木を伐り倒し、それを売ってどうにかそのほかの食べ物をそろえているのだ。
そういうことがあるうえ、やっと手に入れた干し肉などの保存食はほとんど荷物に詰めてしまったので、今日の台所は寂しい。炒った燕麦の粉に汲み置きの井戸水を少し加えて、それをこねる。そしてできたものを、燃え残りの薪で熱した鉄鍋に薄く広げて焼く。
完成した固い塊を噛み千切りながら、僕はジュリエットに、彼女の故郷について訊いてみた。
「ちょっと気になることがあるんだけどさ、君の故郷ってどんなところなんだい? 有名な街なら、僕でも知ってるかもしれないじゃないか」
(あー、そういうことね)
「どうなんだい?」
ジュリエットは、少し遠い記憶を思い出しているようだった。
(私が覚えているのは、お屋敷の中の風景ばかりだけど……)
お屋敷? どういうことだろうと思いながらも、僕は黙って話を聞くことにした。
(壁は真っ白い石でできてて、ところどころに金箔が貼ってあったわ。 いろんなところからシャンデリアが吊り下げられて、赤絨毯も敷き詰められていた。少なくともこういうところとは大違いだったわね)
「窓の外を見たりは?」
(してない)
「君の他には誰かいたかい?」
(……わからない)
「そうか……」
結局、どこに行くべきかはわからないままだ。聞いた感じで言えば、どうやらもの凄い宮殿――外国の王の一家が住むところ――のようだが、そんなものは時々噂に聞く大国、マーヒト帝国にもないらしい。ここには噂も流れてこないぐらい南に行ったところには、マーヒト帝国もかすむ大きな国があるのかもしれないが、残念ながら僕は知らない。
結果として徒労に終わった考え事をしている間に、燕麦の塊を食べる手が止まっていた。僕は、いまだ両手で持ったままのそれを必死でかじり続け、最後の一口を飲み込むと言った。
「じゃあ行こうか」
(そうね。だって、早い方が面白そうじゃない。ねえ?)