序章:白夜祭の少女
「こんばんは、初めまして。ちょっと私と踊らない?」
僕が、外国人風の可憐な少女にそう声をかけられたのは、白夜祭の真っ只中、雑踏の中だった。多分、観光客か何かだろう。となれば断れるはずもなく、僕は「もちろん」と大きく頷いた。
「じゃあ、よろしく」
少女はそう言うと、顔を少し上げて目を合わせてから、やおら僕の手を取った。僕は面食らってのけぞったが、それも一瞬のことだ。男性より積極的に踊りに来る女性も、ここでは珍しくない。
だって、そっちの方が面白そうじゃないか。ねえ、君?
「こちらこそ、よろしく」
僕はそう言って少し笑い、鳴り響くポルカに合わせて右足を踏み出した。
どれほど踊り続けただろうか。今日は太陽が沈まない日で、辺りは昼のように明るいが、その代わり、すっかり疲れきった空気に満たされている。僕もとっくに力尽きて、広場の土の上で仰向けに倒れていた。
「ねえ、もっと踊ろう? なんだか楽しくなってきた」
だが、とにかく白い肌の少女は、しきりに僕に催促する。
「君は……大丈夫なのかい? こんなに踊ると、体がもたない……何回、君の足を踏みそうになったか」
「本当に楽しみたいなら、それくらいがちょうど良いの。さあ、早く。踊れないなら、私があなたを引っ張るから」
頬から顎にかけての線がすっきりしている少女はそう言って、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、僕は軽い違和感を覚えた。あんなに踊り続けておいて、疲れが全く見えないのは何でだろう? この子は僕よりずっと腕が細くて、力も弱そうなのに、呼吸ひとつ乱れないのは、ちょっとおかしいんじゃないか?
しかし、疑いともとれるその違和感は、黄金色に輝く長髪の少女がまた笑ったことで、いとも容易く吹き散らされてしまった。
「まあ、いいか。楽しい人には草も花、だったね」
「そんなことわざがあるの? ここは面白そうな国ね」
僕はどうにか体を起こし、少女は空色の目を細めて心底面白そうに笑った。
また次の演奏が始まったし、これは踊るしかないだろう。周りを見渡せば、さっきまで疲れて死人のようだった人々がたくさん、むくりと起き上がっているのが見えた。
疲れて踊れなくなるまで踊って、踊れなくなったらしばらく休んで何か食べてまた踊る。眠くなったらその場で眠って、夢の中でも踊っている人だっている。踊りたければ夜通し踊ってもいいのだ。だって明日はすべての仕事が休みなのだから。
自分のお腹が鳴る音で目が覚めた。うっすらとまぶたを開くと、とたんに真上からの強い光が目に突き刺さって、僕は思わず目を閉じてしまう。とにかく起き上がろうと思ったが、指一本でも動かそうとすれば全身に痛みが走る。しかし、その痛みに悶えることはかなわない。体に全く力が入らないからである。
「これはひどい……。こんな筋肉痛は初めてだ」
唯一動かせる口で、そんなことを言ってみる。もちろんそれでこの痛みが消えるわけではないが――
(大丈夫? やっぱり、無理させちゃ駄目だった?)
「があああぁぁっ!」
声が聞こえた。そのことに体が反応しようとして、筋肉痛が容赦なく僕を襲った。それで上げた悲鳴は、きっと断末魔に近いものになっていただろう。
(ちょっと動かないで。治すから)
僕は幻聴が聞こえるようになったのだろうか。耳から入ってくる音とは明らかに違う声がする。だが、それで混乱はしても、できる限り筋肉痛を抑えるために全身の力を抜いておくことは忘れていない。
(……よし。終わった)
少し満足げな声が、頭の中で響いた。
「……何が?」
(とにかく起き上がろうよ)
「無理だって」
(「泉よ、お前の水は飲まない」と言ってはならない)
ここからかなり南にいる人々が使うことわざで、絶対に無いと断言してはならない、という意味だ。つまり、つべこべ言わずに立て、と。
そういうことならと、ゆっくりと慎重に腕を動かし、力を込め、体を起こしてみる。痛みはない。今度は脚を曲げ、そのまま立ち上がってみたが、やはり痛くないのだ。肘や膝をちょっと曲げながら、僕は不思議な声に訊いた。
「本当だ、痛くない……何が起こったんだい?」
(魔法って知ってるよね? それ)
その声が返したのは、実にあっさりとした答えだ。しかし、僕は魔法のことなんかまったく分からない。もう少し説明してくれてもいいんじゃないだろうか。
(えーっと、魔法は大きく三種類に分けられるのよね。戦闘用魔法、治療用魔法、その他の魔法。戦闘用魔法はそのままの意味だからいいでしょ? 治療用魔法が、今あなたの筋肉痛を治したみたいに、主に傷を癒す魔法。戦争でもよく使われるけどね。その他の魔法っていうのは、マッチを使わずに火を熾したり、コップ一杯分くらいの水を生み出したりできる、いろんな小さい魔法のこと)
何も言っていないというのに、思いがけず、詳しく解説してくれた。「ありがとう」と、お礼を言う。
(あら、不思議な人ね。私とここまで話して、逃げ出さなかった人なんていなかったのに)
僕の反応に、声は少し上ずった答えを返した。
(例えば、私が今どこにいるのか分かる?)
何も慌てることはない。僕は何となく、答えを知っている。だから、声の主を探すためにわざわざ、周りで潰れている人々を無意味に見回していく必要はない。だが、なぜそこにいるのかは、知らない。
(ふうん、つまんないなぁ。そしたら、どうして私がここにいるのかっていうとね――)
僕の心の片隅で、昨日の少女が笑ったような気がした。
(私は、幽霊。あなたに取り憑かせてもらったの)
「はぁ……」
(何? 反応が鈍い)
「いや、だってさ、そんなことをいきなり言われてもね」
(信じられないって?)
さっきの笑顔はどこへやら、昨日一緒に踊った少女らしき声は苛立ちを滲ませている。しかし、僕にはこれをどうにかしようという考えはないのだ。僕は「そうかもしれない」と言って笑った。
「じゃあ今度は僕が質問する番だね。君、それでいいかい?」
(まあ、いいけど……)
怒っているのかと思ったら、案外あっさりと話を聞いてくれるようだ。と、そんなことを考えていたら、「内側から睨まれる」という不思議な感覚に襲われたので、とにかく聞きたいことを訊く。
「まず、君の名前は?」
(ジュリエット)
口の中でその名を反芻しようとしたら、舌を噛んだ。
「言いづらいな……『君』って呼べばいいかな」
(いいわ)
「分かった。じゃあ、次。君はどうして、僕なんかに取り憑いたんだい? 何かわけがあるんだろう?」
少女が一瞬呆気にとられた、ような気がした。
(それは……)
「それは?」
なぜだろう。少女が今、目の前にいたならば、きっと少し顔を赤くしているだろうと確信できる。
(み、未練があるのよ。この世に)
その声が上ずっていたので、間違いない。本当に、どうしてだろうか。
「未練?」
(……それを私に言わせるつもり?)
突然、怒りはじめた。やはり、僕ではどうにもできない――それこそ、この少女の未練とやらを何とかしない限りは。
「……僕に、何かできることはない?」
(――私を、故郷まで連れて行って。そうすれば、あとは自分で何とかするから)
今までになく張りのあるその声には、強い決意が秘められている。僕はその答えを聞いて、確かにそうすると決心した。
「うん、わかった。君の故郷はどこだい?」
(それがね……分からないの。一緒に探してくれない?)
魔法だ、幽霊だといろいろ信じられない話を聞いたが、この日一番衝撃を受けたのは、この一言だろう。だが、ここまで来たらもう後には引けない。僕は仕方なく、頷くことしかできなかった。
日は高く昇り、死んだように眠っていた人々も大きな欠伸と共に起き上がりつつあった。