終末世界で未来の夢が見たいなら。
かつて大繁栄時代と呼ばれた時代があった。
人類の英知の発展はとどまる所を知らず、100億が限界と言われていた世界人口は食料生産技術などの進歩によって500億を突破した。
しかし、技術の進歩は爆発的増加を続ける人口に追いつかず。
地球という入れ物の中で飽和した人類は、次なる新天地として宙に輝く星々へと目をつける。
これが宇宙開拓時代。
本来ならば語られるべきはこの輝かしい栄光の時代のはずだが、ここで語るのはさらにその後の物語だ。
舞台は、生存圏の拡大と星間国家の維持管理に夢中になった人類が手放した後の地球。
人類が作り変え、支配していた自然は本来の姿を取り戻し、緑が再び地表を覆った。
地球に残った僅かな人類は、ある場所では繁栄し、またある場所では滅びていった。
大繁栄時代から数千年――。
人類は、その進化の歴史を繰り返していた。
薄暗い通路にコツコツと足音が響いている。
周囲の壁は黒く、気温は低い。ところどころに照明がついていたが、その明かりは今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。
その下を歩く一つの影。
「まだ動いている大繁栄時代の遺跡があるなんて……」
声の主の名前はイラ。黒い髪を短く切りそろえた、中性的な見た目の少女だ。髪と同色の瞳であたりを興味深そうに見回している。背格好は十代半ばほどで、整った顔立ちをしていた。
イラがこの遺跡を見つけたのはつい先刻だ。放浪の旅の途中、通りかかった森の中で、遺跡はぽっかりとその口を開けていた。
何千年も前の建造物にしては、通路に入り込んだ塵や砂は少なく、ずっと眠っていた施設が何らかの原因でつい最近動き始めたようだった。
かすかな青白い光が照らす通路を、イラは慎重に進む。
道中見つけた機械類はそのほとんどが壊れているか、電源を入れた瞬間壊れるといった状態だった。
そんな中、とあるドアの前でイラは立ち止まる。
そのドアは他のドアより頑丈そうで、取っ手が無かった。
「自動ドアか……まだ動くかな」
脇にあるパネルにイラが手を置くと、ドアは耳障りな音を立てながら動き、半分ほど開いたところで止まってしまった。
「さすがにガタが来てるか……でもまあ、入れないことはないかな」
イラはできた隙間に体を滑り込ませると、強引に部屋の中へと侵入する。
そして、
「なんだ……これ……」
目に入った光景に、絶句した。
部屋の中は照明が壊れているのか、暗闇に満ちている。
奥の方には大きな卵型の機械がずらりと並び、不気味な威圧感を放っていた。
しかしそれらはことごとく壊れていて、機械としての寿命は尽きているようだ。
――イラの目の前で光を放つ、ただ一機を除いては。
卵型の機械の中には緑色の液体と、裸体の少女が収まっていた。
少女の目は閉じられていて、生きているのか死んでいるのかもわからない。
しかしその瑞々しい肌は、およそ数千年前に滅びた文明の遺跡に似つかわしくないものだ。
「第四次大戦時の戦闘用クローン……」
透明なガラス部分をなぞりながら、イラが呟いたその時だった。
ガポッ、という音がして機械の中を満たしていた緑の液体が流れ出しはじめる。
おそらくそのままどこかへ排出されるはずだった液体。それは、どこかに穴でも開いているのかみるみる床へと溢れ出した。
驚いたイラが飛び退くのと、液体を排出しきった機械のガラス扉がプシューと音を立てるのはほぼ同時だった。
そして、ゆっくりと扉が開く。
間を隔てていたものが無くなり、現れた少女の姿はより一層の現実感をイラに与える。
その肌は透き通るように白く、腰まで伸びた髪も身体の設計図に最初から色素が組み込まれていないかのように真っ白だった。
体躯は幼く、精巧に作られた人形だと言われればそう見えなくもない。
しかし、彼女の小さな胸が突如空気を取り込んで膨らみ、直後むせこみはじめたことで彼女が人間であることが証明された。さらには生きているのだということも。
ケホゴホとひとしきり咳をしていたのが落ち着くと、少女は静かに目を開く。
瞼の裏にあったのはルビーのような赤い瞳。そこから放たれる視線は、これまでの様子をじっと観察していたイラのものと交錯する。
数秒の間があって、少女が動いた。
ゆっくりと身体を起こし、おぼつかない足取りで機械から這い出ようとして、べしゃりと液体のまき散らされた床へと墜落する。
慌ててイラが駆け寄ろうとするが、少女の口から紡がれた言葉を聞いた瞬間、それをすることは叶わなくなった。
「――拠点内に敵性個体を確認。排除行動に移行」
直後、床に伏していた少女の姿が消える。
否、消えたように錯覚するほどの速さで、少女はイラとの距離を詰めていた。
流れるような動作から、殺人的威力で繰り出される少女の蹴り。とっさに防御にまわしたイラの腕が、みしりと悲鳴をあげる。
刹那の時間でイラは理解した。
大繁栄時代の遺跡の奥で、培養機械に収められていた少女。それが、人類が地上で最も栄えていた時代に生み出された、殺人兵器であることを。
少女は防がれた蹴りを力任せに振りぬき、イラを吹き飛ばす。
きりもみしながら床を転がるイラへ、人間離れした速度で接近した少女が拳を振り下ろす。
ぱんっと破裂音を伴って繰り出されたその拳は、イラの脇腹を穿った。
ばきゃ、というおよそ人体に似つかわしくない音がする。
「ぐあぁっ!」
苦痛に顔を歪めるイラへ、少女が追撃をかける。
もはや目で追うのも困難な速度で繰り出された手刀。その手がイラの喉元を掻き切ろうとした――その瞬間。
イラの目が変化した。
黒かった瞳の奥は精巧に作られた微小な部品が規則的にうごめき、目を模したレンズはその時々によって輝きを変える。
少女に穿たれた傷口から見えるのは、血液ではなく金属特有の青白い光沢。
人類の衰退しきったこの地上で、もはや存在しないはずの技術と叡智の結晶。
イラは――機械だった。
反撃に移るイラと少女の拳が交錯する。
数刻の後、イラは壁に背をもたれて気を失う少女を見下ろしていた。
少女の透き通るような白い肌には、打撲や内出血によるシミが痛々しく残っている。
しかし、痛みつけられたのはイラも同じだった。最初の攻撃で開けられた脇腹の大穴の他、人の身体であったならば一つでも命を落とすのに十二分な損傷をあちこちに受けている。
辺りに散らばるのが臓物と鮮血でないのは、イラの身体が機械であるためだ。
しばらく少女が目を覚まさないであろうことを確認すると、イラは部屋の奥に設置された箱型の機械へと向かう。
おそらくは軍事施設であっただろうこの遺跡の、システムに接続するためのコンソールだ。
その機械に手を触れると、慣れた手つきで操作し始める。
しばらく指を動かし続けたあと、イラは呟いた。
「一週間前からの記録が無い……」
それはこの施設が一週間前まで動いていなかったことを意味していた。
「一週間前といえば、大きな嵐のあった頃だな……そうか、雷!」
落雷によって、停止していたこの施設の発電設備が再稼働したのだとしたら、本来短命で使い捨てであるはずの戦闘用クローンが、戦争が終わって数千年経過したこの時代にいることも説明がつく。
「あの子のデータは……あった。『New-assassinator TRX-1025』か。また物騒な名前をつけたもんだな。まあ対戦車や対戦闘機用に作られたボクの身体をここまでボロボロにするくらいだから、それなりの名前がついてて当然か」
イラはしばらく画面を眺めると、再び指を動かし始める。
「クローン管理システムは……生きてる。データベースも……大部分が無事。驚いた、こんなに状態のいい遺跡は初めてだ。あとはあの子をどうするかだけど……」
いまだ壁にもたれて気を失っている少女を見ると、イラは数度画面を操作し、少女の方へ歩み寄る。
イラが離れたコンソールの画面には、『New』の三文字だけが残っていた。
少女は再び機械の中で目を覚ました。
先刻と異なる点は、目の前で少女の様子をうかがうイラへ襲い掛からないこと。
今とさっきと状況は同じはずなのに、なぜその気が起こらないのか、少女自身にもわからなかった。
「あ、目が覚めた。気分はどうかな? 解除コードで人格操作は消したはずだけど……上手くいってる?」
自分に聞かれてもわからない。
少女は思ったが、そう思えることこそが、人格操作が解除されている何よりの証拠だった。
「その様子だと上手くいったみたいだね。立てるかい? さあ、手を取って」
そう言ってイラがにこやかに手を差し出すが、少女は躊躇した。
確かに目の前の相手が破壊対象であるという認識はないが、それでもつい先刻まで殺しあっていた相手なのだ。
イラの手を見つめながら固まってしまった少女に、イラは優しく語り掛ける。
「大丈夫、君はもう戦うための機械じゃない。一人の人間だ。だから、君に新しい名前をあげよう」
イラが少女の手をつかんで無理やり起き上がらせる。
「君の名前は『ネウ』だ」
ネウと名付けられた少女は、森の道をイラと歩いていた。
天気は良好。心地よい風が髪をなびかせる。
木々が伸ばした枝と枝、葉と葉が重なり合って、行く手に木漏れ日のカーテンを作り出していた。
本来ならば出撃のため無感情で駆け抜けていったはずの景色が、数千年遅れで生まれた戦闘用クローンの目に色鮮やかに写り込む。
踏み固められた硬い土、道端に生えた何の変哲もない雑草、すべてがネウにとっては新しい発見だった。
ひとしきり周囲を眺めまわすと、ネウは隣を歩くイラへと問いかける。
「……どうしてネウをつれていくの?」
ネウは自分がなぜこの時代に生み出されたのかわからない。しかし、自分が何者であるかはわかっていた。
戦争のための兵器。事実、ネウは生まれて初めて目を開いた次の瞬間には、イラを殺そうとしていた。
そんな危険を孕んだ"モノ"を、わざわざ持ち出す理由がわからない。
「たたかわせるため?」
「違うよ。君を連れ出した理由は……そうだな。強いて言うなら『同族のよしみ』かな」
その答えにネウは首をかしげる。
イラは機械だ。対して、自分は一応生物に属する。そのあたりの知識は自分を生み出した装置によって脳にインプットされていた。
「種族的な意味じゃない。兵器であることもそうだけど、それ以前に、大繁栄時代の――『過去の遺物』って意味での、同族だよ」
そう語るイラの目はどこか遠くを眺めていて、ネウはイラを機械らしくない機械だと思った。
その後も森の中を散策していると、突然イラが立ち止まる。
「……誰かいる」
その言葉に、ネウも頷く。
イラはセンサー類で、ネウは生物兵器として極限まで引き上げられた五感で、それを感じ取っていた。
その気配のする方へ、イラが歩き出す。
ネウは一瞬戸惑ったが、すぐに戦闘準備を整えると、イラの後を追って走り出した。
イラとネウがやってきたのは、小さな川だった。
さらさらと音を立てる水の流れを眺めているだけで、心が浄化されるようなのどかな風景。
そんな景色の中に、異物が混ざっていた。
川岸の岩にぐったりと、一人の少年がもたれかかっている。
体中あざと切り傷だらけで、胸の上下動が無ければ死体に見えるような有様だった。
イラは少年に近づくと、少しの間その様子を眺める。
「……脈は弱まってるが正常だな。見た目の傷より体力的な衰弱の方が深刻だ」
少年に指一つ触れることなく状態を見抜いたイラに、ネウはイラの性能の高さを再認識する。
ネウも敵兵を捕虜として生け捕りにするため、ある程度の医療知識がインプットされているが、触診や各部位の観察を行わずに相手の状態を把握することはできない。
イラは紛れもなく高度な技術で作られた戦闘機械だった。
「これだけ身体が傷ついているということは、おそらく上流から流されてきたんだろう。川に沿って歩いていけば、きっと集落か何かがあるはずだ」
イラはしゃがみ込むと、少年を背中に担ぐ。
そして持ちやすいように少し体勢を整えると、そのまま川の上流の方へと歩き出した。
「……なにをしてるの?」
イラの後について歩き始めたネウが、心底不思議そうに尋ねる。
「何って……助けるんだよ。このまま放っておいたらこの子は確実に死ぬ」
「でも、すいじゃくしてる。ほりょとしてのかちはない。そもそもてきじゃない。どうしてたすけるのか、わからない」
今度はイラが不思議な顔をする番だった。
「誰だって死にたくないだろう?」
「しにたくない? どうしてしにたくない?」
首をかしげるネウの姿を、イラが下から上まで視線を動かして眺める。
そこに人格操作や精神異常の兆候が無いのを認めると、イラは一つの答えを導いた。
「最初から、『死への恐怖』という概念が組み込まれてないのか……」
考えてみれば当然の話だった。大量生産される戦闘用クローンがいちいち死を恐れていたら、兵器として成り立たないだろう。
イラ自身、ただ自身の損壊を回避するために組み込まれていたプログラムが、いつから生存欲求に変わったのかわからない。
「まあ君にもそのうちわかるようになるさ」
そういうイラの顔は、どこか悲しげな表情をしていた。
しばらく川の脇を流れに逆らって歩くと、大きな岩や流れの速い場所が目立つようになってきた。
そこでイラたちは、大勢の人間が川の中にいるのを見つける。
その中には若い女も白髪の目立つ男もいたが、子供はいなかった。そして、みな少年と似たような服を着ていた。
「どうやら予想は当たりだったみたいだ」
イラが嬉しそうに笑う。
ネウはそんなイラを不思議そうな目で見ていた。
「まったく、なんとお礼を言ったらいいか……」
夜。イラとネウは、少年を助けたお礼として、夕食に招かれていた。
イラとネウの向かいには、少年の両親。同じテーブルに、集落の長も同席していた。
「あの子は――シエンスは、負けず嫌いな子でして……他の子にけしかけられてあの川を渡ろうとしたんです。それで、足を滑らせて……」
少年の母親はそこまで言うと、感極まったのか泣き始めてしまった。
代わりに、少年の父親が話し出す。
「村の医者によれば、シエンスの傷は見た目ほど酷くないようで、体力さえ戻れば数日で立てるようになるだろうとのことでした。ただ発見が遅れていれば助からなかっただろうとも……本当にありがとう。感謝してもしきれません」
イラは大したことはしていないと謙遜するが、少年の両親はなおも感謝の言葉を述べ続ける。
「お嬢ちゃんもありがとうね」
少年の父親がネウにも感謝の言葉を送るが、ネウは首をかしげた。
直接少年を助けたわけではない自分が感謝される理由もわからなかったが、それ以上になぜこの二人が喜んでいるのかが理解できなかった。
子供を助けることで、この二人にどんな利点があったのだろう。
そんなネウの考えなど露知らず、少年の父親はイラたちに言った。
「息子を助けてくれたお礼がしたい。私たちにできることがあればなんでもおっしゃってください」
数日後、集落の中でもひときわ大きな建物の一室でくつろぐイラとネウの姿があった。
部屋の扉がノックされ、一人の男性が入ってくる。
「どうですかイラさんネウさん。この客間の居心地は」
「とてもいいですよ村長さん。ありがとうございます」
部屋へと入ってきた村長に、イラが礼を言う。
「いえ、それは何よりです。ひと月と言わず、もっといてくださってもかまいません。村にとって子供は何よりの宝ですから、救ってくださったイラさんにはみんなが感謝しています」
そう言って何度も頭を下げる村長を、ネウはやはり不思議そうに見ている。
そんなネウの視線に気づいたのか、村長ははっとした様子で自分が入ってきた扉の方に目を向けた。
「そういえば紹介したい子らがいます。部屋へ入れてもよろしいでしょうか」
イラが肯定の意を示すと、村長に手招きされて数人の男子が入ってくる。
その中には、イラが助けた少年シエンスの姿もあった。
シエンスは一歩前に出ると、頭を下げる。
「そ、その……助けてくれて、ありがとうございました」
「いや、元気になったようで何よりだ。聞いてるかもしれないけど、ボクの名前はイラ。そっちに座ってるのがネウだ」
イラがネウを紹介すると、子どもたちの興味はネウに移ったらしい。
「すげぇ……髪が真っ白だ……ネウって名前も珍しいな。どこからきたんだ?」
「なんでイラさんと旅してるんだ? 姉妹なのか?」
子供たちから質問攻めにされて、ネウが視線でイラに助けを求める。
その様子をほほえましく眺めていたイラだったが、思いついたように手をたたくと、
「そうだ、ネウもみんなと遊んでもらうといい」
その言葉で、ネウの顔には驚きが、子供たちの顔には喜色が浮かんだ。
「で、でもネウは……」
「君はまだ物事を知らなすぎる。いろいろ教えてもらうといいさ」
「そうだよネウ! オレたちと遊ぼうぜ!」
「村の女子は女だけで固まって、オレらと遊ばないんだ。ネウみたいな可愛い子なら大歓迎さ!」
男子たちは期待を込めた目で見つめるが、ネウはやはり困ったような目をイラに向ける。
しかし助けを求める視線も届かず、やがてネウは半ば攫われるようにして外へと連れ出されていった。
「さーて、何して遊ぶかー」
ネウを引き連れた男子数人の集団が、今日の予定を話しあう。
「球蹴りにしようぜ! シエンスが怪我してたから今まで人数不足でできなかっただろ」
「いや、オレはまだ安静にしてろって……じゃないと母ちゃんが」
「なんだよ、怒られるのか?」
「いや、泣くんだ」
「「…………」」
その場の全員が無言になる。
「ま、なら仕方ないか……」
「じゃあネウが代わりに入ればいいんじゃね?」
「いや、でも女の子じゃ戦力にならないだろ」
「そんなのやってみなきゃわかんないだろ。なあ、ネウ? 球蹴りできるよな?」
男子の一人がそう尋ねて、それまで黙って後ろを歩いていたネウが首をかしげる。
「なにそれ」
「五人と五人のチームにわかれて、球を蹴り合うんだ。使っていいのは膝から下だけ。そうやって球を奪い合って、味方の陣地まで持っていったら一点だ。できそうか?」
ネウは少し考えて、
「できる」
そう答えた。
数刻の後。
「……だぁ! またネウの独壇場だ!」
「なんで球を持ったままオレたちの身長より高くジャンプできるんだよ……」
「あんなのから球を奪うなんて、絶対無理だ」
ネウの敵チームになった少年たちが文句を言う。
反対に、ネウの味方チームの少年たちは、ネウをもてはやした。
「ネウすげー!」
「どうやったらそんなに速く動けるんだ?」
「今のジャンプ、もう一回見せてくれよ!」
口々に言い寄られてネウは戸惑ったし、なぜ彼らが悔しがったり喜んだりするのかもわからなかった。
けれど、悪い気分ではなかった。
「よし、もう一回やろうぜ!」
そんな少年の言葉に、待ったをかける声があった。
「おーい、みんなー!」
その声は村の中心のほうから走ってくる、一人の女性が発するものだった。
若い女性で、普段運動しなれていないのか、男子たちの前まで来るとぜいぜいとしばらく息を切らしていた。
「クイントさん家の赤ちゃん、とうとう生まれたんだって!」
それを聞いた男子たちが、一斉に歓声を上げる。
「マジで!?」
「男の子か? 女の子なのか?」
「早く見に行こうぜ!」
そう言って走りだす彼らをネウが眺めていると、
「ネウも行こう!」
シエンスに手を引かれて、ネウも走り出した。
そこは村の中心部より少し東にずれた、小さな家だった。
家の中には村の女子たちもいて、みんな新しい命に興味津々のようだ。
大勢で取り囲むと負担になるからと、数人ずつ赤ん坊と面会することになった。
流れでついてきたネウは、怪我をしていて出遅れたシエンスとともに、一番後の順番だ。
助産師らしき女性に招かれて家の戸をくぐり、垂れ布で仕切られた空間の内側に入ると、そこには赤ん坊を抱いてベッドに横たわる女性がいた。
シエンスが女性にネウを紹介すると、女性もネウのことを聞いていたようで話はスムーズに進んだ。
まずはシエンスが赤ん坊を抱き上げて、「うわ……小さい」とつぶやく。おっかなびっくりではあったが、赤ん坊を抱えた腕を動かして揺りかごのようにしてみたり、女性に赤子を扱うときの注意点を聞いたりしていた。
「さあ、次はネウちゃんの番ね。くれぐれも落とさないように」
そう言って女性は、ネウに赤ん坊を渡す。
腕の中の赤ん坊を、ネウはしばらく眺めていた。
どう反応したらよいか困っている様子のネウに、女性が尋ねる。
「どう? 新しい命の重さは」
「あたらしい、いのち……」
ネウはその言葉を反芻すると、赤ん坊の手に指を置いた。
ぎゅっ、と赤ん坊がネウの指を握る。
「……いきてる」
そう呟くと、一度赤ん坊の手から指を離し、もう一度握らせる。
ネウは何も言わないまま、しばらくその動作を繰り返していた。
それからというもの、ネウはよく出かけるようになった。
村の子供たちが来れば一緒に遊びに行くし、村人の手伝いをしているイラのお手伝いをすることもある。
そして一日の終わりには必ず、村の中央から少し外れたあの家を尋ね、赤ん坊の様子を見ているらしい。
そんな日々の中で、ネウは少しずつ感情を表に出すようになっていった。
「今日も出かけるのかい?」
「うん。あのこのところ。きのうからねつがあるみたいで、みんなしんぱいしてる」
「それは心配だね。ネウは大丈夫かい?」
「ネウ? ……そういえばさいきん、すこしからだのちょうしがおかしい。うごきがおもいかんじ。でも、だいじょうぶ。たまけりではまだいちどもまけてない」
「……そうか。ネウも身体には気を付けて」
「うん、わかった。じゃあいってくる」
そう言って飛び出していったネウだが、少しすると思い出したように戻ってくる。
「そうだ。わすれてた」
イラの元まで歩いてくると、ネウは真っすぐイラの目を見て言った。
「ネウをつれてきてくれて、ありがとう」
驚くイラを横目に、ネウは再び部屋を飛び出す。
イラはしばらく呆けたようにその場に固まっていたが、やがて少し微笑むと、すぐに顔を曇らせた。
「……ネウには悪いことをしたな」
その日、いつもならとっくに帰ってきているはずの時間になってもネウは帰ってこなかった。
最初はこんな日もあるだろうと気にしていなかったイラだが、夕食の時間が終わって村の皆が寝る支度を始めても戻ってこないとなると流石に不安になる。
ネウを探して外に出ると、辺りは真っ暗だった。
「ネウ……どこにいるんだ」
イラは自身の身体に組み込まれたセンサー類の出力を最大まで引き上げると、夜の闇の中へと歩き出した。
程なくして、ネウは見つかった。
そこは、イラとネウが少年シエンスを運んできた、村はずれの川だった。
ネウは川辺に立っていた。辺りには川の上流らしくごうごうと水の流れる音がする。
雲の切れ間から、月明りが世界を青白く照らしていた。
「ネウ、探したよ。夕食も食べずにこんなところで、何をしてるんだい?」
声をかけられて初めてイラの存在に気づいたのか、ネウはゆっくりと振り返る。
ネウは茫然とした表情で、目の焦点も定まっていなかった。
しばらくイラの方を向いた後、再び視線を下げる。
「何かあったのか?」
「……あのこがしんだの」
ネウはぽつりと言った。
「"あの子"って、ネウが毎日通ってた、クイント家の赤ん坊?」
「……うん。うまれたときからびょうきだったって。ねつもそのせいだったって。うまれたばかりのこは、からだがよわいから、こういうことはめずらしくないんだって」
おそらくそう村の大人から教えられたのだろう、ネウは淡々と語っていた。
「……あのこのからだ、つめたくなってた。もううごかなかった…………ゆび、にぎってくれなかった」
ネウの言葉を、イラは黙って聞いている。
「あのときのイラのことば、いまならわかるきがする。だれだってしにたくない。しんでほしくない。だってすごく……かなしいから」
ネウが無言になると、その静寂を埋めるように川の音が存在感を増す。
長い沈黙の後、イラが口を開いた。
「今日はもう帰ろう、ネウ。自分で気づいているかわからないけど、君はいま落ち込んでいるんだ。今日は部屋に戻って、身体を休めよう」
イラがそう言って、ネウはしばらく時間を置いた後、小さく頷いた。
「わかった。イラのいうとおりにす……あれ?」
イラの方を振り向こうとしたネウが、体勢を崩す。
視界が歪んで、平衡感覚が無くなって、ネウはいつの間にか地面に倒れていた。
靄がかかるように、ネウの意識が暗くなってゆく。
消えてゆくネウの視界に、申し訳なさそうな表情のイラが映っていた。
イラは後悔していた。
ネウは――この少女は、死というものを間近で見て、それがどんなものかを知った。知ってしまった。イラの想定よりも、ずっと早く。
本当ならば、ネウは死の恐怖を理解することなく死ぬはずだった。戦闘用クローンの、一ヵ月という短い寿命の中で。
戦闘用クローンは、人類が地球上で最も繁栄した時代に起こした、最も激しい戦争の中で生み出された兵器だ。人間の遺伝子を操作し、一週間という短期間で戦闘に特化した最強の兵士を作れるようにした。その代償が、一ヵ月しか生きることを許されないという重い枷。
しかし、当のクローンたちはそれを不幸だと感じていなかった。死ぬということがどんなことか、最初から教えられていなかった。だから、大量のクローンが戦場に出て、大量のクローンが死んでいった。どのクローンもそこに疑問も不満も抱いていなかった。
しかし、ネウは違う。イラが変えてしまったのだ。遺跡での機械操作と、この村での生活によって。
だから、村の客間で目を覚ましたネウが、自分の寿命を知って絶望の表情を浮かべているのはイラが原因だった。少なくとも、イラ自身はそう思っている。
「ネウも……しぬの?」
「ああ。だけどまだあと数日は生きられるはずだ。その残りの時間を、ネウには幸せに過ごしてほしい」
その言葉はイラの本心だったが、ネウにとって気休めにすらならないこともわかっていた。
ネウはもう知ってしまったのだ。生きるということの楽しさも、死ぬということの怖さも。
「……どうしてネウをころさなかったの?」
その質問は単純な問いかけではなく、非難の色を含んでいた。
「ネウは、すごくたのしかった。イラがしせつからつれだしてくれて、いろんなものをみせてくれて、すごくうれしかった。このむらのひとたちとあそぶのも、すごく……でも、ぜんぶいらなかった。どうせしんじゃうなら、こんなにくるしいなら、ぜんぶいらなかった!!」
半ば悲鳴のような声でネウが叫ぶ。
イラが知る限り、ここまで感情をあらわにしたネウは初めてだった。そして、その頬を流れる涙も。
「むねが、いたいの……くるしいよ……イラとも、むらのひとたちとも、これからもずっといっしょにいたいのに、どうしてネウはいきられないの?」
それはネウが世界を、そしてネウ自身を呪う声だった。
イラがあのときネウにかけられていた人格操作を解除しなければ、ネウは死ぬことに喜びも悲しみも感じることなく、兵器としてその一生を終えただろう。こんな風に涙を流させることもなかっただろう。
ただ、そんなネウに、イラはかつて兵器だった自分を重ねてしまった。感情を与えてみたいと、思ってしまったのだ。
イラは後悔していた。
泣きつかれたのか、眠ってしまったネウを抱きかかえて、イラはある場所を訪れていた。
そこはネウとイラが初めて出会った、あの遺跡。その最深部にある、ネウを生み出した機械の前だった。
機械の中に、初めて出会ったときのようにネウをそっと横たえる。
「ここで眠っている君を見たとき、たぶんボクは嬉しかったんだ。数千年ぶりに、仲間に出会えた気がした。だから、君を連れ出した。これはその償いでもあり――そして、君へのプレゼントだ」
そう言うとイラは、機械のガラス扉を閉める。
ネウは、眠ったままだった。
ネウが目を覚ました時、そこは機械の中だった。
なぜ自分がここにいるのか疑問に思いながらも、ガラス扉を開けようと手を伸ばす。
その時、視界に入った自分の腕に違和感を抱いた。
腕だけではない。視線を下に向けると、そこには馴染みのない身体のパーツ。自分の身体が、自分のものではなかった。
「これは、イラ……?」
呟いたその声も、ネウではなくイラのものだった。
ばっと機械を飛び出し、辺りを見渡す。そして、自分の今いた機械の隣に、信じがたいものを見つけた。
「ネウの……身体……」
隣の機械には、自分が眠っていた。ありえない状況に、ネウが混乱する。
その時、ネウの――ネウが動かしているイラの身体から、一枚の紙が舞い落ちた。
そこにはこう書かれていた。
『ネウが死を受け入れられるようになったら、またここに戻っておいで』
紙を取り落とし、ネウは膝をつく。
何が起こったのかは大体わかった。ここに並んでいる機械は、生み出したクローンに人格を書き込むことができる。それを応用して、イラは自身の身体にネウの意識を移し替えたのだ。
辺りにイラの姿は無い。当たり前だった。いまこの身体を動かしているのは、ネウなのだから。
一つの身体には一つの人格しか書き込めない。できるとしたら、上書きだけ。
つまりは、そういうことだった。
「そ、んな……」
望んだことでないとはいえ、イラという人格を消し去ってしまった事実。どうしようもない虚無感が、ネウを襲った。
ついさっきまでイラのものだった自分の身体を抱きしめ、その場にうずくまる。
「イラのいないせかいでいきてても、いみなんてないのにっ……」
ネウの言葉を聞いてくれるものは、どこにもいなかった。
――永い年月が経った。
日が沈み、月が昇り、夜が明けて、日が昇る。数えきれないほどの日々が流れていった。地上ではたくさんの生き物が生まれ、そして死んでいく。人々は相変わらず、各地で細々と生活していた。
木々が生い茂る道を、一人の少女が歩く。木漏れ日が少女の来た道を、そしてこれから歩む道を照らしていた。
少女の目的地は、森の中にその口を開けて待ち構えていた。古い遺跡で、通路は黒い壁に囲まれている。
躊躇うことなく、少女はその中へと足を踏み入れた。その表情は、何かを懐かしむような、悲しむような、それでいて満ち足りたような、複雑な表情だった。
遺跡の奥の奥、壊れて半開きになっているドアを潜り抜けて、少女は――ネウは、その部屋へ足を踏み入れた。
果てしない絶望と虚無感に突き落とされたあの日から、一体何年経っただろうか。死なない身体を与えられたネウは、世界中を巡った。
数えきれないほどの出会いがあって、数えきれないほどの新しい発見があった。けれどどこかで、満たされなかった。
「やっぱりイラがいなくちゃ駄目なんだよ……」
機械の中で仮死状態になっている、かつて自分のものだった身体を見ながら、ネウは呟く。
ここにある設備を使えば、自分の意識を元の身体に戻すことは簡単だった。けれど、それでイラの人格が蘇るわけでもない。
だからネウは、世界中を探し回った。再びイラと、楽しい日々を過ごすために。
「ずいぶん時間がかかったけど、やっと見つけたんだよ。イラ」
そう言ってネウは、かつてイラがネウの人格操作を解除するために使ったコンソールを叩いた。
古い機械が、動き出す。
その少女は機械の中で目を覚ました。
少女はそれを、とても不思議に感じた。
この身体は手放したはずだった。この思考も感覚も全て消えて、あの子のものになったはずだった。
困惑する彼女をよそに、機械の扉は開いていく。
その向こうには、こちらへ手を差し伸べる、白い髪の少女。
ああ、そういうことか――全てを理解した彼女は、差し出された手を取る。
白い髪の少女は、元の持ち主へと戻った身体を見て、満面の笑みで言った。
「きみのなまえは『イラ』だ」