令嬢と令息の距離8
イリアは初めて、自分の価値観ではないものと出会ったような顔をした。
小さく口を開いたり閉じたりする。
「そなたでは、資格がない。だから結婚できない」
「でしたら、あの娘……。ホリール男爵家のベリアナとかいう娘ならその資格があると、あなたはおっしゃるの?」
「ああ。彼女は最初から先入観などなにもなく、義母上と親しくしていた。周囲の人間から義母上の出自を聞いても、彼女の態度は何も変わらなかった」
「認められませんわ。わたくしをそのような小さなことで拒絶なさるなんて。わたくしは、小さなころからきちんとした家格の家に嫁ぐようにしつけをされてきました。人には分があります。それをわきまえずに上へと飛び込んだのはあなたの義理のお母様であり、ベリアナという娘でしょう。どうして、あなたがそんな者たちに煩わせられないといけないのですか」
「私は煩わせられていると感じていない」
「ろくな躾も施されていない田舎出の男爵令嬢に、わたくしは負けるの?」
イリアはまっすぐにディオニオの瞳を射抜く。
影が一段と濃くなった。
日が落ち始めたのだ。
「負けるとかそういうのは関係ない。私がベリアナと出会って、彼女に恋をした。私は彼女の愛がほしい」
「愛など、あなたからそんな陳腐な台詞を聞くことになるとは思ってもみなかったわ」
「幻滅したのなら、そなたから私のことを振ってほしい。そのほうが、そなたの傷も浅くて済むだろう」
「そしてあなたは傷づかずにすみますものね。ずるい方。わたくしを思い切り振ってみたらいかがかしら? ベリアナにはわたくしの口からはっきりと言ったわ。あなたはわたくしの婚約者、だと。そのわたくしを振って彼女に愛を請うて、彼女は果たして答えてくれるのかしら」
初めてイリアが感情らしいものをみせる。
ディオニオに対する意地の悪い言葉を聞いて、彼は初めてイリアの人間らしさを感じ取った。
「それがそなたの私への罰なら仕方ない。しかし、そなたも傷つくことになる。人々は下世話なうわさ話をするだろう。令嬢から男性をこき下ろして振ってしまえば、それで終わりだが、私から縁談を断ればしばらく噂はついて回る」
ディオニオは冷静だ。
実際二人の間には婚約などという約束は何一つない。にもかかわらず、カルディスカが先走って、外堀を固めようとした。
「あなたって本当に……こういうときまで冷静なのね。腹が立つくらいに」
「こういう性格なのは持って生まれた性分だ」
「ベリアナは、あなたのその鉄面皮を怖がったりしないのかしら」
「最初は怖がられたけど、ある日を境にまったく怯えなくなった」
「ああそう」
イリアは面白くなさそうにおざなりに返事をする。
「わたくし、帰りますわ。カルディスカ様がなんて言いますかしら。彼女を説得するのは至難の業よ」
「その心配には及ばない。今頃父上が祖母の元を訪れている。我が家の妻の条件をちゃんと説明している」
「ああそうですか。でしたらもう勝手になさって」
今度こそイリアは部屋を後にする。
ぱたんと扉が閉まった。薄闇の部屋にディオニオは一人取り残された。
やることはやった。
セドニオも腹をくくると言っていた。
これまでのらりくらりと躱してきたが、パニアグア侯爵家の嫁選びの基準をしかと伝えると意気込んでいた。
別にセドニオは、最初の妻を軽んじているわけでない。それは彼からきちんと説明を受けている。けれど、ディオニオたちにとっては今という時間も大切なのだ。
☆ ☆
オートリエに呼び出されたのは、ディオニオがイリアと秘密会談をした三日後のことだった。
「あなた、最近ベリアナに何かしたでしょう。わたくし、あなたのことを信じていたのよ。それなのに……」
オートリエはディオニオを呼びつけるなり開口一番に彼のことを非難する。
オートリエが怒った顔をするのは珍しいことだった。
「彼女が何か言ったのですか」
ベリアナにはまだ謝罪できていない。
しようにも、足が彼女の方へ進まない。拒絶されるのが怖かった。
「あの子、実家に帰りたいだなんて言い出したのよ。婚活はどうするつもりなのかしら。……あなたたち最近変だわ。ベリアナはあなたと顔を会わせたくないみたいに、レカルディーナにべったりだし」
「私は……」
これを本人以外を相手に口にするのは憚られた。
「まあいいわ。それよりも、あなた、イリア様に振られたのですって。昨日お手紙が届いたのでしょう。セドニオ様から聞いたわ」
「はい」
オートリエは自分から会話を振った割にあっさりと話を別の方向へと持って行った。
もしかしたらこちらの方を聞きたかったのかもしれない。オートリエはディオニオの結婚話については蚊帳の外に徹している。
「あなた、もう少し好きな子に対しては積極的に行かないと駄目よ。若いのだから愛情表現は大げさなくらいにしてあげないと。だから朴念仁はごめんです、なんて言われて振られちゃうのよ」
「……」
なんて言っていいのかわらかなかったのでディオニオは黙った。
オートリエの中ではそういうことになっているらしい。というか、セドニオは彼女にどんな説明をしたのか。
「手紙には簡潔に、今回の縁談は無かったことにしてほしいと書いてあったと思いますが」
黙ったままではオートリエの中でディオニオの評価が朴念仁と固定化されなかったため、ディオニオは仕方なく反論した。
「あら、あなたイリア嬢に対してつれなかったじゃない。そういうの、よくないと思うわ」
「あれは私の祖母が先走っただけです。侯爵家の面々は誰一人了承していませんでした。祖父を含めて」
ディオニオは領地で隠居生活を送っている前侯爵を引き合いに出した。
同じ家柄に属する娘を親子二代にわたって貰うのもあまり褒められたものではない、均衡がおかしくなると、彼は懸念を示していた。
「そうなの……。まあいいわ。とにかく、わたくし困っているのよ。ベリアナが里心を出してしまって。あなたが婚約をして、変に遠慮をしているのかと思ったのだけれど、やっぱり実家が恋しくなったのかしら。都会は怖いだなんて……そんなことないのに」
オートリエはふうっと息を吐いた。
その顔には憂いが生じている。
「彼女を帰すのですか?」
「そうねえ。あんまり無理にとどめておくこともできないし。本当は、こちらで素敵な旦那様を見つけてほしかったのだけれど」
「それは……私では駄目ですか?」
ディオニオはついに言った。
「私って?」
オートリエはきょとんとした。
その仕草は少女のようだった。
「ですから、ベリアナの夫です。私が立候補します」
オートリエは目をぱちくりとさせた。
数秒後、「……あなた、もしかして、彼女のこと好きなの?」と聞いてきた。
「ええ。夏に出会ってから」
ディオニオは不機嫌に答えた。
「嘘!」
オートリエは大きな声を出した。
「どうして義母上に対してそんな嘘をつかなければならないのです」
ディオニオは淡々と述べた。
「そうよね……。いや、だって。あなたちっともそんな素振りを見せなかったじゃない。跪いて求婚をしなかったし、もちろんバラの花束は欠かせないわ、真っ赤な薔薇よ。それに、愛の言葉だってちっとも彼女に囁かなかったじゃない」
いつかセドニオが言っていたとおりだった。オートリエの中では愛情表現がそれすなわち、そういう行動なのだ。
「誰もがそんなわかりやすいことをできると思ったら大間違いです」
「そこは愛の力ってやつよ」
「父上も同じようなことをしたのですか?」
なんとなく疑問に思って聞いてみた。
「もうっ! ディオニオったら、大人をからかうんじゃないわよ。もちろん、セドニオ様は真っ赤な薔薇を九十九本用意してくれたわ」
オートリエは両手を頬に当てて体をくねくねさせた。からかうなと言いつつ全部惚気として教えてくれるのがオートリエなのだ。
「と、とにかく。あなたも本当にベリアナに対して誠意を見せたいのなら、それなりのことを態度で示しなさい」
ごほんと咳ばらいをしたオートリエが厳かに告げた。
「わかりました」
「あら、あっさり了承するのね。もっとごねるのかと思ったわ」
「私はベリアナを妻にしたいのです」
「もう、そういうことはちゃんと本人を目の前に言ってあげて頂戴」
オートリエは苦笑する。
「義母上、お願いがあります」
ディオニオは改まった声を出した。
「まあ、あなたからのお願い事なんて珍しいわね」
オートリエは嬉しそうににっこりと笑った。




