令嬢と令息の距離7
ディオニオはとある音楽会へ向かっていた。
某子爵がミュシャレンの屋敷に隣国から新進気鋭のヴァイオリンの演奏家を招いた会である。
冬のミュシャレンの社交場は主に貴族の街屋敷で、彼らは頻繁に芸術家を邸に呼び、自分が目をかけている者たちを披露する。
ディオニオはこういう華やかな会に興味はないし、普段から夜会などにも積極的に参加はしないが、今回ばかりはそうもいってはいられない。
馬車の中でディオニオは少しの間瞑目した。
頭の中をぐるぐると回っているのは、先日うっかり手を出しかけてしまったベリアナの傷ついた顔だった。
まさか自分がああも簡単に狼になるとは思ってもみなかった。自制心は強い方だと自負していたのに。
ベリアナが沈んでいて、ディオニオの言葉で無理に笑おうとした。それを見たら、たまらなくなった。けなげな少女を腕の中に閉じ込めたくなった。
と思ったら本当に閉じ込めていて驚いた。
これではただの抱き着き魔だ。
どこかの通りで見ず知らずの女性相手に同じことをしたら犯罪者である。いや、ベリアナ相手だって同じことだ。
現に彼女は怒った。
謝ろうと思ったが、そもそもディオニオは婚約などしていないのに、どうしてベリアナまでイリアのことを持ち出すのか。
それはともかく謝罪が先だと思ったら、彼女は相当に腹に据えかねているようで、ディオニオの前から姿を消した。朝食も昼食も夕食もレカルディーナと取っているとオートリエが教えてくれた。
オートリエが何か言いたそうな顔をつくっていたから、なにか誤解が生じていると思った。思ったけど、冷静に考えると誤解ではないのか、と項垂れた。
謝る機会が欲しいのに、彼女はそれを与えてもくれないのか。
ここ数日ディオニオは落ち込んでいる。
馬車は目的の屋敷へと到着し、馬車寄せの前で止まった。
ディオニオはサロンへと案内された。
今日ここに来たのは、件の令嬢、イリアが友人らと出席するという情報を得たからである。
彼女と話をつけないと、ディオニオは前に進めない。そのためには、まず祖母カルディスカを抜きにしてイリアと二人きりで会う必要があった。
サロンにそっと滑り込む。
庭に面したサロンは大きく窓が取られており、サロンには温室が併設されている。温室との仕切りの全面窓が取り外されており、広々とした空間になっている。
イリアは同じ年頃の少女たちと温室の方に据え付けれているゆったりとした椅子に腰かけてヴァイオリンの音色を聞いていた。
ディオニオが入室したことに気が付いた幾人かがそっと目配せをしたり、小声で隣の人物に話しかけたりした。
しばらくするとイリアもディオニオの存在に気が付いた。
ディオニオはイリアに視線を合わせた。
その直後、サロンを抜け出す。
部屋の外で待っていると、イリアが抜け出してきた。
賢い彼女は、ディオニオの要求をすんなりと理解したようだ。
「おひさしぶりね、ディオニオ様。いつ以来だったかしら。あなた、こういう会は好きではないのでしょう、珍しいこともあるのね」
イリアは金の髪をゆったりと結い上げ、瞳と同じ色のリボンを結んでいる。ドレスも同じ濃い青色で、腰の後ろに大きなりぼんがついている。
「そなたと話がしたいと思った」
イリアは小さく目を見張り、すぐに笑顔を作った。ベリアナのようなくつろいだような笑顔ではなく、意図してつくりあげたようなものだった。
「でしたらお手紙でもくれればよかったのに。わたくし、今日はあなたと会う予定ではなかったから、あまりおしゃれをしてきていませんのよ」
そうは言いつつ、隙のないいでたちである。
ディオニオには今日のドレスとディオニオに会うために着るドレスの違いがわからない。
「二人きりで話がしたい」
「今日はずいぶんと積極的ね。どこか空いている部屋をお借りしましょうか。わたくしたちまだ結婚前ですもの、わたくしの侍女を同伴させてもよいかしら」
ディオニオは押し黙った。
できればイリアと二人の方がよかった。
しかしこれからディオニオが話す内容と、その後の彼女の行動によっては、今ここで完全に二人きりになることは避けておいた方がいいだろう。
「わかった。口は堅いのか?」
「もちろんですわ。侯爵家の、わたくしの侍女ですのよ」
イリアはそう言って嫣然と笑った。
大人っぽい、どちらかというとディオニオ側の笑みだと思う。どこか作り物めいた、機械のような微笑みだ。彼女は自分を美しく見せることを知っている。
イリアはディオニオから離れた。
そのまま待っていると彼女は一人の少女を引き連れて戻ってきた。濃灰色の足の先まである簡素なドレスを身にまとっている。エプロンはしていない。
ディオニオは子爵家の従僕に断りを入れて、地上階の部屋を開けてもらった。
「それで、お話ってなにかしら?」
「簡潔に言うと、私との間に上がっている縁談をそなたから断ってほしい」
ディオニオは前置き無く言った。
こういうことは回りくどく言っても仕方のないことだからだ。
「わたくしの耳、今日は調子が悪いのかしら。謝罪なら受け入れるのだけれど、婚約を破棄しろ、と。そういうこと?」
「謝罪?」
「ええそう。わたくしという婚約者がありながら、別の女性と親しくしていたでしょう。軽率です」
「軽率もなにもない。私はそなたと婚約をした覚えは一度もない。祖母の妄言に付き合ってもそなたに得はない」
東向きの部屋は、午後のこの時間薄暗い。
イリアの顔は作り物のような笑みから、表情を失くした人形のように変化した。
顔色はあいにくと暗い部屋の中ではわからなかった。
「わたくしは、カルディスカ様から認められましたわ。あなたの妻になるのはわたくしだと。ご自分のお身内の意見をないがしろにしてはいけませんわ」
「それは祖母一人きりの意見だろう。その理屈が通るなら、ガジェゴ子爵家の娘、私の従妹殿も妻になっていることになる」
「ガジェゴ子爵家も、歴史こそありますけれど、わたくしの家とは家格が違いますもの。競争にはなりませんわ」
イリアは最初の衝撃から立ち直ったようだった。もう一度顔に笑顔を張り付かせた。
「祖母が何と言おうが父上も認めていない。当然私もだ。勝手に、自分が私の婚約者であるような態度を取らないでもらいたい」
「何が不満なのかしら?」
頑ななディオニオの言葉にイリアが首をかしげる。
「そもそも、私たち親子は祖母の持ってきた縁談を受けるつもりはない。これ以上パニアグア侯爵家のなかで、彼女の権限を増やすような真似はしないと決めている」
「わたくし、結婚をしましたらもちろん旦那様であるディオニオ様のことを一番に立てますわ。わたくしはあなたの妻になるんですもの。あなたの意思がカルディスカ様を遠ざけることでしたら、わたくしあなたに従いますわ」
「そういうことではない」
「あら、では何が不満なのかしら。わたくしは侯爵家にとって理想の妻になります。あなたはこれから王宮で政治に携わりますでしょう。ロルテーム語もリューベルン語も話せますし、社交もこなせます。政治家の妻としてあなたの手助けができますわ。あなたの義理のお母様も、王家の晩餐会は荷が重いでしょう。すぐにでも変わって差し上げます」
セドニオがオートリエと出会うことなく、今も独り身のままだったら、おそらくディオニオはイリアのことを結婚相手として考えただろう。彼女はきちんと教育を受けた貴族の令嬢である。語学も堪能で、教養も十分にあるのだろう。落ち着いた雰囲気はディオニオと共通している部分がある。
貴族の家の妻の役割を理解し、子を産み母として産んだ子を教育していく。
自分の階級に相応しい男性を当然のように伴侶にし、その相手もまた自分と同じ価値観を持っていると信じて疑わない。
オートリエと出会うまでのディオニオもそういう典型的な貴族の息子だった。
子供と親が顔を合わせるのは一日に一、二度あればいいほうで、挨拶を交わすくらいだ。たまに客人が屋敷を訪れれば両親に呼ばれ挨拶をした。
両親ともに社交に忙しく、ディオニオは子供部屋で乳母や家庭教師と共に育った。
母が亡くなり、数年後オートリエがやってきた。
彼女と出会ってから侯爵家はそれまでの無機質な空間からがらりと変わった。
「一番の理由は、私は義母上とレカルディーナを大切にできない女性とは結婚しないと決めている。これは我が家の男性陣の総意だ。エリセオも同じ意見だ」
周囲がどう言おうとディオニオはオートリエのことを認めているし、レカルディーナが生まれてパニアグア侯爵家はもう一度一つの家族になった。
おっかなびっくりしながらディオニオは生まれて数日しかたっていないレカルディーナを抱いた。あの日のことは今でもよく覚えている。
小さな命は自分の意志ではないところでディオニオに自分の命を預けていた。
小さいけれどとても重かった。
命の重さだと思った。
「わたくし、もちろんレカルディーナのことを可愛がりますわ。わたくしの義妹になるんですもの。彼女がお嫁に行くまできちんと面倒をみます」
「そんな早くに嫁に行かせるか」
そんな状況ではないのにディオニオは素早く突っ込みをいれた。どういう状況であれ愛妹が嫁に行くなんて言葉は聞きたくないのだ。
「それと、オートリエ様のことだって、わたくしは彼女のこともきちんと立てて差し上げますわ。あなたの意を汲むと先ほど申しましたでしょう」
イリアは落ち着きを取り戻したように、ゆったりと笑った。ディオニオの懸念事項が取るに足りないとわかったからだ。
「わたくしが今後、オートリエ様の後ろ盾になってさしあげますわ。それでよいのでしょう?」
イリアはアルンレイヒで明確な後ろ盾を持たないオートリエを庇護することが彼の望みだと考えたようだ。
「私は彼女のことを大切にできない女性とは結婚できないと言った。聞こえなかったのか?」
「ですから、わたくし申しましたわ。彼女のこともちゃんと立てます、と」
「そういうことではない。義母上を立ててあげるという、そのような言い回し方がすでに彼女を下に見ているということだ。義母上を尊敬できない女性とは結婚できない」




