令嬢と令息の距離3
ディオニオの心はささくれ立っていた。
理由は簡単だ。ベリアナがちっともディオニオの心に気づかないからだ。
ディオニオは普段にもまして険しい目つきで書類に目を通している。
王宮の一室である。
セドニオの手伝いを始めてディオニオも王宮へ出仕を始めている。
傍らの補佐官や執務感が時折びくりとした表情を浮かべるがディオニオが気づくことはなかった。
年末に勇気を振り絞ってベリアナを誘った。結果は数秒で玉砕した。
それは仕方ない。レカルディーナとの約束があったのだから、そちらを優先させると言われれば引き下がるしかない。
問題はそのあとだった。
年始にどこかに行かないか、という提案まであっさりと躱されたのだ。
やっぱり物の数秒で。もう少し考えてほしかった。いや、考えた挙句に断れたらそれはそれで辛い。
不機嫌顔のまま仕事をしていると、セドニオが現れた。
「やあ。一息ついたかい?」
セドニオはご機嫌顔だ。
年始のつかの間の休暇にレカルディーナと思い切り遊ぶことができて嬉しかったからだ。寒い中、公園で思い切り遊んできたと自慢をされた。万が一レカルディーナが風邪でも引いたらどうするんだ、とむっとしたが彼女は今もぴんぴんしている。
「もう少しです」
「まあまあ、そんな根をつめてもよくないよ。そうだ、サロンへ行かないか?」
「おひとりでどうぞ」
ディオニオはセドニオを冷たくあしらった。
王宮には貴族階級が入ることのできる公のサロンがある。貴族階級が同伴であれば他の階級のものでも入れる。もちろん、人物審査はあるのだが。
そんなところにディオニオが顔を出しても面白いことにはならない。なにしろ現在婚約者も持たないディオニオは年頃の令嬢たちの格好の結婚相手候補だからだ。
「つれないこといわないでさあ。行こうよ、ちょっとだけ」
セドニオは今日に限ってしつこかった。
普段ディオニオに対してここまで芝居がかった声など出さないのに。
ディオニオは面倒になって書類から視線を離した。
「コーヒー一杯で帰ります」
立ち上がったディオニオにセドニオは人の悪い笑みを浮かべた。「果たしてコーヒー一杯で済むかな?」と。
なんなんだろう、この変な余裕は、と訝しがりながらサロンへ向かい、扉を開けて入室してから驚いた。
「あら、ディオニオも一緒に来たの?」
明るい声を出したのはオートリエだ。
その隣にはベリアナもいる。小さな余所行きの帽子を頭にのせ、深い青色のドレスを着た彼女は素朴な少女から洗練された令嬢へと短期間のうちに変貌を遂げた。
ディオニオはベリアナの方へ近づいた。
「どうして……」
ベリアナは少しはにかんだ笑みを浮かべた。
「オートリエ様が今日は王宮を案内してくださると。先ほど、父が名目上は長官をしている公文書館も見せてもらいました」
少し赤みかかった金色の髪の毛を緩く巻いて半分ほどを頭の高い位置で結わえている。小さな帽子は結わえた髪の毛の隣にちょこんと乗せられていて、ピンでしっかり固定されている。
「私たちもいま休憩しようと思ってね」
セドニオが大きく頷いた。
彼は今日ここにベリアナが来ることを知っていたのだ。だから、あの意味深な態度だったのだ。
ディオニオは自分の気持ちが父に筒抜けになっていることを察した。
「お仕事中のセドニオ様も素敵だわ」
「きみだって、いつも可愛いよ、オートリエ」
「まあ。セドニオ様ったら」
オートリエは少女のようにきゃっと頬を赤くして身をよじらせた。
いつものやりとりが始まり、ディオニオはそれらをさくっと無視をしてベリアナを促した。
「あれは放っておいていいから座りなさい」
「あ、はい」
この面子だと当然のことながら両親は隣同士で座る。必然的にベリアナの隣に座ることになってディオニオは内心喜びを隠せずにいた。もちろん表面上は通常通りいたって冷静沈着なのだが。
「王宮はどうだ?」
「すごいですね。わたし初めてです。別の世界みたいで、なんというか、もう。地に足がついていないみたいで。世の中にこんなにも華やかな場所があるなんて、夢のようです」
ベリアナはいつにもまして興奮しているのかディオニオに向かって熱心に話しかけてきた。
王宮のどこがすごかったとか、案内される道すがらから豪華すぎるとかだ。
表情をくるくる変えるベリアナの横にいるのは楽しい。
給仕係が二人の前にコーヒーの用意一式を用意する。一緒に供された菓子はさくさくとした食感が楽しい木の実入りのクッキーだ。
ディオニオは角砂糖の入った銀製の器の蓋を開ける。
「いくついる?」
「ディオニオ様のお手を煩わせるわけにはいきません。というか、わたしだって何も入れずに飲めます」
ベリアナは自身の手前にコーヒーカップを引き寄せる。
「そうか……」
ディオニオは少し残念に思って、自分自身もコーヒーカップを持ち上げた。
彼女の好みを知りたかったのだ。屋敷ではいつもセドニオの分のコーヒーやお茶はオートリエがかならず最後手を加える。彼の好みを熟知している彼女は砂糖や牛乳をさらさらと加えるのだ。
ディオニオはそれを真似してみたくなった。おいしい、とベリアナに言ってもらいたかった。
隣に座るベリアナとは行儀のよい間隔をあけている。恋人の距離はきっと、もっと短いに違いない。
ベリアナはちびちびとコーヒーを口にする。こういう飲み方にディオニオは覚えがある。
「強がらなくていい。私も飲み始めたころは牛乳を加えたりしていた」
そう言うと、ベリアナは目を瞬かせた。
ベリアナはゆっくりとコーヒーカップをソーサに戻してからディオニオに視線をやる。
「……本当に?」
「ああ」
ディオニオは抑揚のない声で応える。
ベリアナは少しの間じっとディオニオの顔を見つめ、やがておずおずと申し出た。
「じゃ、じゃあ。牛乳だけ入れます」
ディオニオは牛乳の入った器を手に取る。
「自分でしますから大丈夫です」
「いや、私がする」
ディオニオはベリアナのカップを自身の方へ引き寄せた。
「いいと思ったら声をかけろ」
「もう。強引なんですから」
言葉とは裏腹に、ベリアナの声は少しだけ高く聞こえた。言葉の返しの中に、彼女からの距離の近さを感じてディオニオは自分の心がふわりとするのを感じた。
一方、ほんわか気分でコーヒーを楽しんでいるのはディオニオとベリアナの二人だけで、その周辺はちょっとした、いやかなりの騒動になっていた。
もちろん、大きな声をあげることはない。
サロンには貴族階級の女性も少なからず居合わせていた。
冬の時期は領地へ帰る貴族も多いが、王宮で役職につく者たちは通年でミュシャレンに住んでいる。結婚相手を探している令嬢たちの中には一年を通して人の集まるサロンを渡り歩いている者もいるのだ。
パニアグア侯爵家の長男ディオニオはアルンレイヒ上流階級の令嬢たちにとって格好の結婚相手のうちの一人なのである。
もちろん彼の婚約者候補として一歩も二歩もリードしている令嬢はいる。けれど、正式な婚約を交わしていないかぎり、チャンスは公平にめぐってくる。
彼が一言、自分を選んでくれれば、と少女たちは虎視眈々と隙を狙っている。
普段から女性の気配のまるでしない、どちらかというと硬派、悪く言えば無表情で感情が読めないディオニオが一人の女性とこれほど親し気にしていたことが今まであっただろうか、いや、ない。
というのが今この場に居合わせた女性陣の共通の感想である。
しかも相手の少女は見ない顔だ。
少なくとも、この夏どこかの領地から出てきた新参者の中にはいなかった。
では外国人? 年頃の少女たちはお互い情報交換をする。
「あなた、あの子の顔を知っていて?」
「いいえ、見ない顔だわ。外国人かしら」
「どうしてディオニオ様とあんなにも親し気にしていらっしゃるの?」
「彼、手はずから彼女のために牛乳を注いだわ」
ざわざわとした空気はもちろんセドニオのところにも届いた。
彼は、ディオニオに特に浮いた話もないことを十分に承知しているし、公の場で彼が一人の女性に対して心を砕いているのをこれまで目撃したことがなかった。
息子の淡い気持ちをしっかりと見抜いているセドニオは、ちょうどコーヒーを飲み終わった二人に季節外れの散策を勧めた。




