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夏の休暇1

 それは七月も始めのことだった。

「た、大変だ!」

 父、ロレントは顔から汗を拭き出してベリアナと母ミルイーゼのいる居間へと飛び込んできた。

 母と娘はそろって今しがた入室してきた男爵のほうへ顔を向けた。

「まあ、あなたったら。どうしたんです?」

「お父様。お水でも飲んだらいかが?」

 ロレントはベリアナのすすめに従って水差しを持ち上げてグラスに水を注いで一気にあおいだ。

 ごくごくっとのどぼとけが大きく動いて彼は一気にグラスの水を飲み干した。

 ふうっと息を吐いて、数秒。

「いや、だからな。大変なんだよ」

 と、再び目を泳がせる。

「だから、何なのです?」

 ミルイーゼがおざなりに相槌を打つ。

 アルンレイヒ王国の中南部に位置するホイール男爵家アルデア領はよく言えば風光明媚。悪く言えばど田舎。主街道から外れ、背の低い山が領地の半分くらいを占め、これといった名物もない、要するに本当にのんびりとした田舎なのだ。そんな田舎の領地に住む母娘にとって父の言う「大変」というのはどうせ山に熊が出たとか猪同士が縄張り争いをして喧嘩している声がうるさいとか、はたまた村長の腰痛が悪化したとか、そのようなよくある話だと思っていた。

 だから、女二人香草茶を片手にのんびりと構えていた。

 しかし、ロレントからもたらされた言葉にさすがのベリアナも次の瞬間には目を見開いた。

「今手紙を受け取ったんだが……なんと、パニアグア侯爵家が夏の休暇を我が家で過ごすためにアルデア領を訪れると、そう書いてあったんだ」

「えぇぇぇっ!」

「まあっ! なんてことでしょう」

 父親の爆弾発言に今度こそベリアナとミルイーゼは事の重大さに気が付いた。

 そもそもの発端は春先にロレントが王都ミュシャレンに行った際、どこかの夜会だか会合でパニアグア侯爵と世間話をしたことが始まりだった。

「どうして世間話のついでで我が家へ招待することになっているんですか」

 ミルイーゼは夫に詰め寄った。

「い、いや。それがな。侯爵は今年の夏の休暇は領地にも北の静養地へ行くことも気乗りしない様子で、どこかのんびりできるところがあればなあなんておっしゃるから、つい。我が領地はこれといって目玉もないですが田舎だけあってのんびりすることだけは思い切りできますよって言ってしまったんだ。ほんの社交だよ。相手だってのほほんと笑っていただけだったし」

「それがどうしてこういうことになったんです」

 ミルイーゼの眦はまだ上がったままだ。

「いやあ、それが私にもさっぱり。ついさっき手紙を受け取って、『妻と相談した結果、今年の夏は男爵の好意に甘えることにしました』って書いてあって……。ま、まさか侯爵ほどの人が本気でど田舎に興味があるだなんて思わないじゃないか」

 ロレントは力なく笑った。

 ベリアナも父に同意見だ。その、パニアグア侯爵がどんな人物かはわからない。そもそもベリアナは王都ミュシャレンに行ったことがないのだ。人生十七年、一度も。ミュシャレンといえば、『都会は怖いところじゃー』という村のイボット家の隠居じいさんの言葉が一番の印象だ。

だから、件の侯爵家の規模がどれくらいか、なんてことはさっぱりだが、男爵家と侯爵家では天と地ほどの差があることくらいはわかっている。

 そんな雲の上の存在がまさかしがない男爵の社交辞令を真に受けて、一家で押しかけてくるだなんて。


☆ ☆


 アルデア領はほんとうに質素である。狭い領地にはこれといった特産物が無いから土地から上がってくる収益はたかが知れている。

 だったらせめて王宮で何か役職にでもつけば禄が貰えるとばかりに男爵家は代々王宮に出仕しているのだが、血なのかホリール家の男性は代々出世とは程遠い役職にばかりついている。

 現在ロレントが頂いている官職も公文書館長官などというよくわからないものだ。

 なんでも公文書の管理を行う部署の長官らしいが実務は官僚が行うため完全にお飾りである。もちろんもらえる禄の額もびびたるものだ。

 当然男爵家はつつましやかに暮らしており、ベリアナも例に漏れず田舎の領地でのびのびと育った。のびのび育ちすぎて逆に年頃になっても王都へ行く気も起きない。

 都会は怖いところだ、なんて領地の老人たちが口をそろえて言うものだから、いつのまにかその考えが刷り込まれた。

 ベリアナはいつものように白いブラウスに薄い緑色のチュニックを合わせた。丈はふくらはぎの中頃まであり、お腹の辺りを幅広の皮のベルトで止める。

 ドレスでもなんでもない、いたって普通の村娘風の装いである。

「んんん~、風が気持ちいい」

 牧草地帯に細く伸びる道を一人で歩く。侍女のマリカは館でお留守番だ。

 一人歩きを咎める者なんていない。小さな領地は物騒な事件とは皆無なのだ。

 たまにイノシシが迷い込むことはあるけれど。(それはそれでご飯が豪華になるから嬉しい)

 手に持っているのは籠の中には果実で香り付けした水と少量のビスケット。

 家族はパニアグア侯爵家をもてなすための準備に追われているけれど、ベリアナは戦力外のため比較的自由に出歩いている。

 日課の散歩である。

 毎日のんびりと領地を歩くのがベリアナの楽しみの一つだ。その日によって訪れる場所はまちまちである。

 今日はこの界隈を走る主街道へ続く道を見渡せる丘の上へとやってきた。

 そろそろ件の侯爵家が到着するからだ。

 それなのにこんな風に普段着で遊び歩いていていいのか、と誰かから突っ込みをうけそうだがまだ日も高いし偉い侯爵様が時間にきっちりしているなんて考えていないからだ。

 とんだ偏見である。

 丘の牧草地帯には垣根の代わりに木苺や黒苺の木が植わっている。

 ベリアナの目的の一つでもある。

「いい感じに色がついているわね」

 ベリアナは上機嫌に微笑んだ。

 そろそろ黒苺の季節なのである。野原にたくさん生えている黒苺の低木は格好の獲物だ。

 村の子供たちも家の周りに成る苺類を積むのを毎年楽しみにしているが、ベリアナも例外ではない。

「ああおいしそう」

 ベリアナは鼻歌交じりで黒苺を積んでいく。黒と紫を混ぜたような色をした粒は太陽の日の光の下で光っており、今すぐに食べてと言わんばかりだ。

 ベリアナは摘み立てのそれにふうっと息を吹きかけて埃を払ってから口の中に放り込んだ。

 ぎゅっと噛めば甘酸っぱい果汁があふれ出す。

「んんんっ! おいしいっ」

 男爵令嬢らしからぬ所業であるが、見つからなければ問題なしだ。

 おおらかすぎる環境の下で育ったためベリアナは堅苦しいことが苦手だ。

 ベリアナが誘惑に負けて黒苺を口の中に放り込んでいると、チュニックスカートのすそがくいっと引かれた。

 横を振り返るといつのまにか女の子がベリアナのスカートを掴んでいた。

「え……」

 十歳前後くらいのあどけない少女だ。

 濃い金色の髪の毛に明るみのある緑色の瞳をした少女がベリアナを見上げている。

 余所行きであろうドレスはベリアナの目から見ても上等なもので、襟元についているレエスはクモの糸で編んだかのように細く繊細だ。

 肩よりも長い髪の毛はつやつやで、ドレスと同じピンク色のリボンも光沢がある。もしかしたら絹なのかもしれない。

「お姉ちゃん、それ黒苺?」

「え、ええ。そうよ」

 ベリアナは少女の質問に答えた。

 この辺りではまず見ない顔だ。というか、こんな高そうなドレスを着た子供がこんな田舎にいること自体がありえない。

「いいなあ、レカル……わたしも食べる」

 レカルと名乗った少女は明るく笑った。

 物おじしない少女はベリアナの真似をして黒苺を摘んだ。

 そのまま口の中に入れようとしたからベリアナは慌てて静止した。

「あ、だめよ。ちゃんと洗ってあげる」

 ベリアナは籠の中から水を取り出して少女の手から黒苺を取り上げて水をかけた。

「はいどうぞ」

「ありがとう」

 少女は手渡された黒苺を口の中に放り込んだ。

 もぐもぐと咀嚼をしてから笑った。

「おいしいっ」

「そりゃあそうよ。なにもないけれどアルデア領は野菜も果物もおいしいのよ」

 ベリアナは嬉しくなって胸を張った。

「もっと食べる」

 ベリアナはどうしようかと思った。

 この子は十中八九パニアグア侯爵家のお嬢様だ。

 ロレントから聞かされていたからすぐにわかった。侯爵家には息子二人と娘一人がいると。令嬢の名前はレカルディーナで年は八歳。

 ベリアナは困った。

 どうしてこんなところにお嬢様が一人でうろついているのだろう。

 このまま彼女の所望するままに野生の黒苺を食べさせてもよいものか。

(悩む……)

 ベリアナが苦悶していると遠くから「レカルディーナ」と呼ぶ声が聞こえた。

「あ、お母様の声だ」

 少女はすぐに駆け出した。

「おねえちゃん、またね」

 大きく手を振った少女は大股で駆けていく。どうやらずいぶんと元気いっぱいのお嬢様だ。

 王都に住む侯爵家のお嬢様なんて、子供ながらにお高く留まっているに決まっているなどと決めつけていたのに。

 とんだ番狂わせだ。

(なんだか、とてもかわいかった)

 妹がいたらあんな感じなのだろうか。一緒に苺摘みをしたり、川に魚を釣りに行ったり。

 ベリアナはレカルディーナという名前のお嬢様がいなくなってもしばらくぼんやりとした。

 風が吹いて、少し赤みがかった金髪を遊んでいく。それを手で押さえてから数秒。

「って、わたしも帰らないと!」

 ベリアナは慌ててスカートが捲れるのも気にせずに館へと戻った。


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