7.早朝のセンチメンタル
視界を遮る高い塀。
正面の門柱にはセコムのステッカーが貼ってあったけど、誰にも見咎められることなくこの塀を乗り越え、吉田の部屋に忍び込むことは、今の自分にはそれほど難しいことではなさそうな気がした。
でも、部屋に入り込んだ所で、この姿は見えない。
声だって聞こえない。
第一、寝込みを襲うようで気がひける。
「行ったって何もできませんよ」と言い切った黒田の言葉が今さらのように蘇ってきて、結局は塀を睨みつけたまま、一夜を明かしてしまった。
墨色だった空がだんだんと色を変えていく。
濃い群青、青、紫、茜色、そして……。
金属音に振り返ると、自転車がこちらへ向かって坂をのぼってくるところだった。
目深にキャップをかぶり、グレーのパーカーを着た少年が、四角いカゴ一杯に新聞を詰め込んだ自転車のペダルを重そうに踏んでいる。
そう言えば、ほんの短い期間だったけど、新聞配達をしていたことがある。
暗いうちに家を出るのだが、カゴの中の新聞が三分の一にまで減ったあたりで夜が明ける。
濃い群青、青、紫、茜色、天然のグラデーションを見ていると、無理やり暗記させられた枕草子の冒頭が、きまって口を付いて出た。
「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく、山ぎわ少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」
古典の授業は嫌いだったけど、吉田の朗読を聞くのは嫌いではなかった。
予習は完璧だから、途中でつっかかることはない。
よく通る澄んだ声が教室に流れ始めると、ノートのすみにラクガキしていたやつも、漫画を隠し読みしていたやつも、それぞれの活動をいったん中止して、その声に耳を傾けた。
陰気な顔で佇む俺のすぐそばを、坂を上りきった自転車が通過する。
新聞が新聞受けにおさまる乾いた音を残して、もと来た道を戻っていく。
「お疲れサン」
かけた言葉は、相手から何の反応も引き出せぬまま、朝の空気に吸い込まれていった。
出てきた吉田は、昨日よりさらにやつれて見えた。
心配そうに付いて来た母親に弱々しい笑顔を向けてから、さきほど自転車が行き来した坂道を下っていく。
坂の途中のバス停に立ち、しばらくバスを待っている風情だったが、学校へ向かうバスをやり過ごし、全く別のバスに乗った。
無意識にポケットの中を探っていた俺は、自分の立場を思い出し、そのままバスに飛び乗った。