6.鮮やかな過去
幸せになって欲しかった。
それなのに、どこでどう間違ってしまったか。
百合の父親は篤志家で、広大な庭園を持つ屋敷の離れに数人の書生を住まわせていた。
書生たちは皆、当主の郷里でもある広島の出身で、自分もその一人だった。
「お嬢さん」
「名前で呼んで下さい」
「では、百合様と」
「名前になった途端、様が付くのはおかしいと思います」
きっぱりと告げられて、少し逃げ腰になりながら、ようやく聞き取れるぐらいの小さな声で「百合さん」と呼んでみた。
「はい、黒田さん」
そう言って、にっこりと笑った顔があんまり愛らしかったものだから、しっかり三十秒は相手の顔を凝視した末に、肝心の用件を忘れてしまった。
そんな間抜けな書生に、なぜ、彼女は心を開いてくれたのか。
初めて会った時、四つ年下の彼女はわずかに八歳。
生きて動いていること自体が奇跡のような美少女で、幼いながらに高貴な雰囲気をまとっていて、つまりは、幼い頃に両親をなくして祖母に育てられた田舎者の自分とは別世界に生きる人だった。
年よりもずっと大人びて見えたのは、たぶん、彼女の生い立ちによるものだ。
当主の正妻には子ができず、百合は妾の子なのだという。
実の母親はとうに亡くなったというが、書生ごときに家の内情を詳しく教えてくれる人などいないから、実際の所、よくわからない。
父親は仕事で飛び回っていて、滅多に屋敷には戻らない。
義理の母親は妾の子になど、見向きもしない。
大勢いる使用人たちも、女主人に気をつかってか、百合に対する態度は冷たかった。
幼い彼女は滅多なことでは笑わない。
それでいて、心を許した者にだけは、花のような笑顔を見せる。
上野の桜、両国の花火、根津権現の秋祭……。
家人の目を盗んで二人だけで出かけることは、かなりの勇気が必要だった。
家人の怒りを買って追い出されれば行く所がない。
それでも百合の喜ぶ顔が見たくて、何度も屋敷を抜け出した。
世の中はだんだんときな臭くなっていたけど、流れ行く日々はまだ穏やかで、当時の関心事と言えば、高校受験と百合の体調のことぐらい。
百合は季節の変わり目になると熱を出し、寝床から起き上がれなくなる。
おざなりな看病しかしない使用人を追い出して、百合の枕元で本を読みながら、少し複雑な気分でもあった。
学校を休みがちの百合のため、何人もの家庭教師を付けているくせに、若い書生が令嬢の枕元に付き添っても、周囲はまるっきり無頓着なのだ。
「お友達がね、黒田さんのことを色々と聞きたがるの。ほら、昨日お見舞いに来て下さった美智子さん、貿易商のお嬢さんなのだけど、黒田さんのことが気になるみたい」
さぐるような目を向けられて、思わず吹き出しそうになる。
女の子は本当にませている。
百合もその友達も、まだ十三歳なのに。
「お父様が、黒田さんは将来有望だとおっしゃっていたわ。一校の法科を目指していらっしゃるんですって? その後は帝国大学に進んで、将来は政治家になられるのでしょう?」
「だんな様の期待にお応えしたいとは思っていますが……」
そのためにも、まずは高校に合格しなくては。
多少の焦りとともに、枕元で本を広げると、百合は急にわがままになる。
水蜜桃が食べたい。
話し相手になって欲しい。
しまいには、受験なんてやめればいいのにと言い出した。
「そんなことになると、ここにいられなくなります」
もてあまし気味に訴えると、いきなり枕が飛んできた。
「わっ」と背後に仰け反りながらも、危ういタイミングでキャッチする。
上半身を起こした百合は、潤んだ瞳でこちらを睨みつけていた。
「一校に合格したら、来年の春には寮に入るのでしょう!? いなくなるのは同じじゃない!」
「ええ、でも、それは……」
「そしてその後は大学の寮に入って、もう、ここには帰っていらっしゃらないのでしょう?! だったら……せめて……あと少し……」
声はだんだん小さくなり、しまいの方は聞こえなくなった。
何かをこらえるように、作り物めいた繊細な指がぎゅっと布団の端をつかんでいる。
そうだった。
勉強の邪魔をする理由なんて、一つしか思い浮かばない。
百合は寂しいのだ。
「ご心配なさらなくても、お休みのたびに帰ってきます」
「本当? 本当に!?」
向けられた瞳の必死さに、切ないほどの愛しさが胸にあふれてくる。
透き通るように白い肌も、折れそうに華奢な身体も、色素の薄い髪も瞳も、全てがその存在の希薄さを物語っているようで、許されない行為だとわかっていても、抑えることができなかった。
壊れ物を扱うようにそっと腕の中に閉じ込めると、ふわりと甘い香りがした。
百合には親の決めた許婚がいて、十八になると同時に祝言をあげることになっている。
一回りも年の離れた許婚はエリート中のエリートで、帝国大学を卒業し、今は朝鮮総督府に勤務しているという。
「本当ですとも。百合さんが望んで下さる限り、私は必ず帰ってきます」
薬が効いてきたのだろう。
耳元で誓いの言葉を紡ぐと、少女は安心したように微笑んで、吸い込まれるように目を閉じた。
十三歳の少女が自分に寄せてくれる思いは何なのか。
十七歳の自分が少女に寄せる思いは何なのか。
ふと浮かんだ疑問は、答えを出さぬまま、葬ってしまう他はない。
夜が静かに更けていく。
「どこにいても、ずっと祈っていますから、誰よりも幸せにおなりなさい」
言葉の変わりに聞こえてきた小さな寝息に、いつまでも耳を傾けていたかった。