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4.こうもり傘

吉田が日に日にやつれていくように見えるのは、気のせいだろうか。

手にしたバラの白さにも負けぬほど、血の気の失せた顔は蒼白だった。


俺は思わず立ち上がり、吉田に向かって両手を差し伸べた。

けれども実体を失った手は、そよ風ほどの影響も相手に与えることができなかった。


「柳瀬君……ひどいよ」


吉田は小さく呟いた。

さっきまで俺が座り込んでいたホームの柱に歩み寄り、一日でくたびれてしまったサーモンピングのバラを悲しげに見下ろす目は涙で赤い。


列車を待っていた人たちが、それぞれの動きをとめて振り返る。

その存在の儚さと危うさに、誰もが息を飲むようにして、制服姿の少女を見つめている。


「吉田、もう泣くな、泣いたって何も変わらない」

しおれた花びらの上に滴る涙が水滴を作るたび、俺はなすすべもなく唇をかみしめる。

すぐそばにいるのに、祈りにも似た言葉は、決して少女の耳には届かない。


どれだけ時が過ぎただろう。

周囲のことなど全く意に介さぬかのように見えていたのに、ホームに近づいてくる列車の音に反応し、吉田はゆっくりと顔をあげた。


「おい、何を考えている!?」


問いかけに答える代わりに、吉田はふらりと立ち上がり、どこかおぼつかない足取りで吸い寄せられるように線路の方へと歩いていく。

俺は急に恐ろしくなり、吉田の周りをグルグル回りながら、少し離れた所に立っている長身の男を流し見た。


「黒田、止めてくれ!」

「あなたにできないことが、私にできるわけがないでしょう?」

あっさりと答えを返してきた青年は、あろうことかこちらに背を向けて、ホームの時計を見上げている。


「てめえ、ふざけるな! 何でもいいから、吉田を止めろ!」

俺の絶叫は黒田以外の誰の耳にも届かない。

ホームにいる連中は、不安げにこちらを見ているだけで、誰も動こうとしない。


通過する列車が勢いよくホームに走りこむ。

ヒーローよろしく駆けつけて、吉田を背後から抱きしめたのは俺のよく知る人だった。

ぶわっと吹き付けてきた突風が、バラの花びらを宙に躍らせた。

その花びらが俺の足元に散らばった時、ホームを一瞬で通過した列車は、マッチ箱ほどの大きさになっていた。


「麻賀先生?」

意外にもしっかりした声に、ホームのあちこちから、ほうっと安堵のため息が漏れる。

麻賀もほっとしたように息をつき、男らしい節ばった手で吉田の頭を何度も撫でた。


「もう、ここに来るのはやめなさい」

かつて屋上で垣間見せた狂気など微塵も感じさせぬような優しい口調。

駆けつけてきた駅員に事情を説明した青年は、教師の鑑とも言える折り目正しさで「うちの生徒がご迷惑をおかけしました」と頭を下げた。


少女を抱きかかえるようにして去っていく後姿を、女たちがうっとりと目つめている。

次第に小さくなっていく足音を聞きながら、俺は自分の無力さに絶望し、ずるずるとホームにしゃがみこんだ。


「まあ、元気を出して。とにもかくにも、吉田比奈さんが無事だったのだから、良かったじゃありませんか」

脳天気な声を耳にした途端、忘れかけていた怒りがこみ上げてきた。

俺の中で何かがブツリと音をたてたのはその時だ。


「さっきのは何だ! お前それでも人間か!」

すばやく立ち上がり、目の前の男の肩を猛然とつかんで揺さぶった。

片方しかない目を白黒させながら、黒田は銃を突きつけられたかのように降参のポーズをとっている。


「ま、待って下さい、何もできないと申し上げたのは嘘ではありません。私もあなたと同じです。生身の人間はこの身体を全て素通りしてしまうのですから、助けようがないじゃないですか! それに……」

「それに、何だ!?」


「それに、私にはわかるんです。吉田比奈さんは絶対に大丈夫です。ただし、保証してさしあげられるのは……」

拘束から逃れた男は、上着の胸ポケットから懐中時計を取り出した。

「あと……二日と……十三時間です」

長い逡巡の後、ようやく搾り出された声は消え入りそうに小くて、俺はその言葉が嘘ではないことを瞬時に悟ることになる。


「ふざけるな!」

「残念ながら、ふざけていません」


「吉田が死ぬなんて、だめだ、そんなの!」

「だめと言われても、人にはそれぞれ寿命というものが……」


「何が寿命だ! 松陰は嫌いだって言ってたじゃないか! そんなに簡単に諦めるな!」

「ま、まあ……そうですけど……」


言い訳めいたことを呟きながら、黒田はホームに腰を下ろした。

長い足を組み、頬に手を当てて考え込む背中に、水銀灯の青白い光がほのかに映じている。

俺はじりじりしながら、続く言葉を待ち続けた。

最終列車がホームを出る直前に雨はやみ、汚れを洗い流した夜の向こうには、欠けた月が浮かんでいた。


「おや、下弦の月だ」

早くも考えることを放棄したのか、黒田は空を見上げて呟いた。


「かげんの……何?」

「月の呼称もご存知ないのですか?」

どこかのん気な呟きに、反応したのは失敗だった。

黒田はこちらを振り返り、哀れむような眼差しを向けてきた。


「月の名前なんか知らなくても、ちゃんと生きていける」

「知っている方が、より豊かに生きられます」

それぞれの自己主張をした後、二人同時にほろ苦く微笑んだ。

死んでしまった人間が、今さら人生観を語り合った所で空しいだけだ。


「まあ、ものは考えようですよ。吉田比奈さんと死んでからも一緒にいられると思えば、悪いことばかりではないのでは?」

どこからそんな言葉が出るのだろう?

そういう自己中な考え方が一番嫌いだと応えると、よっぽど意外だったのか、黒田は片方だけの目を見開いた。


「柳瀬さん、あなたって……」

「なんだよ」

「外見だけじゃなくて、心もとってもきれいなんですね。色いろな人を見てきたからわかるんですよ。人間はそもそも自己中心的な生き物で、自分を生かすためなら、人殺しだって、何だって……あ、ちょっと!」

すっくと立ち上がった俺を見て、黒田もあわてて立ち上がる。

つかまれた腕を力任せに振り払うと、傘の柄で首根っこをとらえられた。


「ふらふらされては困ります。いったいどこへ行くつもりです?」

「吉田の所に決まっているだろ!」

「行ったって何もできませんよ。さっきだってそうだったでしょう?」

「わかってる! でも、守りたいんだ!」


涙目の俺を見て、黒田は動きを停止した。

「あなたの辛い気持ちはわかります。手遅れだとわかっていても、動かずにはいられないお気持ちも……」

「手遅れなんかじゃない! 現に吉田は生きている!」


「ええ、そうですね。まさしくおっしゃる通りです」

男の唇が悲しそうに微笑んだ。

「じゃあ、これを持って行ってください」

何が出てくるのかと、思わず身を乗り出した。

一瞬の期待を裏切って、黒田がうやうやしく差し出したものは、例のこうもり傘だった。


雨はやんでいる。

いや、たとえ降っていた所で、濡れることはない。


「で、これを俺にどうしろと?」

「私があなたにして差し上げられることはこれだけです」

全くわけがわからない。

仕方なく礼を言って受け取ると、黒田は情けなさそうに目を伏せた。



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