45.恋人
目の前のガードレールを飛び越えた途端、脱げたキャップに若い女の子が殺到する。
「裕也!」
「裕也君! こっち見て!」
悲鳴にも似た声のする方に笑顔でひらりと手を振って、俺は車の運転席に滑り込んだ。
「何だよ、この車?」
ドライブとはお世辞にも言えない速度で車を走らせながら、苦虫を噛み潰したような顔で助手席を流し見ると、吉田はケロリとした顔でこう答えた。
「トヨタのセンチュリー、知らないの?」
俺は片方の眉を持ち上げた。
「知らないはずがないだろ、俺が聞きたいのは、1千万円以上する黒塗りの高級車に、なんでお前が乗っているのかってこと」
こっちは大真面目なのに、吉田は楽しげに笑い出した。
人前ではいつもすましているくせに、二人きりでいる時は笑ってばかりだ。
「何がおかしい?」
わざと不機嫌に訊ねると、「あのね」と小声で囁いて、耳元に唇を寄せてきた。
ふわりと漂う香りは、先日、俺のマンションから勝手に持って帰ったブルガリの「プールオム」。
ふっとかかる息に、びくりと震えた。
二人しかいない車内で、内緒話をする必要なんて全くないのに、耳が弱いことだって知っているはずなのに、知ってて、わざとやっているのだ。
俺と彼女には、互いにしか見せないいくつもの顔がある。
ふざけてみせる。
甘えてみせる。
すねてみせる。
繰り返しキスをして、互いの服を脱がせ合って、朝まで抱きしめあうこともある。
今は大臣にまで上り詰めた吉田の父親がいつも目を光らせているから、大々的にマスコミに取り上げられることこそないが、世間に言わせれば、俺たちはとんでもなく不釣合なのだという。
そんなことは、誰よりも俺自身が知っている。
才色兼備の風紀委員と、素行不良の落ちこぼれ生徒。
たまたまクラスが同じという以外には、何一つ共通点のなかった俺たちは、悪夢のような事件をきっかけに付き合い始め、五年を経た今、ようやく恋人らしくなってきた。
意識不明のまま病院に運び込まれた時、警察や病院の関係者は、保護者の連絡先がわからず頭をかかえた。
すでに真夜中になっていたし、捕まった体育教師は錯乱状態。
制服を着ていたから高校の名前だけはわかったけど、携帯がぐちゃぐちゃに壊れていた上に、学生手帳すら持っていなくて、それ以外のことは何もわからなかった。
だから、所持品の中に電話番号を走り書きしたメモを見つけた時は、迷うことなくその番号に電話した。
電話に出たのは吉田比奈だった。
メモは、吉田が俺の制服のポケットにそっと滑り込ませたものだった。