44.通り雨2
時計の針は午後六時半を示していた。
そして、待ち人は来たらず。
「ねえ、柳瀬裕也じゃない?」
「まっさか、あんな有名人がこんな所にいるはずないよ」
さっきからチラチラとこちらを見ていた連中が、とうとうヒソヒソ話を始めてしまった。
こちらに向けられる視線がだんだんと増えてゆく。
本人たちは小声で話しているつもりなのかも知れないが、甲高い声は丸聞こえだ。
場所を移動するか、それとも……。
携帯電話を取り出し、メッセージを半分ほど打ち込んだところで消去した。
渋滞に巻き込まれた上、慣れない運転で悪戦苦闘しているに違いない。
これ以上のプレッシャーを与えては、事故になりかねない。
(だからやめようって、言ったのに)
後悔した所で後の祭りだ。
さらに深く帽子をかぶりなおそうとした時、街頭ビジョンから、幼い少女の歌声が流れ始めた。
兎追いしかの山
小ブナつりしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷
いつもJ−POPが流れるこの場所には全くふさわしくない。
でも、空気が一気に清涼になるような澄んだきれいな声だった。
子供の頃に兎を追いかけたり、フナを釣ったりした記憶を持つ人なんて、今はもういないはずなのに、ふと周囲を見回せば、誰もが引き寄せられるように顔を上げ、どこかしんみりとした表情でスクリーンを見つめている。
それは映画のプロモーション映像。
繰り返し見たものなのに、俺も無意識に顔を上げていた。
目に飛び込んできたものは、ゆっくりと地平線に沈んでゆく紅蓮の太陽。
そしてどこまでも続く道。
陸軍の工兵部隊が造った広く長い道の両側には、敗走の途中で力尽きた兵士たちの骸が果てしなく続いている。
赤い日輪を背に、浮かび上がる濃いシルエット。
血に汚れた包帯が乱雑に巻かれた足元から、手製の杖にすがりつくようにして歩いて行く後姿にパンして、静かに流れる少女の歌声がサビの部分にさしかかった所で、若い兵士の顔がアップになる。
少女の歌声が、若い娘のそれに変わる。
兵士の唇がかすかに動き、その声に唱和する。
歩き続ける兵士の頬を流れる涙。
そこにオーバーラップするのは、赤とんぼが群れ飛ぶ夕焼け空を、少年と少女が手をつないで見上げている日本の原風景。
『早くも興行収入五十億円突破! 今年最大の話題作! この悲惨さ、この愚かしさ、そしてこの切なさ、これが日本の戦争だ!』
無粋なコピーが大きく映し出され、画面に見入っていた人々はっとしたように現実に引き戻された。
続いてスクリーンに映し出されたのは、さっきスタジオで収録したばかりのトーク番組の一部だった。
「俳優の柳瀬裕也さんをスタジオにお招きしています。初の主演映画は封切りと同時にトップを独走中。今日は映画に対する思いや撮影時の裏話などを……」
「やっぱり裕也よ!」
スクリーンの中の司会者の声に、目の前の少女の声が重なった。
どんなに顔を隠しても、笑顔で映画の話をしている柳瀬裕也が身につけているものを見れば、俺が本人であることは一目瞭然だ。
チラチラとこちらを見ていた連中が、一斉に手にした携帯をこちらに向けた。
写真を撮られるのはかまわないが、いつまでここにいれば良いのやら。
(まいったな)
心の底からそう思った時、クルマのクラクションが耳をつんざいた。
救われた思いで振り返ると、吉田比奈が懸命に手を振っていた。




