43.ありがとう
(柳瀬さん、怒っています?)
黒田の声が聞こえた気がした。
(痛い思いをさせてしまって、すみませんでした。でも、私が起こせる奇跡は一つきりで、他に方法がなかったのですよ)
わかってる。
わかってるよ。
怒ったりするわけないじゃないか。
週刊誌に額を押し当てたまま、嗚咽をこらえるために唇をかみしめた。
最後の最後まで、やってくれた。
あいつのせいで、俺の涙腺は壊れっぱなしだ。
記事の後半には、いくつかの目撃証言が載せられていた。
最初の証言者は、俺を轢くはめになった列車の運転手だった。
『駅の手前の踏み切りに傘を差した男が立っていたんです。遮断機は下りているはずなのに、列車と向き合うようなかたちで突っ立ったまま、微動だにしないんですよ。咄嗟にブレーキをかけたのですが……ええ、全然間に合わなくて……。でも、衝撃は全く感じませんでした』
列車はすぐには止まらない。
きしるようなブレーキあげながら、そのまま駅に突っ込んだ。
そして二人目の犠牲者を轢いてしまう。
だが、減速していたおかげで、二人目は死をまぬがれた。
最初の現場に戻ってみると、一人目の犠牲者は煙のように消えていた。
どんなに探し回っても、衣類の切れ端も、わずかな血痕すら残っていなかった。
二番目の目撃証言は、駅のホームで列車を待っていたサラリーマン。
『通過する列車に気をとられていたので、私自身は少年が突き落とされた瞬間は見ていません。でも、私の右手に立っていた黒いスーツ姿の男性が、その場から立ち去ろうとする人影を呼び止めたんです』
「待ちなさい。自分の欲望のために柳瀬さんを――自分の教え子を殺害しようなんて、許される行為ではありません」
厳かな声がホームに響くと、呼び止められた男は愕然とした様子で振り返った。
「どうして、柳瀬の名を!?」
「あなたの名前も知っていますよ、麻賀雄介さん」
そんな短いやりとりの後、男はぺたりとその場に座り込み、狂ったように笑い出した。
『雨も降ってないのに傘を差していましてね。そんな人がホームにいたら、絶対に覚えているはずなのに、事件が起こるまで、全く気がつきませでした。あの後、現場は騒然となって、駅員が犯人をとりおさえて、救急車を呼んで、たまたま居合わせた医者が少年の応急手当をして……で、ふと思い立って、その人を探したら、もう、どこにもいなかったんです』
『黒衣の青年は神か天使か? 美少年との関係は?』
女性受けしそうなキャプションの横に目撃証言をもとに描かれたイラストはなかなかの男前で、黒田圭吾によく似ていた。
「あんたのおかげで、俺はこうして生きているんだな」
週刊誌を閉じて顔を上げると、窓の向こうに澄んだ空が広がっていた。
「黒田、ありがとう」
(お礼はもういいですから、一度ぐらい黒田さんって呼んで下さいよ)
あいつなら、きっと、そういうに違いない。
でも俺は、病室のドアを背にして床に座り込んだまま、肩を竦めただけだった。
窓の外に広がる蒼い空。
世界はこんなに輝きに満ちているのに、黒田はこうもり傘を差し続けている。
お人よしのあいつのことだから、六十年後にまた俺みたいなやつに出くわしたら、自分のことを後回しにして、手を差し伸べてしまうのだろう。