3.人寿は定まりがたし
「それで、どうなさったんです?」
いつの間にか目の前にしゃがみ込んでいた黒田が、片方しかない目を見開いて、身を乗り出してきた。
「どうって……」
笑ったつもりだったのに、思ったように笑えなかった。
無様な笑みを引っ込めた俺は、片方の膝をかかえなおし、赤茶けた線路を流し見た。
「それで終わりさ。ジ・エンド。俺はまっすぐここに来て、列車に轢かれて死んだんだ」
うそ寒い沈黙の中、男がかすかに身じろいだ。
その傍を何人もの人が行き過ぎる。
にわかに聞こえてきたアナウンス。
少しかすれ気味の男の声は、あの日と同じものだった。
眼前の光景があいまいに溶け、鮮烈な記憶がその上に重なっていく。
あの日、暗い空には星ひとつなく、駅のホームは真昼のように明るく、所在なく佇む俺の頭上では、白っぽい蛾の群れが照明にまとわりつくように飛んでいた。
列車の通過を告げるアナウンスが流れ出し、ホームに立っていた人たちが、一斉に同じ方向に首を動かした。
轟音を撒き散らしながらこちらに向かってくる金属の固まり。
妙な威圧感を感じてわずかに後退した時、渾身の力を込めたような激しさで、いきなり背後から突き飛ばされた。
あっ、と思ったが、声にはならなかった。
バランスを失ったまま、生々しい予感に襲われた。
一瞬の浮遊感とともに、線路に投げ出された肉体は、立ち上がろうともがくだろう。
だが、その行為の半ばで、突っ込んできた列車に轢きつぶされてしまうのだ。
飛び散る鮮血。
ホームに佇んだまま息をのむ人たち。
(死にたくない!)
最後に浮かんだ切迫した思いは、強烈な衝撃に押しつぶされた。
視界が真っ赤に染まり、そして、瞬時に暗転した。
痛いとか、苦しいとか、そんなことを感じるひまもなく、俺は全てを失ってしまった。
「人寿は定まりがたし」
呪文でも唱えるかのように、黒尽くめの男が低い声で呟いた。
「……禾稼の必ず四時を経るごとぎにあらず。十歳にして死するものは十歳中おのずから四時あり。二十はおのずから二十の四時あり。三十はおのずから三十の四時あり。五十、百はおのずから五十、百の……」
「何、それ?」
「おや、吉田松陰の留魂録をご存知ありませんか?」
黒田は不満げに目を細めたが、あっさりと首を横に振った俺を見て、ふっと微苦笑をもらした。
「私が子供の頃はうんざりするほど聞かされた名前ですが、やっぱりジャネレーションギャップなんですかね……あ、でも、誤解なさらないで下さいね。私はこの人、全然、好きじゃありませんから」
いやむしろ嫌いです――そんな風に断っておいてから、黒田は吉田松陰とやらについて話し始めた。
江戸時代に終わりに長州――今の山口県に生まれ、松下村塾という名の私塾を開き、弟子たちを過激な革命家に育て上げた名代のアジテーター。
自分自身は幕府に捕らえられ、反逆罪で処刑され、彼の弟子の多くも革命半ばで非業の死を遂げた。
だが、その意思を継ぐ者たちによって、ついに革命は成し遂げられた。
「当時の幕府は確かに衰退していたようですが、革命家たちが作り上げた新政府よりは、ましだったような気がします。力づくで政権を奪い取った連中は、今度は力づくで国を広げようとした。天皇は神。日本は神の国。そのために命を捨てるのは国民の義務。松陰とその弟子たちのように国のために命を捨てよと……」
遠い目をして語り続ける黒田の表情は暗く沈んでいる。
喪服のような黒いスーツを着て、片方の目を眼帯で覆った男は、松陰とその弟子たちについてひとしきり語った後、憂鬱そうに吐息をついた。
「さっきの言葉はですね、穀物は四季を経て収穫を得るものですが、人の一生はそうはいかない。しかし、十歳で亡くなった人の一生にも、その人なりの四季があり実りがあり、二十歳、三十歳で亡くなった人の場合もそれは同じで、若くして死ぬことになっても嘆くには及ばないと……まあ、そんな意味なのですが……二十九歳で処刑された男が牢獄の中で弟子のために残した遺書ですからね。あなただって同意なんかできないでしょう? 十七歳で終わった生涯に四季や実りがあると思いますか?」
「思っていたら、こんな所にはいない」
「ああ、確かに。どうやら、愚問だったようですね」
「でも、もう、どうにもならないんだろ?」
「残念ながら、奇跡でも起こらぬ限りは」
申し訳なさそうに声を落とした男が、ゆっくりと背後を振り返った。
けぶるような雨の向こうに細い影が差したのはその時だ。
俺はこぶしを握りこみ、なすすべもなく目を伏せる。
静かに階段を降りてきた少女は、制服の腕に白いバラの花束を抱えていた。