36.あたたかい手
寄せては返す波の音のように、夏空にこだます遠雷のように、決して消えることのないその声が頭の中に直接響いてくるのだと気がついた時、黒田は自分が狂っているのだと思った。
「はっ、ははは……」
地面にはいつくばったまま、血と汗と泥と煤とで汚れた軍服から、勢いよく階級章を引きちぎった。
狂うなら、狂えばいい。
だが、奇跡を願うなんて、どうかしている。
神などいない。
どこにもいない。
いるのは愚かな人間だけだ。
勝てるはずのない戦争。
無謀な作戦。
美辞麗句に彩られた地獄への片道切符。
そして、ここが……。
ここが、地獄だ。
人間しかいない。
人間だけが、鳥や虫や木や花や、あらゆる生命を巻き添えにして、自分と同じ人間をこれほど残忍に、徹底的に殺戮することができるのだ。
積み重ねた死体が燃やされている。
チロチロと燃える火の中にいるかも知れない。
いや、足元に転がっている骨のかけらこそが、百合かも知れないのだ。
「百合さん、百合さん、私です、黒田です。あなたに伝えたいことがあるんです。私は……私は……あなたのことが……あなたのことだけが……」
好きでした。
ずっと、ずっと好きでした。
愛しくて、大切で、自分自身よりもはるかに大切で、あなたに幸せになって欲しくて、思いを伝えることができませんでした。
それなのに、こんなにも愛しているのに……。
「なぜなんだ? なぜ、あなたを見つけることができない!?」
散らばった骨をかき集めて抱きしめた。
もはや進むべき道もなく、帰るべき場所もない。
「……柳瀬さん?」
「……ッ……」
「柳瀬さん、泣いているんですか?」
「泣いてるよ! 悪いか!?」
顔を上げて叫んだ途端、黒田は淡く微笑んだ。
「あなたは優しい方ですね。百合さんもきっと喜んで……」
「違うよ! 俺はあんたが、あんたのことが……」
「おやおや、恋の告白ですか? でも、私にはそちらの趣味は……」
「ふざけるな!」
おどけて笑ってみせる姿を見ていられなくて、その胸に顔をうずめてしまった。
体温などあるはずがないのに、あやすように背中を撫でる手があたたかい。
その手のぬくもりが切なくて、俺はいつまでも泣き止むことができなかった。