30.幸せの定義
平時より六ヶ月も早い昭和十七年九月に帝国大学を卒業した黒田は、陸軍経理学校での八ヶ月にわたる教育の後、主計見習士官としてビルマに赴いた。
「ビルマってどこ?」
「ミャンマーのことです。今は軍事政権が支配していて、何だか物騒なことになっていますけど、基本的には敬虔な仏教国で、一般の方はとても親切です。あちこちに鳥を売る店がありましてね。随分と繁盛しているんです。家で飼うのか、それとも焼き鳥にでもするのかと見ていると、たった今、買った鳥たちを、空に放してやっているではありませんか」
黒田が両手を広げると、飛び立つ鳥たちが見えた気がした。
俺の中では過去と現実がゴチャゴチャになっているが、どうやら黒田も同じらしい。
「私はあの国のことを思うたびに複雑な気持ちになるんです。多くの民衆が神に寄り添うように生きているのに、国は貧しく、軍事政権の弾圧で大学だって閉鎖されたまま。おまけにひどい天災に見舞われて……不幸続きだ」
そこで小さなため息をつき、物憂げな瞳を宙にさ迷わせた。
自分のことを話していたのに、いつの間にか他人の話にすり替わっている。
「あんたって、変わってるな」
そう呟いた途端、黒田は不本意そうに唇を尖らせた。
「私はいたって平凡な人間です。変わっていると思うのなら、それはきっとジェネレーションギャップのせいで……」
「いや、違う、そうじゃない」
俺はもどかしい思いで、相手の言葉を遮った。
「最初は自分の不幸話を聞いて欲しいのかと思ったけど違ってた。自分のことなんかどうだっていいんだ。あんたの願いは自分の幸せじゃなく、百合の幸せだ。ああそうか! わかったぞ、あんたが戦場から逃げたのは自分のためなんかじゃない、百合のためだ!」
「どうしてそんなことがわかるのです?」
図星をさされて動転しているのか、黒田の声はうわずっていた。
(似てるからだよ)
俺は心の中で言葉を返す。
(あんたと俺が似ているからだ。あんたが抱えていた鬱屈は、俺が抱えていたのと同じもの。俺は吉田が好きで、でも、自分と吉田では全然吊り合わなくて、告白することさえ、ばかばかしいと思ってた)
でも、俺たちには決定的に違う所がある。
俺は自分のことしか考えていなかったけど、黒田の判断基準は百合の幸せだ。
幸せにできると判断したら、迷うことなくさらっていただろう。
ただ、幸せの定義そのものが間違っていた。
未来を失った瞬間に、黒田は百合をあきらめた。
だが、約束された未来など砂上の楼閣だ。
そして、戦場に届いた一通の手紙に、黒田は打ちのめされることになる。
差出人は百合の父親だった。