29.それは一つの純愛
「おや、もう、こんな時間だ」
驚く黒田の右手には、またあの懐中時計が握られていた。
「お、おい!」
俺はあせって黒いスーツの胸倉をつかみ、強引に自分の方に振り向かせた。
「時間はあると言ったじゃないか! これでおしまいなんて言うなよな、話はまだ終わっていないし、俺には聞く権利があるはずだ!」
「け、権利?」
こちらの剣幕におされまくった男は、片方しかない目をしばたかせた。
現実逃避もあったのかも知れない。
俺はいつしか黒田の話にのめりこんでいた。
時間の感覚も場所の感覚も失われ、六十年以上も昔のことが、昨日のことのように胸に迫ってくる。
「百合はあんたの嘘を信じたのか」
返ってきたのは、いいえという言葉だった。
「あの後、だんな様から手紙を頂きました。百合さんは、私に会わせて欲しいとおっしゃったそうです。本人から直接話を聞くまでは信じることができないと……。彼女の言葉はきちんと筋が通っていて、誰も説得することができませんでした。困り果てただんな様は、私は出征する日まで、百合さんを屋敷に閉じ込めることにしたのです」
だからこそ、東京駅のホームに現れた百合を見た時は驚いた。
出征兵士を送る蒸気機関車はすでに動き出していて、よろめきホームに崩れ落ちたその人に、手を差し伸べることすらできなかった。
あの誇り高い少女が、周囲の目を気にすることもなく、立ち上がることも忘れたように、じっとこちらを見つめていた。
他ならぬ自分が、百合にあんな顔をさせていることがたまらなかった。
あの瞳を忘れることなど絶対にできない。
「ねえ、馬鹿じゃない? 俺はあんたのこと、そんなに知っているわけじゃないけどさ、好きな女にキス一つできないくそ真面目な純情青年に、女を孕ませられるはずないじゃないか」
形勢逆転とばかりに冷たい視線を送ると、黒田は無言でうつむいた。
「あなたのおっしゃる通りです。私の嘘は稚拙でした。でも、今はわかるんです。多分、どんな嘘をついたとしても、百合さんをだますことなんてできなかった」
(そうだろうな)
気の毒だけど、その通りだ。
十二歳と八歳。
恋愛からはほど遠くても、初めて会った時から、二人は互いに惹かれあった。
だからこそ、誰にも心を開かぬ少女が初対面の時から黒田にだけは笑顔を見せたのだ。
二人の成長とともに育っていった思い。
彼らがもう少し早くに生まれていれば、身分を超えた恋は成就していただろう。