2.堕天使と風紀委員
「裕也は私の天使よ」
上半身をもたげると、その先の動きを封じるように女の腕が絡み付いてきた。
「天使は天使でも、堕天使だけど」
十も年上の裸の女が、自分の母親とだぶりそうになって、俺は無意識に目を逸らせた。
カーテンを閉めなかったのは失敗だった。
もっと眠っていたかったのに、差し込む朝日で目が覚めた。
裸の胸に引き寄せられ、求められるまま、求められる場所に唇を寄せる。
いまさらカーテンを閉める気にもなれず、思考を停止させたまま、本能に身を任せるのはいつものことだ。
動物には発情期があるのに、どうして人間にはそれがないんだ?
にごった頭でいくら考えたところで答えは出ない。
シャワーの音を聞きながら、流れる紫煙をぼんやりと目で追いかける。
タバコなんて好きじゃない。
でも、好きでもない女とのセックスは、タバコよりもはるかに後味が悪い。
ふと見れば、窓の向こうに透明な空が広がっていた。
爽やかな空の色に触発されたように、吉田比奈の顔が脳裏をよぎる。
心のどこかで、時間を気にし始めている。
学校に行くまでの段取りを頭の中でトレースしながら、夏の日にプールのおあずけをくらった子供のように、俺はそわそわと落ち着かなくなる。
(何、やってんだ?)
小さく苦笑し目を閉じる。
シャワーの音はいつの間にか消えていた。
指摘されるまでもなく、俺は素行の悪い生徒だった。
トレードマークは黄金色に染めた髪と、左耳に並んだ三つのピアス。
長すぎる前髪に半ば隠された顔は、甘ったるい女顔。
夜のまちを徘徊していると、いくらでも女が寄ってくる。
俺はそこそこ金回りの良さそうな、年上で一人暮らしの女しか相手にしない。
つまり、堕天使というよりは、ヒモみたいな男なのだ。
俺の名を知らぬ者は、校内に一人もいないだろう。
だが、注目度の高さでは、吉田比奈が恐らくナンバーワンだ。
吉田は俺の対極に位置する才色兼備の優等生。
俺たちは一年の時から同じクラスで、吉田が風起委員に立候補した瞬間から、二人の関係は決まってしまった。
手を抜くことを知らない彼女は、風紀委員の仕事にもとんでもなく熱心だ。
屋上でタバコをふかしていても、他校の生徒とけんかしていても、授業をさぼって昼寝をしていても、どこからとも現れる。
気にすまいと思うのに、俺の行動半径は次第に狭くなる。
さぼりたくてさぼっているのか、見つけて欲しくてさぼっているのか、だんだんとわからなくなってくる。
河原に寝転び、流れる雲を目で追っていると、草を踏みながら近づいてくる小さな足音。
俺はなぜか嬉しくなる。
「授業をさぼって何をやってるの?」
「それはこっちのセリフ」
吉田は俺の顔を覗き込み、川風に髪とスカートを翻しながら、腕時計の文字盤をこちらに向けてくる。
「今すぐ戻れば、授業が終わる前に教室に入れるわ」
「ああ、そう、じゃあ、戻れば?」
「どうしてそんなことを言うの?」
言葉に言葉が返ってくる。
真っ直ぐな瞳がじっとこちらを見つめている。
はんぱでない目力に負けそうになった時、きゅっと引き締まった唇が笑みの形にほころんだ。
「ね、一緒に戻ろう?」
思わず誤解してしまいそうなほど優しい声。
俺は何も答えられない。
俯いた途端、差し伸べられた両手が目が入る。
国会議員を父に持つ良家の令嬢にふさわしいきれいな手。
それをはらいのけて立ち上がるのは、かなりの勇気が必要だった。
風紀委員だからという理由だけで、授業を放り出して、できの悪い生徒を探し回ることは、問題じゃないのだろうか?
俺は不思議でならなかった。
親は大物だし、吉田の成績は全国模試でもトップクラスだから、学校側も目をつぶっているかも知れない。
屋上から見下ろす景色は平和そのものだ。
蹴り上げたサッカーボールが大きくフライングするのを眺めながら、俺はコーヒー牛乳の紙パックを手の中で握りつぶした。
「それだけ?」
「悪い?」
振り返れば、吉田は三メートルばかり離れた所に立っていた。
いつも思うことだけど、一切の気配を消して近づいてくるわざは、どこで身に付けたのだろう。
「風紀委員は昼飯のことまで指導するわけ? 念のために言っておくけど、屋上は立ち入り禁止なんだぜ」
「そんなことより、ねえ、聞いて?」
来るなと言う前に、横たわる距離を一気に詰めてきた。
屋上の手すりに手をかけて悪戯っぽく笑う顔は、教室で見せるのとは全く別ものだ。
「私、風紀委員になるまで、授業をさぼったことも、屋上に登ったことも、夜の繁華街を歩き回ったこともなかったのよ。これって、すごいと思わない?」
目を輝かせて告げられても、こっちは反応に困ってしまう。
「下らない」
そっけない言葉とともに取り出したタバコは、あっという間に没収されてしまった。
「タバコはやめようよ」
「今日はもうやめる。それが最後の一本なんだ」
だから返してくれと伸ばした手に、いきなりひっかけられた紙袋はずしりと重い。
「何、これ?」
「お弁当。私が作ったの」
「へえ」
大げさに驚いてみせてから、俺は意地悪く微笑んだ。
「ボランティア活動? それとも恵まれない子供に差し出された愛の手? 悪いな、俺は今ダイエット中なんだ。どうせなら、お前のファンにめぐんでやれよ。剣道部の鶴田とか、生徒会長の山下とか、涙を流して喜ぶぜ」
「鶴田君たちは、お昼をコーヒー牛乳で済ませたりしない」
紙袋をつき返されるのを恐れるように、吉田はゆっくりと後ずさった。
「ダイエットって言っただろ?」
「痩せすぎよ。ろくに食事もしないで、タバコを吸って、絶対に身体に良くない。お弁当を作ってくれる彼女とか……いないの?」
ものいいたげな瞳を向けられて、どうして良いかわからなくなる。
補導員だって、こんな図々しい質問はしないだろう。
「お前さ、何が言いたいわけ?」
イライラが最高潮に達した俺は、紙袋を足元に下ろし、わざと乱暴に吉田の腕をつかんだ。
「心配してくれなくても、彼女はいるよ。現在進行形で五人ぐらい。年上で、金払いが良くて、美人で、いつだってやらせてくれる。だから、品行方正な風紀委員どのに世話をやかれたって、わずらわしいだけだ。それとも、あんたも、やらせてくれるのか?」
こわばった吉田の目から、じんわりと涙が浮かんできた。
少し脅して遠ざけるつもりだったのに、白い頬を伝って流れていくそれを見つめたまま、俺は金縛りにあったように動けなくなる。
「目を……閉じて」
どうしてそんなことを口走ってしまったのか。
こいつのまっすぐな瞳は、いつも俺を混乱させる。
だからといって、目を閉じさせて、どうするってんだ。
「失言。今のはなし」
身を翻そうとした途端、さえぎるように吉田の手が伸びてきた。
シャツをつかんだ手が震えている。
吉田は無言で目を閉じた。
淡い色の唇。
ほのかに漂う甘い香り。
昼休みの終わりを告げるチャイムの音。
軽い酩酊の中で俺も目を閉じていた。
ためらいがちに触れた唇はふわりと柔らかで、その感触にひかれるまま、もう一度唇を重ねようとしたところで、いきなり現実に引き戻された。
恐慌を起こしたような男の叫び。
「何をしている!」
屋上中に響き渡る大声は麻賀雄介のものだった。
二十代半ばの体育教師は、ものすごい勢いでこちらへ駆けてきた。
「ちょっ、ちょっと……」
待てという暇もない。
一方の手で俺の胸倉をつかみ、もう一方の手で強烈なパンチを繰り出してきた。
とっさにかわしていなければ、顎の骨が砕かれても不思議はないわけで、勢いあまってたたらを踏む相手の背中を蹴り飛ばしたのは、明らかに正当防衛のうちだろう。
無様につっぷしたまま、ギロリとこちらを睨んだ男の目は、狂気をはらんで血走っていた。
棒立ちしている俺を背後にかばうようにして、吉田が前に進み出た。
「先生、誤解です。柳瀬君は悪くありません」
きっぱりと言い放った時、吉田はいつもの吉田に戻っていた。
「気分が悪くて、少し風に当たりたかったので、柳瀬君に屋上に連れて来てもらってきていたんです」
「だが、屋上は……」
「立ち入り禁止なのを忘れていました」
気勢をそがれた教師に一礼して、吉田はくるりと背を向けた。
それから紙袋を拾い上げ、俺を追い立てるようにして屋上を後にした。
「女に助けられたのは初めてだ」
「借りを返したければ、これ、ちゃんと食べてよね」
階段を下りる足を止め、振り返った顔はほのかに赤い。
差し出されたものを素直に受け取りながら、俺もつられて赤面してしまう。
「午後の授業は……」
「出ようよ? 数学、好きでしょう?」
まっすぐこちらを見つめたまま、吉田はよどみなく言葉を紡ぐ。
きちんと相手の目を見て話すのは、性格もあるだろうけど、多分、育ちの良さによるものだ。
人に知られたくないことなど何一つなければ、目を逸らす必要もない。
「別に好きなわけじゃない。答えが一つしかないから他の科目よりましなだけだ」
「答えがいくつあったって、かまわないと思うけど?」
「でもさ……」
学校一の才女と、なぜ、こんな話をしているのだろう?
いい加減に打ち切りたいのに、なぜか言葉は止まらない。
『以下の文章を読んで、作者の心情を五十字以内でまとめよ』なんて問題はお手上げなんだ」
「ふーん、どうして?」
「他人が考えていることなんて、わかるはずがないだろ?」
「そうね。でも……」
吉田はそこで言葉を止めた。
気がつけば、教室の前にたどりついていた。
授業はとっくに始まっているというのに、吉田はためらいもなく扉を開く。
「気分が悪くて、柳瀬君に付き添ってもらって、保健室で休んでいました」
俺の名前が出た途端、教室が小さくざわめいた。
吉田は本当に嘘つきだ。
罪のない嘘を、その場の状況に合わせて縦横無尽につきまくる。
そしてその嘘は見破られない。
「大丈夫なのか?」
案の定、教師は気遣わしげな言葉を投げてきた。
「はい」と慎ましやかに返事して、吉田は静かに席につく。
「柳瀬、ご苦労だったな」
「いいえ」とぶっきらぼうに呟いて、俺も仕方なく席についた。
教室のざわめきはまだ続いている。
尾ひれのついた噂が流れていくのだろう。
苦い思いで、窓の外を見た。
俺なんかとキスしたことを、吉田はいつか後悔するだろう。
天使なんていいもんじゃない。
記憶の中の幼い俺は、公園の隅にしゃがみこみ、いつも腹をすかしていた。
着ている服は汚れていて、誰からも相手にされなかった。
水商売の母親はいつまでも若く美しく、家には若いヒモみたいな男が入り浸っていた。
父親のことは何も知らない。
母親は俺のことなど見向きもしない。
高校進学が決まったと同時に家を出た。
学費も生活費もアルバイトで何とかするつもりだったけど、食うや食わずの暮らしの中、気がつけば俺自身がヒモみたいになっていた。
夜が近づくと、ポケットの中のケータイからひっきりなしにメールの着信音が聞こえてくる。
「おいしいもの食べに行かない?」とか、「寂しいの。慰めて」とか、文面は色々だけど、結局やることはおんなじだ。
たまらなくなって、川に携帯を投げ捨てた。
小さな水音が耳朶を打つ。
橋の欄干から身を乗り出すようにして小さな波紋を見つめていると、背後から腕を掴まれた。
振り返ると、吉田比奈が深刻な顔をして立っていた。
この先に有名な進学塾がある。
塾へ行く途中の吉田にこんなところで出くわすとは、完全な誤算だ。
「何をしているの?」
「水音がしたから覗いてただけ。こんな汚い川でも魚がいるのかと思ってさ」
「どこへ行くの?」
「風紀委員長殿とは縁のない所。俺は犯罪者じゃないんだし、お前は刑事じゃないんだから、聞かれても、もう何も答えないからな」
突き放すように告げて背を向けた。
橋の上に佇んだままじっとこちらを見ていた吉田は、一緒にいた連中にひとことふたこと何か言ってから、俺の後を追いかけてきた。
わざと猥雑な裏通りを選んで歩く。
夕暮れから夜に変わっていく街を、様々な色のネオンが彩り始めても、俺は歩度を緩めなかった。
「明日からテスト週間なんだけど」
大股で歩く俺を必死で追ってくるクラスメイトは、早くも肩で息をしている。
下らぬ追いかけっこにウンザリして、俺は盛大なため息をついた。
「そういうお前が帰れば? こんな所をウロウロしていたら、変な奴らにつかまって、速攻、やられちまうぜ」
見開かれた瞳に怯えの色が宿る。
不安げに周囲を見回し、すがるように俺を見た。
「一緒に帰ろう?」
「いや」
「いじわる」
「何を今さら」
笑って聞き流すと、吉田は唇をかみしめた。
泣きそうな顔をしているくせに、どこまでも歯を食いしばってついてくる。
彼女を突き動かしているものが何なのか、俺にはさっぱりわからない。
雰囲気に流されてキスしたことは、妙なシチュエーションが作り出したアクシデントに過ぎない。
吉田比奈は絶滅の危機に瀕している純日本的な美少女だ。
お嬢様育ちで、少し天然なで、いつも颯爽としているくせに、俺の前では別の顔を見せる。
好奇心旺盛で、自信に満ちていて、外見だけが取り得の俺とは全く別の生き物だ。
何も知らないのだから、触れてはならない。
汚してはならない。
近づいてはならない。
だから、俺のことなんて、放っておいてくれ。
派手なネオン街のあちこちには、薄汚い連中がたむろしている。
右を見ても、左を見ても、制服姿の美少女を見て舌なめずりしている男ばかりだ。
俺との距離があと少しでも広がれば、連中はすぐにでも行動を起こすに違いない。
根負けした俺は、不機嫌をあらわに、もと来た道を歩き出した。
吉田がほっとしたように、息を吐き出す気配がした。
「風紀委員なんか、やめれば?」
「どうして?」
吉田の家に続く道を並んで歩きながら口を開くと、批難するような目を向けてきた。
頭が良いくせに、なぜ、わからないのだろう?
俺を追いかけていて、迷子になって、車に連れ込まれそうになったじゃないか。
塾に行かなかったのがばれて、親に叱られたんだろう?
一緒に授業をさぼって、いったい何の得になる?
妙な噂がたっていることを知っているか?
お前を傷つけたくはないけど、またあんな状況に陥ったら、俺のなけなしの理性なんか吹き飛んでしまう。
理由なら、いくらでもある。
だが、結局のところ、それらを口にする機会は永遠に失われてしまった。
「比奈ちゃん? 比奈ちゃんなの?」
高い塀に囲まれた屋敷の門の前に佇むシルエットは、吉田の母親のものだった。
小走りにこちらに駆けてきたその人は、吉田の腕をつかんで自分の方へと引き寄せた。
普段着とは思えないほどきれいな服を着て、髪を上品にまとめていて、吉田とよく似ている。
やましいことなどありはしないのに、俺は相手の視線を避けるようにして目を逸らした。
「塾の先生からお電話を頂いたのよ。一体どこへ行っていたの!?」
「委員会が長引いただけよ。こちらは同じクラスの柳瀬裕也君。一人で帰るのは危ないからって、わざわざ送ってくれたの」
制服を着崩した金髪少年は、どうやら奥様のお眼鏡にはかなわなかったようだ。
その証拠にこちらに向き直った母親は、俺を頭の先から足の先まで見て、強張った微笑を唇に刻み込んだ。
「お世話になりました」
ひどく平板な声だった。
アンドロイドが口をきいたら、ひょっとすると、こんな感じかも知れない。
母親に連行されながら、吉田が小さく手を振る。
振り返すことなど、できるはずがない。
俺はこぶしを握り締めたまま、気付かないふりをした。