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28.手紙

太平洋戦争は始まって半年ぐらいは、連戦連勝だった。

東は中部太平洋、西はインド洋、北はベーリング海、南は珊瑚海、そして中国大陸。

日本軍は各所で戦い、戦場はどんどん拡大し、兵士たちはあらゆる戦場を薄く広く覆いつくしていった。

そして、昭和十七年六月のミッドウェー海戦で破れた後は、アメリカ軍を中心とする連合軍が日本軍を圧倒し始めた。


大学の繰り上げ卒業は、太平洋戦争とともに始まった。

同じ卒業生でも、理工科系は兵器開発などの研究機関に回されることが多く、下士官や将校として戦場に送り込まれたのは、主として文系の卒業生たちだった。


卒業をひと月後に控えたあの日。

したたるような緑の中、蝉がかまびすしく鳴いていた。

目の前で深々と頭を下げた男の頭髪にちらほらと白いものが混じっていたことさえ、今でもはっきりと覚えている。


「娘を説得してもらいたい」

その男――百合の父親である河島浩輔は、面倒をみてきた書生を見据えてそう言った。


「君が帝大に入学した年に、君が無事大学を卒業したら、中古城君との縁談を考え直しても良いと言ってしまったんだ。私は君を買っていたし、君と百合は似合いだとも思っていた。だが、わかってくれたまえ。私はあれが可愛いのだよ」


「はい」と答えると、男はほっとした顔でうなずいた。

そんなに気を使わなくても、自分の立場はわかりすぎるほどわかっている。

ただ、贅沢を言わせてもらえば、もう少しだけ夢を見ていたかった。


消え行く命を惜しむかのように、蝉はいつまでも鳴きやまない。

寂寥とした砂漠の中に、なすすべもなく立ち尽くす自分の姿が、陽炎のように浮かんで消えた。

乾いた砂が音を立てて流れていく。

砂に同化した身体が崩れ、虚無の中に埋もれていく。


「百合さんが……お嬢様が幸せになって下さることが、私の一番の望みですから……」

「すまない」という呟きとともに、男の手がぽんと肩にのせられた。

口にした言葉はまぎれもない真実なのに、作り笑い一つできない自分が惨めだった。


思いを口にしなくて良かった。

自分に自信がなくて、あやふやな態度をとり続けていて正解だった。


その足で寮に戻り、苦労して手紙をしたためた。

美しい女給と恋仲になり、関係を持ったすえに女が身ごもった。

だんな様に恥をかかせ、お嬢様にも合わせる顔がない。

それは、学友から聞いた実際にあった話に、多少の脚色をしたものだった。


「百合さんは信じてくれるだろうか?」

口にした途端、信じて欲しいという気持ちと、信じて欲しくないという気持ちが、せめぎあうように溢れてきて、こんなことではだめだと思い、もう一度、ペンを握りなおした。


どこの戦場でどんな死に方をしても、決して悲しんだりしないように、読んだ途端に愛想がつきて、百年の恋も冷めるような手紙を。

思わず漏らした苦笑は涙となり、便箋の文字をにじませた。

涙のしずくに吸い込まれていく文字の上に、濡れた指先で本当の思いをしたためた。


あなたが好きでした

今も好きです

だからあなたは

私を嫌いになって下さい


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