26.野心
黒田には、世話になっている主家の娘をさらうことなど、できなかった。
でも、百合はどうしても聞き入れない。
結局、二人して屋敷を抜け出して、ただ街を歩き回った。
「道行く人がこっちを見るんですよ。どこから見ても良家のお嬢様にしか見えない百合さんと、袖の擦り切れた学生服を着た私とが並んで道を歩くというのは、どう見てもおかしいわけでして……」
いたたまれなくなって俯く長身の少年と、ほっそりとした可憐な少女の姿が目に浮かんだ。
その頭上に広がる空は、少女のワンピースと同じ色。
四月の初めというから、桜の花だって咲いていたかも知れない。
それは、黒田が思っているようなものじゃなく、すれ違う人が思わず目を奪われてしまうほど、きれいな光景のような気がした。
「どうしてそこまで自分を過小評価するわけ? あんた、性格は思いっきり三枚目だけど、ルックスはかなり上等な分類に入ると思うけど?」
「それって、ひょっとして、ほめているつもりですか?」
「もちろん」
真顔で頷くと、黒田は難しい顔をしてこめかみに手を当てた。
「あなたのおっしゃりたいことはわかります。私だって、百合さんを本当に連れ去っていたら、どうなっていただろうって、考えることがあるんです。もちろん、あの時だけでなく、選択を迫られた人生の岐路はいくつもある。でも、私の人生も、百合さんの人生も、どこでどうやり直しても、どうにもうまくいかない感じなんですよ」
黒田は頬杖をつきながら、「時代ってものですかね」と妙な感慨を口にした。
諦めているような、諦めきれないような、そんな感じの声だった。
百合に、自分をさらって欲しいと請われた日。
黒田は人目を避けるようにして街を歩きながら、少女の体調のことばかり考えていた。
幸い熱は上がらなかったけど、ゆるぎない真実が一つある。
温室育ちの花は、温室の外では生きられない。
身体の弱い百合に、苦労などさせられない。
「そろそろ、帰りましょうか」
名も知らぬ小さな公園の前まで来た所で、黒田は足を止めた。
こちらを見上げる百合の瞳は涙で濡れていた。
無言で手を差し出すと、そっと手を重ねてきた。
自分たちのささやかな逃避行が、あっけなく終わってしまったことを、理解している瞳の色だった。
「私は中古城様のもとに嫁ぐのはいやです」
寄り添うようにして歩きながら、百合がぽつりと呟いた。
お嬢様のわがままはもう慣れっこだから、黒田は心の中で苦笑した。
「お会いしたことがないのだから、いやかどうかはわからないのではありませんか? 実際にお会いすれば、お気持ちも変わるでしょう。何と言っても先方は帝国大学を出たエリートで……」
「どうしてそんなことを、おっしゃるの?! 帝国大学を出た方がエリートなら、黒田さんだって、そうだわ! 一校の法学部を卒業した後は、帝国大学の法学部に進学なさるのでしょう?」
思わず足を止め、少女の顔を凝視した。
強い意志を秘めた瞳がまっすぐこちらを見返してくる。
百メートルを一気に駆け抜けたかのように心臓が激しく鼓動を打ち始めた。
(私をここからさらって下さい)
百合は本気でそう言ったのだ。
(一校から帝国大学に進み、政治家になることができれば……)
小さな手を握る手に無意識に力がこもる。
それは、生まれて初めて芽生えた野心だった。