23.岐路
好きな人ができた。
学校を卒業し社会人になった。
結婚して、子供が生まれて、子供が成長して、そして、自分は年老いて……。
人生なんてものは、当人にとってはこの上なく大切で、第三者から見れば大した意味を持たない日々の繰り返しだ。
その延長線上にどんな不幸が待ち受けているかなんて、その時になってみなければ、わからない。
ましてや、はるか遠い所で始まった戦いが、自分から全てを奪ってしまうなんて、一体、誰が思うだろう。
「今さら、ごまかしたって仕方ありませんよね。そうです。私は百合さんのことが好きでした」
その後、黒田が思い出したように、「ロリータ・コンプレックスというのは断固として否定しますけど」と付け加えたことがおかしくて、俺は唇を歪ませた。
つかみどころのない男だから、真面目なのか、おどけているのかさえ、わからない。
でも、どんな風に語ってみせたところで、悲劇が喜劇に変わることはない。
黒田が上京する前の年、日本は侵略戦争を開始した。
自国が権益を有する南満州鉄道の線路を、自ら爆破した上で、それを中国側の破壊工作と決め付けて、中国東北部、つまりは当時の満州を占領したのだ。
それから六年後の昭和十二年。
北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習をしていた日本軍が、中国側の陣地から数発の実弾射撃を受けたことが発端となって、日中戦争が始まった。
だが、海の向こうで始まった戦争は、漠然とした不安をかきたてはしたものの、まだまだ遠い世界での出来事だった。
それよりも、日々の細々としたことの方が、はるかに大事なことのように思えた。
「理数が好きだので、技師になりたいと思っていました。でも、だんな様が有力な政治家とのつながりを求めておいでだったので……」
志望先を工学部から法学部に切り替えた。
別段強要されたわけではなかったが、幼い頃から他人の顔色ばかり見て育ってきたせいか、第三者の意向を優先させるくせがついていた。
その選択が自分の人生において決定的な意味を持つことなど知るよしもなく、黒田は猛勉強の末、一校の法学部に合格することができた。
入寮の前日、百合はまた熱を出した。
心配で、締め切った襖の外に佇んでいた黒田は、中から「黒田さんと」呼びかけられ、ためらいがちに襖を開けた。
寝ていると思ったのに、百合は座敷の真ん中に座っていた。
ゆるやかなウェーブのある髪に水色のリボンを結び、同色のセーラーカラーのワンピース姿で正座している姿は、腕の良い人形師の手によって作られた高価な人形のようだった。
「いつも思うんですけど、どうして私だってわかるんですか?」
「どうしてだと思います?」
少しどきまぎして訊ねると、熱で潤んだ瞳を微笑ませて、少女は悪戯っぽく小首を傾げた。
「ひょっとして、汗臭いとか」
急に心配になって、服に鼻を押し当てると、少女はクスクス笑い出した。