21.昔の日本と日本人
「書生って何? もちろん聞いたことぐらいはあるけどさ」
「ああ、もう、死語になってしまったのですね」
しんみりとそう言っただけで、黒田も今度は呆れたりはしなかった。
「他人の家に寄宿して、家賃代わりに家事や雑用を手伝いながら、学問を続ける若者と言えば、わかりますか?」
「ただで間借りさせてくれるってこと?」
「ええ、そうです。貧富の差が激しい時代でしたから」
「今だってそうさ」
冷めた言葉とともに、両足を鉄骨にひっかけたまま、上半身を後ろに倒した。
まばらな星空が目に飛び込んでくる。
地方都市とは言え、街の夜空はぼんやりと灰色ががっていた。
昔の日本人は志を持つ若い人には寛大だったと黒田は言ったけど、ずば抜けて優秀な若い人には寛大だったと言い換えるべきだ。
自分が面倒を見ている書生が立身出世すれば、様々なメリットが生じることも視野に入れての慈善行為だったに違いない。
得することでもない限り、人はそう簡単に動いたりはしないのだ。
「屋敷には私も含めて四人の書生がおりました。だんな様は大変お忙しい方で、滅多に戻って来られませんでしたから、男手があった方が安心だと思われたのでしょう」
正妻と、妾腹の娘と、大勢の使用人と、地方出の書生たち。
黒田が描き出す昔の日本は、俺の知る日本とは全く別物だ。
異質な人間が作り上げる日常はどんなものなのか、普通の家庭さえ知らない俺には見当もつかないが、その屋敷の一人娘――百合という名の少女が、黒田にとって特別な存在だったということだけは、すぐにわかった。
どんなに平静を装っていても、思いは隠せない。
「百合さん」とその名を口にする度に、青年がまとう気のようなものが、ゆらゆらと切なく揺れる。
「ロリコン」
「ち、違います!」
大正生まれのくせに、黒田は現代のことにも通じている。
ぼそりと呟いた途端、機関銃のような勢いで反論し始めた。
「確かに始めてお会いした時、百合さんは八歳でしたけど、私だって十二歳だったんですから、ロリータ・コンプレックスの定義には当てはまりません。それに私は、そういういやらしい目であの方を見たことなど……」
「全くないわけ? 本当の本当に? 一度も?」
意地悪く訊ねると、黒田はウッと言葉に詰まり、恥ずかしそうに俯いた。
「少なくとも、一校に入る頃までは……」
俺は思わず噴き出した。
暗くてわからないけど、目の前の男は、真っ赤になっているに違いない。