1.迷える魂の案内人
雨の帳で覆われたモノクロームの景色の中、密やかな雨の音を聞きながら、俺は一点を見つめていた。
濡れて黒ずんだ駅のホーム。
その傍らに置かれた場違いな花束。
風で飛ばされた一片の花びらが、すぐ目の前で少しずつ色をなくしていく。
その色から目を逸らすことができずに、無意識に唇をかみ締めた時のこと。
「柳瀬裕也さんですね」
頭上から、穏やかな声が降ってきた。
膝を抱えたまま顔を上げると、背の高い若い男が目の前に立っていた。
「あんた、誰だ?」
口をついて出た問いかけに、男は曖昧に微笑んだだけだった。
ごく自然に声をかけてきた男の異常さに、俺はいまさらのように気がついた。
一つに束ねた黒い髪。
黒いスーツ、やや細身の黒いネクタイ、一点の汚れもない黒い皮靴。
葬式の帰りのように何もかもが黒尽くめで、手にはこうもり傘を持っている。
右目を覆う黒い眼帯さえなければなかなかの美形だが、足音も気配も一切させずに現れるあたりは忍者か殺し屋か……。
いや、殺し屋ってことはあり得ないか。
「動き回られては困ります」
心の声に自分で突っ込みを入れた時、男が唐突に口をきいた。
心なしか、少しだけ咎めるような口調になっている。
「俺がどこへ行こうと俺の勝手だろ」
背を向けた途端、いきなり肩を掴まれた。
強引に反転させられ、長身を折り曲げるようにして、顔を覗き込んでくる。
「まさかと思ったけど、泣いていらっしゃったのですか!?」
片方しかない目を極限まで見開いた男は、互いの唇が触れそうなほどの近距離で、
素っ頓狂な声を張り上げた。
(悪いか!?)
「悪かありません。お気持ちはわかります。わかりますとも」
あわてて涙を拭いながら心の中で言い返した言葉は、なぜか相手に届いていた。
男は何度も頷き、芝居がかったしぐさで天を、いや正確には、駅のホームの屋根を仰ぎながら、長く息を吐き出した。
「十七歳でしたっけ? 私より八つもお若い。さぞかし心残りなことでしょう。でも、こればかりはどうしようも……ああ、そうだ、あなたは私の最後のお客様ですし、お話なら、いくらでもお聞きしますよ。とにかくそんなに警戒しなくても……。私って、そんなに不審人物に見えます?」
(見えるに決まってるだろ!)
「……そうですか」
心の声はまたも相手に届いていた。
「やっぱりねえ。この頃はいつもそうなんです。気をつけてはいるんですけどねえ」
悲しそうに肩を落としながら、男は足元に放り出していた傘を引き寄せた。
俺の言葉が妙な感じに心の琴線に触れてしまったようで、傘の先でホームに「の」の字を書きながら、いい訳めいたことを呟きだした。
「ジェネレーションギャップってものですかね。まあ、仕方ないか。六十年以上も経っているわけですから、人も世の中も変わるのが当然で……」
「お、おい!」
聞き捨てならない言葉を耳にして、俺は相手を遮った。
「六十年以上って、どういう意味だ? 俺より八つ年上なら二十五だろ? 六十年って何のことだ?」
「おや、お知りになりたいですか?」
片方しかない目が、どこか意味深に細められた。
「どうやら私に興味を持ってくださったようですね。でも、そう簡単に教えて差し上げるわけにはいきませんよ。この世の中はギブ・アンド・テイク。そしてあなたは私よりも年下。あなたの疑問にお答えする前に、まずはあなた自身についてお聞かせ頂かなくては」
「話すことなんて何もない」
冷ややかな俺の言葉に、相手は少し鼻白んだようだった。
「まあ、そう、おっしゃらずに。実は気になることがあるのです。この後の予定は入っていないと申し上げましたが、正確には一つだけ、ついでの仕事がありまして、それがどうやらあなたと関係が……」
「聞きたくないね!」
吐き出すように告げた途端、男の顔からすっと表情が抜け落ちた。
俺の腕から手を離し、ゆっくりと一歩後ずさる。
その背後で、止まっていた列車が動き出した。
いつの間にか増えていた乗降客が、佇立する男の身体をすり抜けていく。
「知りませんよ」
再び口を開いた時、男の口調は変わっていた。
向けられた笑みは、どこか機械めいていて、今度は俺が後ずさる番だった。
「私の名前は黒田圭吾。迷える死者の魂を導く案内人です。事前に知り得る情報は、氏名、死亡日時、死亡場所、死亡時の年齢のみですが、それだけわかっていれば業務遂行上の問題は特にありません。柳瀬裕也さん、あなたは十五日前にこの場所で亡くなりました。そして、そのことはあなた自身もご存知のはずです。でも、これから起こる悲劇についてはどうでしょう?」
よどみなく話し続ける男の一つしかない目は、もう笑ってはいなかった。
瞬き一つすることなく、じっとこちらの反応を伺っている。
迷える死者の魂を導くだなんて荒唐無稽だ。
たが、荒唐無稽なことが実際に起こり得るということを、俺は身をもって知っている。
男がこの場所に姿を現した時、いるはずの俺はいなかった。
探しに行くことも考えたという。
だが、実際にとった行動は、「ついで仕事」の方の事前チェックだった。
「別件で向かった先で、はからずもあなたを見つけました。あの墓地には、あなたのお墓があったのですね。お墓の前に佇んでいた吉田比奈さんは、あなたのお知り合いなのでしょう?」
(どうして吉田の名前を知っている!?)
「さあ、どうしてだと思います?」
ことごとく俺の心を読んでしまう。
寒くもないのに、ぞっとするような悪寒が這い上がってきた。