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14.狂気

闇の向こうで鳥の声がする。

風が吹くたびにざわめく木々のシルエットが、じっと目を凝らした視界の中でゆらゆらと揺れている。

森の中の別荘地と言えば聞こえは良いが、シーズンオフのこの時期、点在する建物の陰から漏れる明かりは皆無だった。


あの後、車が高速を降りて山の中に分け入ったのは、胸をかきむしりたいほどの誤算だった。

ずっと高速を走り続けていれば、今頃、吉田は帰宅できていたかも知れないのに。


麻賀はご丁寧にも、吉田のカバンを教室から回収してきていたが、カバンの中から響いていた携帯電話のバイブレーションが、別荘地に入ったあたりでピタリとやんだ。

電波が届かなくなったのだ。


助手席の吉田はこんこんと眠り続けている。

家族はさぞかし心配しているだろう。

警察も動き出しているはずだ。


「ここは私の父が所有する別荘でね……」

返事がないのを承知の上で、男は少女に語りかける。

その言葉は嘘ではないようで、麻賀がポケットの上着から取り出した鍵で、入口のドアはわけもなく開いた。


町なかとは明らかに違う圧倒的な闇の中、小さな懐中電灯を手にした男は、少女を肩に担いだまま、ドアの中へと身を滑らせた。

ほのかに漂う木の香り。


壁のスイッチを操作すると、吹き抜けの天井から吊り下げられた照明器具に明かりともる。

立派な暖炉を横目に見ながら奥へ進むとドアがあり、ドアを開けると寝室だった。


「愛しているよ」

制服姿の少女は、真っ白いシーツが敷かれたキングサイズのベッドに横たえられた。


俺はぞっとして身震いした。

映画やテレビドラマでおなじみの、甘さを含んだ告白を耳にして、これほどの恐怖を味わったのは始めてだ。


男の手が制服のリボンをシュッと音をたてて引き抜いた。

これから何が始まるのかは、想像するまでもなく明らかだ。

こいつは狂っている。

自分の教え子をさらい、山の中の別荘に連れ込んだ上、犯そうとしている。


「吉田から離れろ! エロ教師!」

怒りに震える声が、ベッドのきしみ音に重なった。

少女にのしかかっていた男が、背後からかけられた声に振り返り、張り裂けんばかりに目を見開いた。


「ゆ、許してくれ、許してくれ! だが、わ、私は、彼女のために……」

意味不明のことをわめき散らしながら、麻賀はベッドから転げ落ちた。

恐怖に引きつった面持ちで、じりじりと後ずさりする姿はまさしくホラー映画のワンシーンだ。


(かつての教え子の幽霊がそんなに怖いのか)

期待した通りの、いや、それ以上の相手の怯えっぷりに、俺は唇の端を持ち上げた。


それは、多分、ひどく自虐的な笑みになったはずだ。

その笑みさえも受け止めかねて、元教師は小さな悲鳴をあげ、壁に背中をこすり付けた。


「とり殺されたくなければ、そこから動くなよ」

冷めた思いで、男の足元を指差し、吉田の方に向き直った。

スカーフは外され、衣服は少し乱れているが、心理的なダメージを受けるほどではなさそうだ。


「吉田、起きろ、目を覚ませ」

耳元で呼びかけると、かすかに身をよじらせた。

二度ほど名前を連呼した所で、ようやくうっすらと目を開けたが、焦点は全く合っていない。


「こいつに何を飲ませた?」

「た、ただの睡眠薬だ」


壁まで追い詰められ、全身に恐怖をまとった男の震える声に、ベッドのきしみ音が重なった。

すばやく振り返った俺は、思わず胸を撫で下ろした。

緩慢な動作で上半身を起こした吉田が、不思議そうな眼差しをこちらに向けている。


「オハヨ……じゃなくて、オソヨーだ」

下らないジョークを飛ばすと、吉田はとがめるように眉をひそめた。


「私、ずっと、眠っていたの? ねえ、ここは……」

「説明は後。それより、時間が知りたいんだけど」


「時間?」と小さく呟いて、ぐるりと周囲を見回した吉田は、ベッドのそばに落ちていた自分のカバンを拾い上げ、携帯電話を取り出した。


「十時……二十分」

一瞬、絶句した後、「そうか」と応えた途端、握り締めた傘の柄がずんと重くなる。

まだ、危険が去ったわけでは、なかったのだ。


「麻賀、別荘の鍵を出せ」

俺は傲然と言い放ち、目の前の男をにらみつけた。


男がポケットから取り出したそれを、今度は宙に放れと指示を出す。

カチャリという金属音とともに、二種類の鍵がついたキーホルダーが床に転がった。

一つはガレージの鍵だろう。

そしてもう一つは……。


「吉田、その鍵を持ってここから出ろ。外から鍵をかけて、じっとしてるんだ」

「ねえ、どういうことなの? ここはどこ? 何が起こったの?」


吉田はすぐには動かなかった。

カバンを両腕で抱えるようにして、ドアの所に立っている。


浮かんだ疑問を解決するまで、テコでも動かないつもりに違いない。

内心の苛立ちを、ため息一つで抑え込み、俺は仕方なく口を開いた。


「ここは麻賀の別荘だ。お前は睡眠薬入りの紅茶で眠らされて、麻賀の車でここまで運ばれた。この近所には人は住んでいない。携帯もつながらない。これでわかっただろう? とにかくここから早く出ろ!」


別荘の名義が麻賀の父親になっているのなら、警察がこの場所を割り出すのは、そう難しいことではないはずだ。

(午後十時三十二分さえ無事に乗り切れば……)

切羽詰った形相の俺を見て、吉田は鍵を拾い上げ、ドアに向かって駆け出した。


寝室のドアは内側からわけもなく開いた。

振り返った視線の先で、紺色のスカートが翻る。


驚くほどの敏捷さで、麻賀が動いたのはその時だった。


「行くな、行かないでくれ! 愛している! 愛してる! 全ては君のためだったんだ! 君があんなやつに惑わされて、私を受け入れようとしないから……」


自己中心的なセリフを当たり前のように口にする男なんか無視して、さっさとここから逃げるべきじゃないのか?

それなのに、吉田はこの上なく醜悪な愛の告白を、身じろぎもせずに聞いていた。


「先生が柳瀬君を殺したんですか?」

そして自分が口を開く番になった途端、一気に論点を飛躍させた。


こちらに背を向けたままなので、どんな顔をしているのかはわからない。

だが、これほど冷徹な吉田の声を、俺は聞いたことがない。


ホームで俺を突き飛ばしたのは麻賀雄介ではないか。

俺だって、うすうすそう感じていた。

だが、口にすべき時は、今じゃないだろう?


「吉田、下らないこと言ってないで、外へ出ろ!」

「下らないことじゃない」


細い指の間をすり抜けて、床に落下した鍵の行方には目もくれず、吉田は逃げることを放棄して、静かに麻賀を顧みた。

視線で人が殺せるなら、麻賀はこの瞬間に息の根を止められたに違いない。


「質問に答えて下さい」

もっとも最悪な方向に、事態が展開しつつある。

沸騰しかかった頭でそう悟った時、男が狂ったように笑い出した。


「アハハハハ、アハハハ、ハハ……何を今さら! そんなの、わかりきったことじゃないか! 君にだって見えるだろう? あれが何よりの答えだ!」


極限まで追い詰められて、頭のネジがぶちきれたのか。

それとも、もともとおかしいのか。

哄笑をはじかせながら、まっすぐこちらを指差す男を、俺は無言でにらみつけた。


「なあ、柳瀬、そうだろう? 私を道連れにするために来たんだろう? だが、吉田は渡さない。彼女は永遠に私のものだ」


出口に向かって伸ばされた吉田の腕を、麻賀はすばやくつかんでひねり上げた。

苦痛に満ちた叫びが少女の口からほとばしる。

その手を離れ、床に叩きつけられたカバンの中から、果物ナイフが転がり出たのに気がついて、俺は目の前が真っ暗になった。


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