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12.危険な男

開け放った窓から一陣の風が吹き込んで、白いカーテンを翻した。

机に飾られた白菊が真っ白な花弁を床に散らし、後方の壁に貼られた掲示物がさざなみのように次々とまくれ上がっていく。


音楽室から漏れ聞こえていた不器用な演奏は、いつの間にか消えていた。

その変わりに聞こえてきたのは、ないはずの心臓が打つ胸の鼓動。

ドアを開けて入ってきたのは、麻賀雄介だった。


「眠っていたのかい?」

麻賀は少女の前に膝をつき、恋人に語りかけるように囁いた。

男の節ばった指が少女の頬に触れ、ためらうことなくその身体を抱き上げる。

引力に逆らうことを知らぬ少女の髪が、窓からの光を反射して金色に輝いた。


静かな色彩に彩られた光景は白昼夢のようだ。

体育の授業はどうしたのだろう?

膨れ上がる疑問と不安に耐え切れず、俺はこうもり傘を握り締めた。


「麻賀先生、どうなさったんですか?」

唐突にかけられた声に、廊下を歩いていた麻賀はごく自然に振り返る。

中年の国語教師に軽く会釈して、腕の中の少女を心配そうな面持ちで見下ろした。


「体育の授業を見学していた生徒が倒れてしまいまして……」

「あら、二年二組の吉田さんじゃない! ずっと学校を休んでいるって聞いていたけど……」

「クラスメイトが亡くなったことが、よほど、ショックだったみたいですね」


廊下を並んで歩きながら、国語教師は深く頷いた。

「ああ、柳瀬君ね。本当にきれいな子だったわよね。憧れていた子は多かったみたいで、私が担任しているクラスでも、大変だったのよ。あ、そう言えば、体育の授業は……」

「この子を保健室に運んだらすぐに戻ります。保険委員に任せても良かったのですが、私の方が、体力がありますから」

「先生は人気がおありだから、そんな光景を見たら、女生徒たちが大騒ぎだわ」


教師たちのやりとりを、俺は複雑な思いで聞いていた。

授業をさぼって教室で居眠りしていた生徒をかばうためなのか、それとも他の理由があるのか、麻賀の嘘は鮮やかだった。


麻賀は吉田を保健室まで運び、そのままグラウンドに向かったが、日がすっかり傾いた頃、私服に着替えて戻ってきた。

吉田はずっと眠ったままで、ようやく目を覚ました頃には午後7時を回っていた。


「麻賀先生」

「目が覚めた?」

保健室のベッドで目を覚ました吉田は、はじかれたように上半身を起こしたが、男性教師に動きを阻まれ、そのままベッドに押し戻された。


「山瀬先生は?」

「もう遅いので帰って頂いたよ。目が覚めたら私が自宅まで送ることになっている」

養護教員がいないことを知り、吉田の顔が明らかにこわばった。


「一人で帰れます」

「それは困る。具合の悪い生徒を一人で帰らせたりしたら、後で叱られそうだ」

「具合なんか悪くありません」

きっぱりと告げられて、麻賀は困ったように苦笑した。


「そこまで言われては、どうしようもないな。じゃあ、君の家に連絡して、車で迎えに来てもらうということで、折り合いをつけようか」

「あ、私、自分で……」

麻賀がジャケットの胸ポケットから携帯電話を取り出したのを見て、吉田は声を張り上げたが、自分の携帯がここにないことに気がついて、続く言葉を飲み込んだ。


教師が生徒の自宅の電話番号を、いちいち自分の携帯電話に登録しているというのは、おかしくないだろうか。

そんなことをぼんやりと考えながら、俺は吉田のそばに立っていた。

そんなことなど知らぬ男は、携帯電話に語りかけながら、手際良く事を運んでいく。


「山瀬先生は紅茶フリークでね」

電話を終えた麻賀は、保健室の隅においてある棚からブルーの缶を取り出すと、慣れた手つきで紅茶を煎れ始めた。


「これを飲み終える頃には、多分、迎えが到着するよ」

さあどうぞ、と差し出されたカップから、ふわりと良い香りが漂った。

その香りに誘われたように、いくぶん表情を和らげた吉田は、小さな声で礼を言い、両手でカップを受け取った。


俺はじりじりしながら迎えが来るのを待っていた。

時計の針は午後七時半をさしている。

つまりは、後、三時間しかない。


時計に向かって盛大に舌打ちした時、奇妙な破砕音が足元ではじけた。

はっとして見下ろした視界の中、リノリウムの床に四散した陶器の破片を、男物の靴がゆっくりと踏みしめる。


「君は本当に残酷だ」

地を這うような声だった。

教師の仮面をかなぐり捨てた麻賀雄介は、崩れるように前のめりになった少女の肩をわしづかみにした。


「なぜ、私を見てくれないんだ? こんなにも君を愛しているのに」

責めるような、すがるような囁きは、女生徒に人気のある爽やかな体育教師のものとは思えない。


「吉田にさわるな!」

まっすぐな髪に指をからませ、すくい取った一筋に口づける男を殴りつけてやるつもりが、アッパーカートは空しく空を切っただけだった。


(冷静になれ)

辛うじて残っていた理性が、内側から語りかけてきた。


(こうもり傘があるじゃないか。傘を差せば姿は見える。声も聞こえる)

確かに姿は見える。

声も聞こえる。

でも、それだけだ!


(それでも吉田を助けたいんだろう? もはや疑いようもない。今日の午後十時三十二分に吉田を殺すのはこの男だ)

心の声に促され、俺はよろよろと立ち上がった。


麻賀は少女を抱きかかえ、長い廊下を歩いていく。

下校時間はとっくに過ぎているが、教師の中には残っている者がいるはずだ。

願いも空しく、麻賀は誰にも見咎められぬまま駐車場にたどり着き、銀色のボルボに乗り込んだ。


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