11.教室で
「吉田さん、大丈夫?」
「比奈ちゃん、大丈夫」
「吉田、大丈夫なのか?」
すれ違うたびに、誰もが次々と同じ言葉を口にする。
吉田が学校を休み続けていたということは、どうやら学校中に知れ渡っているらしい。
「心配かけてごめんね」
大丈夫とも、大丈夫じゃないとも言わずに力なく微笑む顔は、昨日より、一昨日より、さらにやつれて見える。
俺はとぼとぼと吉田の後をついて行きながら、数え切れないほどのため息をついた。
ベランダにいるなんて言ったのは失言だった。
吉田は眠ることなど忘れてしまったように、いつまでもベランダを見つめていた。
そんな彼女から離れることができず、一晩中、俺は机に座り込んでいた。
本当に辛くて長い夜だった。
何度も何度も傘を差そうとしては思いとどまった。
「忘れることは、人が生きていく上でとても大切なことなんだ」
そんな言葉がその度に脳裏をよぎったからだ。
いつ、どこで、耳にしたんだっけ?
ああ、そうだ。
俺が家を出る直前に、母親の若い愛人が口にした言葉だ。
「全ての悲しみを鮮明に記憶したままでは、人は誰も生きていけないからね。精神分析で言うところの防衛機制ってやつさ」
国立大学を出たくせに、社会に出た途端にドロップアウトした彼は、時折さらりとそんな難しい言葉を口にした。
「人はみんな死ぬんだよ。今から百年後、ここにいる人間は誰もいない。僕はね、生きるってことは、死ぬまでの暇つぶしだと思うんだ」
そんなものかとも思うけど、たとえ暇つぶしだろうと、もっと生きていたかった。
それは吉田だって同じはずだ。
「おはよう、比奈!」
また誰かが吉田に声をかけてきて、俺ははっと我に返った。
考えてみれば、感傷的になっている場合ではなかった。
今日の午後十時三十二分に、吉田に何が起こるのか。
考えられることと言えば、事故か犯罪に巻き込まれることぐらいだが、家の中にいれば、ある程度は安全だ。
吉田家の家人が娘を殺そうとするとは思えないし、あの屋敷のセキュリティを考えれば、強盗が押し入る可能性も低い。
吉田が席についたのを確認し、窓の外を見た。
生徒が一人いなくなった所で、この場所は何も変わらない。
予鈴が鳴ると同時に、外にいた生徒たちが校舎に向かって一斉に駆け出した。
その向こうには、入学式の日に俺が乗り越えた越えたコンクリートの塀が広がっている。
「あの塀を越えることは、もうないんだな」
石ころでも蹴りたい気分だが、それすらできない。
自嘲の笑みとともに自分の席を流し見た。
机の上に白い花が飾られている。
自分のことは、もうどうでもいいけど、実は一つだけ気になることあった。
ホームで誰かに背中を突き飛ばされたのは間違いない。
つまりは殺人事件なのに、ただの事故死として処理されている。
夜だったけど、ホームにはかなりの人がいたはずだ。
目撃者はいなかったのだろうか?
それよりも何よりも、俺は誰にどういう理由で殺されたのか?
(図書館に新聞の閲覧コーナーがあったっけ)
新聞記事をチェックしてみるつもりで廊下に出た俺の身体を、クラスメイトがすり抜けた。
「おはようございます!」
弾んだ声に振り返ると麻賀雄介が立っていた。
しなやかな長身に黒いジャージをまとった若い体育教師は、女生徒に向かって爽やかに微笑み、吉田の名を口にした。
「ちゃんと来ていますよ。呼んできましょうか?」
「いや、来ているなら、いいんだ」
軽く手を振った麻賀は、教室の前をそのまま通過して、廊下をまっすぐ進んでいく。
俺は何だかぞっとして、急いで教室に駆け戻った。
時間は緩慢にそれでいて確実に流れていく。
その日の最後の授業は体育だった。
吉田は当然のように授業を休み、保健室で休んでいると嘘をついて、そのまま教室に留まった。
「……柳瀬君」
誰もいない教室で、そっと名を呼ばれたが、俺は無視を決め込んだ。
「柳瀬君!」
「…………」
「五秒以内に現れてくれないと自殺するわよ!」
「は?」と聞き返す間もない。
仁王立ちしたまま、天井に向けて声を張り上げた少女は、カバンの中から果物ナイフを取り出して、自分の首筋に突きつけた。
五秒のカウントダウンが始まり、仰天した俺の手から閉じたままの傘が滑り落ちた。
「ば、馬鹿、や、やめろ!」
信じられない展開に、俺は瞬速で傘を拾い上げ、それをすばやく差しながら、負けないぐらいの大声を張り上げた。
教室中に死んだはずの人間の声が響き渡ったが、駆けつけてくる者は幸いにしていなかった。
体育は2クラス合同だから、隣のクラスは空っぽだ。
「一組は……」
「科学の授業で教室移動」
廊下から身を乗り出すようにして、反対隣の教室を気にする俺に、吉田は不敵に笑ってみせた。
「ようやく姿を現したわね」
「何だ、そのセリフ? 悪役を追い詰めた正義の味方じゃあるまいし……」
「だって、そばにいてくれるって言ったのに」
「だから、そばにいるじゃないか!」
信じられない思いで言い返すと、少女は俺の目を覗き込み、空いている方の手で傘を指差した。
「それ、ずっと差しているわけにはいかないの?」
「死んだ生徒が教室で傘を差していたら怖いだろ?」
「だったら、二人だけでいる時ぐらい……」
軽く振り上げられた手には今もナイフが握られている。
俺は悲鳴をあげそうになった。
「わかった、わかったから、ナイフをしまえ! さてはお前、確信犯だな。初めから俺を脅すつもりで、そんなものを持って来たんだろ!」
「ごめんなさい」と謝る声が、心なしか嬉しそうだ。
全身冷や汗をかきながら、ただただ相手を凝視した。
生きてる時も、死んでからも、俺はこいつに振り回されっぱなしだ。
「ずっと気になっていたんだけど、それ、魔法の傘?」
「魔法」という言葉のあどけなさに、俺は思わず噴き出した。
「笑っていないで、教えてよ!」
「教えてと言われても」
教室の壁に背を預けて座り込み、ひそひそ話をしている俺たちは、はたから見るとかなり怪しい。
誰かに見つかったらどうしようと俺は気が気でなかったが、吉田はなぜか平然としている。
「黒田ってやつが貸してくれたんだ。だから俺にはこの傘のことは何もわからない」
素直にそう答えると、今度は黒田について聞きたがった。
まっすぐな瞳は単なる好奇心ではなく、何かを求める必死さを宿していて、胸苦しさを覚えずにはいられない。
「黒田……黒田圭吾。年は二十五。黒いスーツを着た長身の男前で、自称、迷える魂の案内人。俺は黒田にとって千人目にあたる最後のお客だそうだ。そう言えば、千人目に到達するまでに、六十年以上かかったようなことを言っていた」
魂の道案内……荒唐無稽とはまさにことことだ。
だが、そんなわけのわからぬ話を、吉田は真剣な顔で聞いていた。
「六十年で千人。一年間で十七人弱。一ヶ月に一人か二人……」
「正確には六十五年だ」
ぶつぶつ独り言を言っている所に茶々を入れると、厳しい顔でにらまれた。
「死んでからも仕事があったりするのかしら? 最後のお客ってことは退職ってこと? そう言えば、六十五年定年の会社も最近は増えてきて……」
死んでからも仕事?
六十五歳定年?
その発想はどこからくるんだ?
「まあ、聞いとくよ。わかったら教えてやるから」
本気で言ったわけではなかったが、吉田は素直に呟いて、小さなあくびを一つした。
「どうしたのかしら? ものすごく眠いの。頭に蜘蛛の巣がはったみたい」
「そりゃあ、何日も寝てないからだろ? お前、目にクマできてるし」
「クマ? 本当に? でも、さっきまでは全然眠くなかったのよ。柳瀬君の姿を見てほっとしたからかしら? いやだな。もっと話していたいのに……」
呟く声がだんだんと小さくなり、吸い込まれるようにまぶたが閉じていく。
「お、おい! こんな所で寝るのはまずくないか?」
うっすらと目を開けた吉田は、極上の微笑を浮かべてみせた。
「目が覚めるまで、絶対にいなくなったりしないでね」
すごく甘えた口調でそれだけ言って、壁にもたれたまま動かなくなった。
まるで、電池切れのロボットみたいだ。
頬にかかる髪をはらってやりたくて、無意識に伸ばした指先を握りこんだ。
気が付くと日は少し斜めに傾いて、窓から差し込んだ陽の光が、主のいない机や椅子を黄色っぽいフィルターで包んでいた。
音楽室からかすかに流れてくる下手くそな吹奏楽が、ひどく慕わしいものに思えてくる。
俺は静かに傘を閉じ、寝息すらたてずに眠り続ける少女を見下ろした。
長いまつげが影を落とした寝顔は眠り姫のようだった。
「平和そのものの寝顔だな」
くすりと笑った途端に不安になった。
王子様のキスどころか、寄りかかる肩さえ持たぬ自分に、吉田を守ることができるのだろうか?
ふと見れば、教室の時計は午後二時半を指していた。
「あと……8時間……」
呟く声は誰にも届かない。
今日、何度目かのため息をついた時、教室のドアが音もなく開いた。