10.絶望という名の闇
「今日が終わってしまう」
吉田は不安げに呟きながら、電気を消し、カーテンを開いた。
窓に切り取られた黒く四角い空には、極端に明るい星だけが辛うじてパラパラと散らばっている。
和紙をちぎってけばだてたような雲の隙間から、昨日より心持ち痩せた月が見えたり隠れたりを繰り返していて、明日の天気がどうなるのか見当もつかない。
「麻賀はお前のことが好きなんだな」
ベッドに腰掛けた吉田の頭が少しだけ動いた。
それはうなずいているようでもあり、うなだれているようにも見えた。
あの日から吉田がずっと学校を休んでいたことを、俺は麻賀の言動で知った。
ほぼ毎日、制服姿でホームに現れていたくせに、家と駅と墓地とを行き来していただけだなんて、優等生にあるまじき行為だ。
体育教師も同じことを思ったようだ。
「気持ちはわかるが、いつまでも落ち込んでいてはいけないよ。柳瀬の分もしっかり生きていかなくてはね」
そんな意味のことを幾度となく口にしていた。
吉田の隣りに座っていた母親はその度に気遣わしげな視線を娘に送っていたが、吉田は一度として首を縦に振らなかった。
純和風の外観を持つ屋敷の中には、吉田の部屋を含めていくつか洋間がある。
豪華なシャンデリアが吊るされた応接室もその一つだ。
精緻な唐草模様の壁に背を預け、高級な紅茶の香りを嗅ぎながら、俺は麻賀の顔を見つめていた。
男らしい精悍な横顔は、ひきしまった身体や礼儀正しい物腰とあいまって、いかにもな好青年ぶりだ。
だが、その視線が吉田に投げかけられるたびに、漆黒の瞳の奥でかすかに明滅する色は、かつて学校の屋上でかいま見た狂気と執着とを思い起こさせた。
「通り道でもありますし、明日は車で迎えに来ましょう」という提案に、吉田の母親は手放しで同意したが、吉田は首を横に振った。
「一人で行けるわ」
「今日も昨日もそう言って家を出たじゃない。無理強いはしたくないけど、もう半月でしょ? お父様は視察旅行で今週末までお戻りにならないし、あなたのことが心配なの」
母親の心底心配そうな顔を見て吉田は言いかけた言葉を飲み込み、少し気まずい沈黙の後、不承不承頷いた。
自室に戻った吉田は憂鬱そうだった。
「麻賀先生は優しいけど……」
呟く声が沈んでいる。
こうもり傘を差し、学習机に座りなおした俺は、続く言葉をうながすために、軽く身を乗り出した。
「優しいけど、何?」
「何となく怖い」
「怖い?」
鸚鵡返しに聞き返すと、机に頬杖をついたまま上目遣いに俺を見て、こくりと頷いた。
「でも、特別なことがあったわけじゃないのよ。好かれているのかなとは思うけど、別に告白されたわけじゃないし……」
「教師が教え子に告白なんかしたら、まずいだろ? で、どうして怖いわけ?」
「うーん、どうしてと言われても」
吉田は両方の指を組み合わせ、記憶をさぐるように視線をさまよわせた。
体育の授業中に視線を感じて振り向くと、いつも目が合ってしまう。
重い荷物を運んでいると、背後からすっと取り上げ、運んでくれる。
塾の帰りに街中でたびたび出会ってしまう。
「何だか監視されている感じ?」
「よく言う。自分だって俺を監視していたくせに」
「ひどいわ」
傘の柄をクルリと回して言うと、吉田は耳まで赤くなり、すねたように唇を尖らせた。
他の者には決して見せない子供っぽさを見せられて、胸が切なくなる。
俺にとっても、吉田は出会った当初から、やはり特別な存在だった。
抜群のプロポーション。
輝くような白い肌。
薄紅色に彩られたつややかな唇。
華やかな美貌を持つ正統派の美少女は、優秀な頭脳と育ちの良さもあいまって、ほとんどの男たちにとって高値の花だ。
彼女を目で追っている男なんて、珍しくもない。
麻賀もその一人だろう。
だが、明日の夜を無事に乗り切るまでは、用心するに超したことはない。
「麻賀が迎えに来る前に家を出て、授業が終わったらまっすぐ帰る。その後は一歩も家から出ないってのは、どう?」
「柳瀬君は? 一緒にいてくれるんでしょう?」
吉田は椅子に腰掛けたまま、伸び上がるようにして視線を合わせてきた。
「明後日の朝まではそのつもり」
「その後は?」
「その質問には答えられない。そんなことよりさっさと寝ろ。俺は……えっと、ベランダででも……」
夜を明かすと言おうとした途端、「だめよ!」と思い切り却下され、危うく机からずり落ちそうになった。
「ひょっとして、一緒に寝て欲しいの?」
冗談っぽく告げると、吉田は小さく頷いて、まっすぐな瞳を向けてきた。
「どうしても諦めたくないの。会いたいって願い続けていたら、本当に会えたんだもの。思いが強ければ、ずっと一緒にいられるって、信じていたいの。ねえ、他の誰でもなく、私のそばにいてくれるんだから、私、うぬぼれてもいいのよね?」
「俺は……」
肉体がないわけだから、睡眠も不要だし、食欲も、性欲も皆無だ。
それでも、吉田に触れたいと思った。
これ以上、向き合っていれば、とんでもないことを言ってしまいそうで、咄嗟に傘を閉じていた。
「うぬぼれてもいいよ。俺はお前が大切なんだ。たとえもう会えなくても、それもお前を守りたいんだ」
かすれた言葉は夜にとけ、茫然と佇む少女の瞳が絶望という名の闇を映し出す。
自分のために流される涙はもう見たくない。
俺は逃げるように背を向けた。