9.究極のスライトキス
あわただしく階段を駆け上がっていく少女の後を、髪から落ちたしずくの跡がぽつぽつと追いかけていく。
「濡れた髪はちゃんと乾かせ」
呆れて呟いた時、廊下の突き当たりの部屋のドアが勢いよく開いた。
「柳瀬君、柳瀬君、どこ?」
開けっ放しのドアから覗くと、吉田は真剣な顔で部屋の中を動き回りながら、逃げた猫でも探すかのように、俺の名を呼んでいた。
おいおい、机の下なんか見て、何、考えてんだ?
あまりに懸命なその姿は、笑うというより、泣けてくる。
「いるよ」と返事する代わりに、急いで傘を開いた。
部屋の中で傘を差すなんて、屈辱的なほど間抜けな行為だが、そんなことを気にいていられる状況ではなさそうだ。
傘が頭上でぱっと開くと、ホノグラムのように見えないはずの姿が見え、聞こえないはずの声まで聞こえるようになる。
吉田は目を輝かせ、飛びつかんばかりに手を伸ばしてきたが、こうもり傘のご利益はここまでだった。
咄嗟に後ずさった俺を見て、少女はたちまち泣きそうな顔になった。
気まずい沈黙が二人の間に落ちて、いたたまれなくなった俺は、おどけた調子でどうでもいいことを口にした。
「噂には聞いてたけど、吉田の家って本当にすごいよな。さっきのおばさんは住み込みのお手伝いさん?」
吉田は無言のまま、恥じ入るように目を伏せた。
空気がさらに重くなる。
焦った俺は、次から次へと言葉を重ね、自ら墓穴を掘り始めた。
「生まれる時に親が選べるといいのにな。別に金持ちでなくたって構わないけど、母親はちゃんと母親で、父親も揃っていて、そうしたら子供ってのは、きっと、まともに育つんだろうな」
「私、柳瀬君は、誰よりもまともだと思う」
「…………」
きっぱりと否定されて、ようやく自分が何を口にしたのかに気が付いた。
「俺はただ、一般論を言っただけで……」
そう口にした途端、羞恥のあまりめまいがした。
学校一の才女の前でこんな風に取り繕った所で無駄なことだ。
一瞬で余裕をなくした俺は、腰かけていた机から飛び降りた。
自分に母親しかいないことも、その母親が息子の存在など気にもとめていないことも、家を出て自活していることも、生活費に困って女の家に入り浸っていた時期があることも、同じ学校の生徒たちには、ずっとひた隠しにしてきた。
親からネグレクトされた可愛そうな子供のレッテルを貼られるよりは、素行の悪い生徒でいる方が百倍ましだ。
そしてその思いは、吉田比奈を意識し始めてから、ますます強くなった。
皆の羨望と憧れを一身に集める美少女が、自分に興味を持ってくれていることが嬉しくないわけがない。
その興味が好意へと変化して、それにつれ、無彩色だった世界が次第に美しく彩られ、自分を取り巻く世界そのものが生まれ変わっていくようだった。
けれども全てを知った時、その好意がどんな風に変化するかを考えると恐ろしくて、ずっと背を向けてきた。
ああ、現実は残酷だ。
覚悟を決めたように、吉田が小さく息を吸い吸い込んだ。
「本当は知っていたの。休んだ分の授業のノートを渡そうと思って、先生に住所を教えて頂いたの。柳瀬君は木造の小さなアパートに一人で住んでいた。びっくりして、その理由がどうしても知りたくて、いけないとは思ったけど……」
たまらなくなって、俺は乾いた笑い声を漏らした。
「興信所に頼んで調べてもらったとか?」
「ごめんなさい」
謝罪の言葉を口にしただけで、否定も肯定もしないまま、少女は深々と頭を下げた。
そうか、何もかもお見通しだったのか。
金持ちはやることが大胆だ。
笑い続けることが難しくなってきて、俺は唇をかみしめた。
「知っていて、知らないふりをしていたの」
濡れた髪の間から覗くうなじが雪のように白い。
俯いたまま小声でしゃべるものだから、声がずいぶんとくぐもっている。
「本当は言いたかったの。私は柳瀬君のことを知っている。いつも何となく寂しそうで、不良ぶっているくせに曲がったことが嫌いで、プライドが高くて、あまのじゃくで、本当はすごく優しくて……。知っているからこそ、好きなんだって言いたかったけど、自分が好きな人が、自分を好きでいてくれる可能性なんて、ごくわずかじゃない? 怖くて言えなかったのよ。でも、こんなことになるのなら、さっさとふられてしまえば良かった。そしたらあの夜、私を家まで送ることも、命を落すこともなかったはずなのに」
俯いたまま両手で顔を覆い、堤防が一気に決壊するような勢いで、吉田はわっと泣き始めた。
その姿を半ば茫然と見下ろしながら、俺は口元に手をやった。
可能性?
可能性だって?
告白してくる男を片っ端からふりながら、こいつはそんなことを考えていたのか!?
そう言えば、風紀委員に立候補したのも、俺との接点が欲しかったからだって、言ってたっけ。
そんな下らぬ理由で……風紀委員に?
ついに我慢の限界がきて、俺はぶはっと噴き出した。
怒りも、絶望も、屈辱も、吉田の涙に押し流されて跡形もない。
「お前、おもしろすぎ!」
げらげら笑っているうちに、吉田の涙が伝染してしまった。
「勉強だって、何だってできるくせに、どうしてそんなに不器用なんだ!?」
おかしくてたまらない。
本当に、俺たちは何て不器用だったんだ!
「もういいよ、ストーカー行為は思い切り笑わせてくれたことに免じて許してやる」
止まらぬ涙を拭いながら笑いかけると、吉田は恨めしそうにこちらをすくい見た。
「どうしてそうなるの? 私、たった今、告白したつもりなんだけど、柳瀬君は私のこと、どう思っているの?」
可能性がどうとか言っていたくせに……。
傘の柄をくるりと回して、苦笑した。
俺が好きだと言ったら、一体、どうするつもりなんだろう?
「そんなこと確認したって意味ないだろ? 生きている者にとって大切なのは、過去よりも現在と未来だ」
「過去じゃないわ。私にとっては現在よ!」
「現在だって?」
くすりと笑って、吉田の頬の輪郭を指先でなぞった。
もちろん触れることはできない。
すぐ近くにいるのに、世界はこんなにも隔たっている。
「吉田、キスしようか?」
質問を無視して囁いた。
まるで現実味のない提案に、驚いたように持ち上げられた顔は、よく見れば、涙でぐちゃぐちゃだ。
「こうもり傘を差した幽霊と交わす究極のスライトキス。きっと死ぬまで忘れない」
慎重に距離を測りながら、ゆっくりと顔を近づけると、吉田は無言で目を閉じた。
閉ざされたまぶたから、流れ続ける涙の意味はわからない。
スライトキスは触れるだけの軽いキス。
でも、触れることなどできないから、究極のスライトキスだ。
幸か不幸かこの上なく切ない時を、控えめなノックの音が遮断した。
「お嬢様、お客様です」
ノックに続いて聞こえてきた声に、吉田ははじかれたように立ち上がり、俺はあわてて傘を閉じた。
「私に? どなたなの?」
「麻賀先生です。お嬢様が今日も学校を休まれたので、わざわざ様子を見に来て下さったそうですよ」
その名前を聞いて少なからず驚いた。
担任でもない体育教師がなぜここへ?
「昨日も駅から送って下さいましたし、本当に良い先生ですね」
ドアの向こうから響いてくるどこか華やいだ声。
そうだった。
うちの学校の体育教師は生徒の父兄に、とりわけ母親に絶大な人気があるんだった。
「柳瀬君、お願い、一緒に来て」
懇願するような声だった。
我に返って振り返ると、吉田は深刻な面持ちできゅっと眉を寄せていた。