六球目、悪夢《ゆめ》と希望と絶望と
いい匂いがした。
香ばしくも懐かしいそれに釣られ、俺はその匂いの元へ歩いて行った。
急に視界が開けて、目の前に座敷部屋とテーブルの上に並ぶ豪華な料理が見えた。
うまそうだ。何の疑念もなく座布団の上に座り手を合わせ食事を始める。いただきます。
目に入る料理、手当たり次第に箸をつけた。
刺身、からあげ、すき焼き。一口に頬張り美味を堪能する。
気がつくと目の前の料理が消えていて、代わりに白い煙と別の香ばしい匂い、ジュージューと音を鳴らす焼き肉が目に入った。しっかり焼けている、こいつもうまそうだ。
「はい、どうぞ。」
いつの間にか浴衣姿のかわいい女の子がいた。全く覚えがないが、同じ年代の美人だ。ガラスのコップに注がれたオレンジジュースを受け取り、半分ほどの量を喉に通した。
何か満たされたものが全身を通り抜けていった。視線を彼女に戻すといつの間にか見慣れた制服に身を包んでいた。同じ高校の女子制服だ、ふいに視線が重なって慌てて目を反らす。
心臓の鼓動が大きくなる。
やっぱかわいい、すごい好みだ。目を合わせるのが恥ずかしい。それに、こう髪が…、あれ?どんな髪型してたっけ。
遠慮がちに恐る恐る、再度彼女へと視線を移す。今度顔を直視すると、人の目も憚らず悶え、醜態をさらしてしまうかもしれない。
天井からゆっくりと、ゆっくりと頭頂へと景色を移動させる。
そこにはちぢれた薄い頭髪と脂ぎった頭皮が見えた。
…?
これじゃない感が意識の中に芽生え視線を少し落とす。
……!?
そこには死んだ魚のような能面顔した、どこか見覚えのあるおっさんの顔があった。
いきなり場面が変わり、何故か布団の中で横になっていた。俺の顔を見るおっさんの表情はさっきのままだ。そうだ、こいつチェルシーだ。
ようやく意識と思考が一致し、現状を否定する。これは夢なんだ…と。
しかし、夢は覚醒した俺をまだ離したがらないようで、意識とは無関係に視線がチェルシーに固定される。布団の中から俺の父親に似た、乾物を混ぜ合わせたような加齢臭が漂ってきた。
そして、スローモーションをかけたようにチェルシーの顔が俺に迫ってくる。おいやめろ!なんの拷問だ。こいつ、目を閉じて唇を突き出してきてるぞ!
もう少しで初めてを奪われそうになった瞬間、
「うわぁああああああ!!!」
完全に覚醒した俺は、全身に不快な寝汗びっしょりで最悪な目覚めを体験したのであった。
悪夢によって目覚めた俺は、見たこともない部屋に寝かされているのに気がついた。
全体的に暗い茶色で…。そうだ、その前は真っ暗闇の空間で、見たこともないやつらがプロ野球を…。ドラフトで…。スライムのいる球団に…。
断片的に体験したことを思い起こす。…そうか…、俺は絶望と失意の余り、自棄になって暴れだしたんだっけか。
何かを叫んで、何かにすがり付いて、日本に、あの世界に帰りたいとの一心で暴れていたのを覚えている。
ジョージの胸倉を掴んで、イビタの体を強く揺す振って、名前は覚えていないけど感情に任せて、ミノタウロスの腹に何発か拳を叩きつけていたな…。
あれからどうなったんだっけ。そこから先のことは記憶にない。
ただ、現在はここに、この薄暗く汚らしい茶色の部屋に俺は寝かされていたのだ。
暴れたことに対する罪悪感を感じ、自己嫌悪に陥る。友好的に友人のように接してきた彼らに酷いことをしたのだと。
心が暗く沈む。罪悪感と孤立感、その二つが混ぜ合わされ胸の奥の温度を下げていく。冷たく、ただ冷たく…。部屋のどこからかピシッと爆ぜる音がその心を刺激し、まだこの現在に留まらせていてくれた。
俺はただ、無言で俯きその心の闇に流されていくだけだった。
どれほどの時間そうしていたのだろう。俺はその間、無為な時間を過ごしているだけだった。
だが、そんな時間も終わりを告げようとしていた。
たむたむ…、ヒビ割れた建て付けの悪い木製扉の奥から叩く音がした。
ギ、ギィィ。くたびれた蝶番が、呻き声を上げながら扉が開かれた。
その奥からは、白髪で首から下は黒ずくめの、皺枯れた老人が入ってくるとこだった。
手には細く頼りない明りを灯す、小さな燭台を持っていた。
その姿を、虚ろな目で俺はただ眺めているだけだった。
老人は部屋の隅に置かれている小さなテーブルの脇に燭台を乗せながら、
「そろそろ起きる頃だと思っていた。」
と言った。
反応はできなかった。俺にとっては老人も、明りを灯す燭台も、その言葉もただあるだけだった。
人が無意識に呼吸するように、当たり前のように存在している空気のように、今見えている光景もただあるという存在でしかなかった。
老人は俺の正面へ歩み寄り、目を見ながら問いかけた。
「わしの言葉が聞こえているかね?」
相変わらず反応できないでいた。感情や心は冷たい闇の中に、未だ流され続けている。
それでも皺の深い二つの瞳は俺の目をずっと見続けている。
じっと見つめる…。
どのくらいの時間が経っていたのだろう。もしかしたらそれほどではないのかもしれない。
しかし、心と感情に変化があった。
暗く冷たく、ただあって、何も無かったそれは、俺の周囲から砂がこぼれ落ちるかのような、角砂糖が液体に溶け込んでいくかのような感覚があった。
俺を閉じ込めていた窮屈で欝屈な何かが次第に取り除かれ、別の新しく開放的な何かが取り囲んでいく。
目の前の老人が、明りを灯す蝋燭が、薄暗い茶色の壁が、微細な色の変化を帯びて目に入ってくるのを俺は知覚していた。
「もう一度聞くよ、わしの言葉が聞こえているかね?」
「ああ、聞こえているよ。ようやくだけどね。」
改めて問われた言葉を言葉で返した。
老人はその言葉に満足したのか微笑み返してくれた。
「なぁ、じぃさん済まないんだけど、その、ここは何処なんだい?」
薄暗い部屋を見渡しながら聞く。
「此処は宿舎のお前の部屋さ。」
「宿舎っていうと、コープスの、か?」
「そうさ。お前、ドラフト空間で随分と暴れまわったみたいじゃないか。」
「否定はできないな…。」
黒い空間での出来事をまた思い出す。少々ばつの悪い思いがしたが、先ほどより沈み込むことはなかった。
それにしても、あれってドラフト空間っていうのか。
「まぁ気持は分かるさ、普通はここに来ようなんて気のきいたヤツはいないさ。」
「当たり前だろこんなとこ。」
すぐ不平を口にする俺をまぁまぁ、と宥め老人は言葉を紡いだ。
「気持は分かると言っただろう?アンデッドだらけで金もなにもない。だけどね、言うほどここは悪いところじゃないよ。とりあえず喰うには困らないしね。人間のわしが言うのだから間違いはない。」
「んー…。」
なんだか煮え切らない俺の態度に、そのうち馴染むさと老人はケタケタと嗤った。
―――談笑の途中、たどたどしく失礼しますと、声がした。
「おぅおぅ、もうそんな時間かね。」
視線を先に向けると閉じられたはずの扉の前に、見覚えのある物体。スライム(女性)のナカルの姿が見えた。あの時と同じように何やらモジモジとしている。
音もなく現れたナカルに驚き、少し後ずさりはしたが不思議と嫌悪感は沸かなかった。老人もとい、ジィさんとの会話のおかげで俺も馴染んできてしまったのだろうか。
話しながら寝台に腰かけていたジィさんが、そろそろ行くかねと腰を伸ばしながら立ち上がる。また話そうぜと二人を見送ろうとしたら、ジィさんにキョトンと不思議そうな顔をされた。
俺も不思議そうな顔をする。何か変なことしたっけ?
「ジィさん、俺変なことした?」
「いやお前、生き返るのではなかったのか?わしとしてはどちらでも構いはせんのだがね。」
「……あ、ああっ!!」
完全に忘れていた。そうだ、俺は死んでいたんだ。
あのドラフト空間でジョージが確かに亡くなったと告げていた。俺自身は、あまり実感がなかったのか他人事のように言っていた気がする。
「ジィさん、すぐ行こう!今行こう!」
どこへ行くのか分からないというのに、俺はジィさんの腕を強引に引っ張り連れ出そうとしていた。
現金なもので実感がないのに生き返るということに俺は嬉々として二人を急かした。
ジィさんはまぁ慌てるな、少し落ち着けと俺を窘めながら、
「死にたてというものは、肉体と魂が乖離していることに気がつかず物を掴んだりできるそうだが、お前は人一倍それが強いみたいだな。」
仕様がないという風に呆れていた。
俺の動きに呼応してナカルもぴょんぴょんと、飛び跳ねていた。
なんとか蘇生まで漕ぎつけたかったのですが、どうしても持っていけませんでした。orz…