1話 石剣
森の中を歩く途中、青年はふと違和感を感じ立ち止まった。
目に見える異常はないが、目の前の霧が晴れたような、あるいは白昼夢から覚めたような、今まで認識していなかった事象が急に意識に昇ることでおこる、はっとするような一瞬の硬直があったのだ。
「どしたの?ヨシノ。」
青年の隣に浮かんでいた少女が、怪訝な顔をして横を向いた。
人間離れした容姿の少女だった。年は10代前半ほどに見える。
髪は底の見えない海のような深い青。顔は細心の注意を払って彫り出した象牙細工のように整い、熟れ切った白桃の果肉のようなみずみずしさを放っている。しかし、極彩色の光が虹のように煌めく瞳は、光の反射というにはあまりにも不可思議な色合いであり、その奥にある、現世の物理法則から外れた深淵の存在を暗示していた。
服は一枚の布を頭からかぶる、いわゆる貫頭衣であるが、全体に少女の瞳と同じ色合いの、季節感を無視した様々な花の刺繍がしてあり、古風な様式が前衛的な印象を際立てている。
肌は抜けるような白さで、服と瞳の派手な色とあいまって、見る者によっては不安を抱かせる奇妙な対比を生み出していた。
事実、少女は人間ではなく、正確に言えば生物ですらない。少女にヨシノと呼ばれた青年がプレイしているVRMMO『神器物語』で装備している剣に宿る精霊、要するにAIである。
といっても、数世代前のあらかじめ用意した文章を再生するような陳腐な代物ではなく、自分で学習し、より複雑な思考をを可能にする最新型である。
端から見れば並みの人間よりも遥かに感情豊かにみえた。
「美味しそうな物見つけた?取って来る?」
「いや…何か違和感はなかったか?」
「え?周囲300m以内、敵性反応無し。…何か発見?」
少女は自分の探知能力に異常があったかと思い、目に見えて落ち込む。
「いや、お前が探知出来なかったなら俺の勘違いだろう…変なこと言って悪かったな。テスカ。」
ヨシノは慌てて慰めるが、この言葉が嘘という訳ではない。精霊テスカの探知能力は全精霊の中でも上位に位置する。
不意打ち専門の高レベル暗殺者プレイヤーかモンスターでもない限り間違いなく発見でき、その例外達に低難度の森林フィールドで会う確率は、街中で自爆テロに巻き込まれるのと同じ程度である。
交通事故に気をつけた方が建設的であり、つまりは今も別の所に目を向けるべきだ。とヨシノは考えた。
精霊の魔術やスキルによる探知は、確かに便利ではある。しかしその性能はシステムによって定められているため、遠距離や妨害下での索敵など、五感での探知が有利になる場合もままあるのだ。
ヨシノは歩くペースを維持しながら、意識を広げ、違和感の元を辿った。
森は風に合わせてざわめくばかりであり、至ってのどかであるが、描画が細かくなっている気がした。目を凝らせば空気中のホコリまで見えるのだ。
息を吸い込めば森林特有の湿気を含んだ青臭い臭いが鼻をつく。
これは本来有り得ない事である。電子的に感覚を再現するVRMMOでは、臭いの種類は決まっており、その強度を調整する事で嗅覚を再現しているのだ。
臭いが複雑に絡み合い、その濃度が連続的に変化する森の臭いを再現する事は非常に困難であり、そんな事にデータを喰わせるくらいなら、もっと別の物に力を入れた方がプレイヤーも喜ぶだろう。臭いのためにゲームをするやつはいない。
音もリアリティを増している。一定の間隔で鳥の鳴き声や葉の擦れる音を流しているのではない。遠くに川のせせらぎも聞こえるし、もうすこし近くから人が争っているような音も……人が争う音?
「テスカ」 「確認。距離600、5~6人。1人女子。あと男。」
即座に遠見の魔術を発動したテスカが現状を報告する。どうも混戦の様相を呈しているようであった。
この状況で考えられるのは、人気の無い場所に誘い込んでのPKである。
無論よろしいことではない。1対1の決闘や、高レベルプレイヤー同士のギルド戦ならばともかく、こんな過疎フィールドで数にまかせたPKなど、明らかなマナー違反である。
ただでさえ変態ばかりだのレベルと頭のおかしさが比例しているだの言われる『神器物語』のプレイヤーなのだ。その謂われのない偏見を深める輩は、断じて生かしておけない。
迷い無く誅殺である。
「ハイキングではなさそうだな。いくぞ。」
プレイヤーの身体能力ならば600m程度の距離は1分もかからず走破出来る。テスカを剣の中に待機させ、特に息切れもせずに目的地に着いたヨシノは、そこで更に違和感を感じ立ち止まった。
そこにいたのは半分は予想通り、もう半分は完全に予想を超越した状況だった。複数の薄汚い男達に囲まれた少女、それがヨシノを更に困惑させた。
男達は見るからに山賊といった身なりで、髪も髭も伸び放題。
質素というより粗雑な造りの皮鎧と、戦場跡から拾ってきたのであろう、錆びの浮いた小剣や短槍を持っており、足は擦り切れた皮靴か、酷い者は裸足だ。
人数は5人、体格、装備、身のこなしから読みとれる脅威は皆無であり、それが異様である。
いくら低レベルフィールドといえども、初心者の相手にすらならない敵を置く理由は無い。
そもそも『神器物語』は、元々子供や老人などの年齢層をターゲットにしたほのぼのファンタジーであり、現在でも年齢制限のないフィールドが過半数を占めている。
女の子を山賊が襲うといった、R15になりかねない描写はまず無い。
そういった状況になる前に注意を促すメッセージが表示されるのが普通で、リアリティの高いVRMMOでその義務を怠れば、訴えられても文句は言えない。
「おい、なに見てやがるんだ!」 「僕も混ぜて欲しいってか。」 「そのご立派な服と有り金全部置いてきゃ考えてやらんでもないぜ。ヒヒッ。」
そうこう考えている内に、隠形が解けたようで、向こうもこちらに気がついた。山賊達がこちらに向けて武器を構え、いかにもな台詞を吐く。
無論、武器を使うどころか片手でもオーバーキルであるが、先ほどから続く奇妙な違和感がヨシノを慎重にさせた。
右肩から伸びる剣の柄を握り締め、一気に引き抜いた勢いのままに構える。
それを見た、少女を含む全員が呆気にとられた。
長さは精霊テスカの身長を僅かに超えるほど、分類から言えば大剣である。
しかし、その異形ともいえる物体は、それを剣と呼ぶべきかを迷わせていた。
柄頭から刀身の一部まで、水の流れがそのまま凝固したような紋様が刻まれ、表面は鱗のような結晶に覆われていた。
そこから続く刃は、異常なほど滑らかになり、古代の銅剣のような緩やかな曲線を描いている。
刀身には血溝がなく、代わりに甲骨文字らしきものを、常人には計り知れぬ意図をもって歪めた記号が表裏合わせて100文字近く彫りつけてある。明らかにただの飾りではない、別次元に作用する法則に基づいた力を感じさせた。
しかし、この剣を異形たらしめるのは、何よりその材質である。
その剣の無機質な輝きは、金属のそれではなかった。
石である。
いわゆる石剣と呼ばれる、祭祀に用いられたと言われる器具こそが、テスカの依り代であり、ヨシノの武器であった。
腰を落とし、切っ先を正面に向け、腰だめに剣を構える姿は、剣士自身が石と化したかのごとく、微動だにしない。
ゲームの中でとはいえ、7年に及ぶ戦いの経験は、ヨシノの内から一切の隙を削り取っていた。
ここで山賊達の取るべき行動は、彼我の実力差を察して一目散に逃げることであったろう。
あるいはがむしゃらに攻撃すれば、痛烈な反撃を受け、五体満足とはいかなくなったにしても、命からがら逃げ延びることは出来たかもしれない。
意味もなく敵を殺すほど、その時のヨシノは暇ではなかった。
だが、その時山賊達が取った行動は、およそ最悪のものであった。
つまり、彼の剣を嘲笑ったのである。
「ギャハハハ!なんじゃあその石ころは!」
「親父に剣を貰えなかったもんでそこらの石を磨いたのか?器用な坊ちゃ」
ドッ、と。
大質量の物体が地表を圧壊させる音が少女の耳を打つのとほぼ同時。
石剣は山賊の内の1人の延髄を、枯れた葦のごとく断ち割っていた。