目が覚めたら
今日、死んだ主人が帰って来た。
私が日記を書くなら、先ずこう書いたでしょう。
長いようで短い時間が過ぎ、もう私の生活から主人が、彼の存在が落ち着き始めた頃に、涼しい顔でまるで長い朝の散歩から帰って来たかの様でした。
「お早う。」
「お早う…」
まるでなんでもないかのように主人の係りであるお茶の支度を終え、主人の仕草でお茶を淹れ、主人の好きだった銘柄のお茶を楽しんでいるのです。
いつもそうしていた様に主人の向かいに座り、主人の手からお茶のカップを受け取るのでした。
「今日は良く晴れるのだそうだよ、一緒に散歩にでも行かないかい?以前、君が欲しがっていたティーポットを買いにお店に行ってみようよ。」
生前していた柔らかな主人の笑顔を浮かべる彼に、懐かしさと不安と愛おしさが胸の中でないまぜと成り涙が込み上げてきました。
「僕が居ない間、何か変わったことは有るかい?なんだか長いようで短い時間留守にしていた様だよ。けれど君に変わりはない様で良かったよ」
お日様が頭上を照らすより早く、私達は連れ立っていつもの散歩道を歩きました。小さな丘の何も無い場所に私達のお家がぽつんと一つ在り、小花に飾られたお粗末な道に従い歩き、暫く斜めの地平線を、流れる白い雲とそれを横切る小鳥を観ながら会話も無く歩きました。
そう、何も無いのです。
けれど何も無いせいで私達に会話が無いのでは無くこの風景を過ぎるまで話さないのが私達夫婦の暗黙のルールでした。他愛の無いお喋りは勿論好きですが、とても静かで穏やかなのも私達は好きでした。
何も無い風景から色褪せた暖色系の町並みが溢れてきました。その儘道なりに歩き、2軒ほど過ぎた頃私が欲しがったティーポットが在るアンティークショップに着きました。
「君が欲しがっていたティーポットは未だ在るかな?在ると良いね、それで君の好きなお茶を淹れてね…そしたらさ…」
探し物は存外簡単に見つかりました。けれどお店のご主人は、生憎見当たりませんでした。馴染みのお店ということでお金と書置きだけを残し出ても良かったのですが、主人がそれは失礼だと言い今日は何も買わずお店を後にしました。
古い商店街をゆっくりと抜け、海が観える公園に来ました。
この公園は抉られた様な岸壁の上に作られ、真下には漁船を多く抱いた港が在りまして水平線にお船を浮かばせます。季節毎に花を咲かせ潮風に花弁を舞わせる様はあまりにも儚げで、海へと身投げしてしまう方が後を絶たない、上から眺める景色と下から見渡す景色の落差が著しい自殺の名所なのです。身投げされた方とご家族には申し訳無いのですがそのご遺体は岩に当たる事も流れ着く事もなく海老や蟹や、その他の大きな赤身のお魚に食べられ跡形も無くなります。お陰で私達は美味しい海産物を新鮮な内に頂けております。
いつもなら、この時間帯乳幼児を連れたご婦人や日向ぼっこを楽しむ老夫婦がいらっしゃるというのに、誰一人居ないのです。
お家を出てから、ここまで。
主人が何やら小さなお花畑に座りこんで、私を呼びました。主人の大きな背中越しに覗くと、主人は赤いお花を集めて花冠を作っていました。
生前の主人なら、あまりしなかった行動に私は驚き、思わず笑ってしまいました。けれども私は、主人の幼子の様な柔らかな笑みに口を噤むのでした。
主人は成人男性にしてはふくふくとしたほっぺをうっすらと機嫌良さげに赤くして、私の頭に花冠を載せるので私は主人の隣に座り、頭を傾けました。
「とても似合ってるよ、綺麗だね。」
「ええ、ありがとう。嬉しいわ。ところで…」
とても綺麗に微笑む主人。私の、一等大切な人。
「ところで、ねぇ、貴方は誰ですの?」
「え…?」
生前の主人は、大層穏やかな人でしたが、進んでお花を愛でたり馴染みのお店で遠慮する様な人ではありませんでした。何かおかしい、いよいよ変だ。
主人そっくりの目で、主人そっくりの顔で、主人そっくりの声で、主人そっくりの歩調で、主人そっくりの雰囲気で、私に微笑みかけるこの人。
ねぇ、一体誰なの?
主人そっくりの彼はきょとんとして後、悲しげに苦しげに顔を歪めました。嗚呼その顔は、主人が決めかねた時に良くする顔。
「君が決めて良いよぉ」
嗚呼ほらその態度、受身の主人の態度。まるで主人そっくりの雰囲気で主人そっくりの顔で主人そっくりの目で主人そっくりの声で主人そっくりの手の感触をした主人そっくりの思考に主人そっくりの記憶を持った、
「別人ね」
「そうかもしれない。」
少し、遠くを眺める彼、まるでこの先の水平線、抉られた岸壁の下に今直ぐにでも駆け落ちて行きそうで袖を握り締めてしまいました。
「僕は君の夫ではないね、確かに。僕は、
魔獣だよ。」