(1)我はここに在り。舞い上がりて自由を謳う。
男が抑圧から解放されるとき……
ってことで、行き成り鬱な生い立ち説明回から入っています。
でも、主人公のバックボーンは今回だけ。元世界ネタはもうほとんど出てこない予定です。
主人公があほやって、周りを巻き込んでいくお話になる予定。行き着く先なんて作者ですら考えていませんよ?
そんなお話でよければどぞどぞ~♪
「――……ん……んぅ?」
蒸し寄せる濃厚な緑の匂いに、目を開けてみれば目の前には巨大な丸い一枚葉。
軋む体を起こしてみれば、キィキィと鳥ともつかない啼き声が響く密林の中だった。
夏山を歩いた経験からは、森の中ではもう少し涼しくても良さそうだが、ゆったりと押し寄せる空気が生温く質量さえ感じさせるのには首を傾げた。
「……何だ、これは?」
喉から出る自分の言葉は、聞き慣れた地味地味しいいつもの声だ。だが、辺りに満ちる空気が違うのか、僅かにヘリウムでも呑んだかの様な違和感が感じられる。
ぬるりと肌を撫でる風に身を震わせてみれば、どうにも身辺が頼りない。手探りを交えて見下ろしてみれば――
「うおっ!!」
全裸の自分に気が付き、思わず倒れ臥す様に身を縮めた。
頼りなげに揺れる一物が、辺りに人影も見えないというのに、どうしようも無い羞恥を誘う。
全く、これは一体どうしたことだ?
よくよく直前の行動を思い起こしてみれば、自分は勤めている設計事務所の片隅にある丸テーブルで、打ち合わせの準備をしていた筈だった。
勤めていたのは、工場の中で自動で物品を送り届けする、マテハン機器と呼ばれる装置のメーカーだ。
しかし、急激な事業分野の成長に追いつかず、不具合を連発しての自転車操業を繰り返す、そこはそんな会社だった。
考えてもみて欲しい。本の数年前までは、運ぶ物品も精々数十キロだった物が、数年で数十トンへと姿を変えた。適当に作っても過剰な強度を持っていた装置が、綿密な強度計算を必要とする様に僅かな期間で変貌した。
従来通りの設計をしていては、不良を頻発するのも何をか況んやというものだ。
そんな会社に入社して、本来様々な部署を回って知見を深める筈の実習期間が取り止めになり、代わりに設計者にも拘わらず延々と検査員の真似事を続ける日々。部品に加わっている力を測定することが出来る歪ゲージという電子部品を、ペタペタ装置に貼り付けては測定を繰り返す毎日が繰り返された。
「こんなのは今だけだから」
そんな上司の言葉とは裏腹に、夜が白んだ頃に家路に付き、三時間程の睡眠を得てふらふらと出社する。土曜も日曜も出社しながら、タイムカード上は予算内の三十時間しか残業をしていないことになっている。そんなブラックにも真っ黒な生活が、何ヶ月も続いた。 マシな時期でも、土曜出勤は当たり前。サービス残業だけで軽く二百時間は越えて、そこには何のフォローもない。
あれからもう五年は過ぎたのに、そんな生活は一向に収まらず……最近では何もない昼日中に突然びくりと体に衝撃が奔る様になってきた。どうにも一瞬全身の神経が止まりでもしたかの様なその感覚。うとうとしているときに足を踏み外す幻を見て、体がビクンとする感じにも似たアレが、全身で一瞬だけ起こる。耳の奥で鳴る心臓の音も五月蠅い。
そんな会社に何故いつまでもしがみつくのかと言われそうだが――
『何でこんなことも出来ないんだ!』
『お前はどういう教育をしているのだ!』
――忘れ得ない記憶。自分を形作る原風景にその原因はあるに違いない。
かつて父から浴びせられた罵声は、自分ではなく母に向かっていた。
相手にもされない出来損ない。何をどうすれば良かったのかも分からない愚か者。
今から思えば、少しでも気に入らないことがあれば突然怒鳴り付ける親こそが、親としてどこかおかしかったのだと理解出来ても、幼少時から投げ掛けられていた心無い言葉は、自分自身に対する自信を、決定的に毀し尽くすのに剰るものだった。
手を振り上げられはしても母が庇ってくれた為に直接殴られた記憶は無かったが、大学時代に見つけた被虐待者の回顧録的なインターネットサイトの情報からは、自身に顕れる症状を含めてその余りの相似に情緒不安定に陥って……そこで漸く自分の状況を理解した。
年配の教授の前で自分の研究について説明しようとしても、極度の緊張により声が出ない。手が震え、まともに考えることも出来なくなる。貴重な打ち合わせの時間を逃げる様に遣り過ごすしかなかった元凶を知って、暫し自分は壊れてしまった。
話をしようとしても、言葉が組み立てられず、結果として話すことが出来ない。単語だけの遣り取りで済ませようとしても、その単語が出てこない。深層意識のレベルで、それまでの自分を無意味と断じてしまったのか、砂の様にポロポロと零れ落ちていった記憶の数々。大切な想い出も、断片的な知識としてしか思い出せなくなった。
食事をする意力も沸かず、野菜ジュース等で凌ぎながら、国語辞典を読んでさえ涙を溢してしまう日々。胸に込み上げる何かを吐き出してみれば、それは虚ろに乾いた笑いとなって、独りきりの部屋に毀れ落ちた。
そんなふわふわとした雲を踏むかの様に現実感のない時間の中で、しかしギチギチと音を立てるかの様に思考は組み替えられていく。
絶望と言う名の沼底に沈んでいても、他人に突き落とされた絶望なら、まだ自分には泳ぐ力は残っている。そういうことだったのだろう。
それまでの「死んでしまいたい」なんて口癖は、理不尽に対する反発も伴って姿を消し、自ら死ぬことを選択肢としなくなったのは成長と言って間違いでは無い。
しかし、今まで抑え付けられていた心の深奥から溢れ出したそんな気持ちも、容易く力を失って無力感に喘ぐこととなった。
子供時代に虐待を受けて育った人々が過去を乗り越える為に必要な儀式。その手の本に書かれていた大切な洗礼に、自分は失敗した。
打ちのめした元凶となる相手との、腹を割っての対話と和解。
しかし、都合の良い御託で塗り固められた御為倒しに、失望と共に自分は諦めてしまった。和解など永久に来ない。
ならば自分は空っぽだ。
自分の中には、もう何も残っていない。
……いや、少しだけ残る光る砂粒は、物語への情熱だ。それだけが残っていた。
そもそも、自分を毀したのは、暴君たる父ばかりではなかった。
母はそんな父と俗に言う共依存の関係に身を置いて、同じく子供の害になる親だったのだろう。
父の矢面に一身で立っていたことも多少は関係あるのだろうが、母は子供の全ての予定を把握しようとしておいて、その全てに否定に近い駄目出しを入れる人だった。
口癖の様に「あんたのためを思って言っているのよ!」と言いながら、唯の参考意見ではなく強固に従わせようとするのはどうしたことだろう。従わなければ激昂し、しかし普段は甘えた媚を売ることを期待する、そんな母を自分は疣蛙を見るが如く嫌っていた。
子供というのは「それでいいよ」と言ってくれるのを期待するものだ。偶にならば兎も角、常の駄目出しなんていうのは人格の否定にも近しい。愛玩動物の様に媚を売ることを期待されるのなんて、更に激しい人格の否定だ。それは、深く、静かに、心の奥底から傷付けていく。
父も母も、結局の所、理想の子供像という物が、親の言うことには疑問を憶えず唯々諾々と従って、それ以外の余計なことは考えずに、いつも笑顔で愛嬌を振り撒いている様な子供ということになりそうだが、考えるだに悍しく思えるのは気のせいだろうか。
そんな環境で育っては、(言えば否定されるから)自分の(特に大切な)思いは口に出さず、何事においても他者を交えず自分の中で結論を出す、我が道を行くと言えば聞こえがいいが、結局の所、社会不適合者となるのは当然の帰結というものだろう。
子供の頃のことをいつまでもと言うこと勿れ。歪んだ環境に適応して歪んだ基礎が作り上げられてしまっていたなら、最早その上に堅牢な城塞を築くことなど適わない。
俗にアダルトチルドレンと言われる、歪んだ幼少期を過ごしたが為にいつまでも苦しむことを強いられた人々は、確かにそこに存在しているのだから。
そんな中で慰めとなったのが、数多くの創作物であり、燦めく物語の数々だった。
同時に、自分も他の迷い子達の慰めとなりながら指針ともなるような、そんな物語を世に送り出したいというのが望みとなっていた。
弄ばれた過去は兎も角、未来は全て自分で選んで自分の糧とするのだと、そう心に決めた。
だからと言って、生きていく為には働かなくてはならず――
今の状況は、野垂れ死ぬ筈の所を拾ってくれた会社に対し、時間稼ぎとの心積もりを持っていた自分への罰だったのかも知れない。
幾ら新人がほとんど辞めていくブラックな職場に耐えて、業務には真面目に取り組んできたとは言っても、その根底には生活費を稼ぐと共に経験を積んで、裏で出版社へ持ち込んだ原稿が本になる様なら、会社を辞めて作家一筋でやっていこうという、そんな思いだったのだから。
しかし現実は執筆の時間などとても取れず、自分が削られていくばかり。
ならば嗚呼、やはりこんな会社にいつまでもしがみつかざるを得ないのは、自分がもうどうしようも無い駄目な人間に成り下がってしまったからなのだと考えてしまうのも仕方が無い。
喩え過去の呪いから解き放たれたとしても、その間に腐ってしまった性根は直ぐには元に戻らないのだから。
結局の所は、自分に自信が無いということだ。
だから、どんなにそこが真っ黒な会社でも、しがみつくしかなかったのだ。
恩があるとか、いずれ辞める予定だからとか、そんなのは言い訳であって、本質はそこに行き着いてしまうのだ。
自分がそのままでそこにいてもいいという根拠のない自信。恐らくは成育した環境が与えてくれるであろうその根拠のない自信がない自分には、自分は生きている価値もない、生きているだけで周りに迷惑を掛ける、そんな方向での、強力な「負の」根拠のない自信ばかりが未だに染み付いてしまっているのだ。
尤も、自分が人に迷惑を掛けるだけの汚物の様に感じていた自分だ。今は兎も角、昔は自分で死ぬことも出来ないことにすら情け無さを感じていた自分だから、下手に勇気があったとしてもそこに救いは無かったのかも知れないが。
今はもう、死んでしまいたいという思いは消えているから大丈夫だ。
それでもどうしようも無く死んでしまうのならば仕方が無いという諦めはいつも胸の奥に有り、楽観と失望の間を揺れ動くのがこのところの日常だった。
(だからといって、勤務時間中に眠りに落ちて、医務室行きと言うのは勘弁して欲しいものだが……)
これが結果。自分の臆病な心と諦めが齎した結末。自身を削る日常が産み落とした終着駅。
しかしそれも、言うなれば一つの機会ではないかと、過去に思いを馳せながらもぼんやりと考える。
一度目の機会は中学の頃。暗く沈んでいた小学校時代から抜け出して、羽搏けることを期待して学級委員長なんてしてみたが、父の異動に伴い家庭環境はより悪化して、飛び立とうとした鳥は毒煙の中、地へと墜ちた。
二度目の機会は既に述べた大学の頃のこと。絶望の淵から這い上がっても、失望と共にそこで足を止めていた。
しかしこれは三度目の機会。ベットするのはどうやら自分の命の様だ。
今までだって、自分の心や誇りを賭けては来ていたが、命を賭けるとなると失敗すればそこで終わる。来世や前世は在ってもいいとは思っていても、自身に限っては死ねば全てが終わると考えている。
だからここは考えどころだ。野垂れ死ぬのが分かっていても、気合いを入れて新しい道を模索する時が来たのかも知れない。
その想いが、未だ混乱していた心に冷静さを取り戻させたのだろう。
目を開けてはいても、彷徨う様に瞳は踊り、目の前にある物すら見えていなかったその状態から、次第に辺りの様子を捉え始める。
ここは森の中だ。密林と言ってもいい、熱帯の森の中だ。
つまり、昏倒した自分が、夢に囚われているということだ。
夢を見ているのなら、目を醒まさなければいけないだろう?
眠っていては、何も始めることは出来ないのだから。
苦笑混じりに再び身を起こし、そして再び僅かな違和感を感じながらも立ち上がる。
どう考えても明晰夢。それも相当に感覚が鮮明な夢だ。
土の匂い。緑の匂い。木肌の匂い。それらが渾然一体と成った森の匂い。昔は山の中を彷徨ったりということを楽しんだ口だから、そういう自然の香りを夢の中で感じることに違和感は無い。
しかし、どうにも明晰すぎる様な気がしてならない。
明晰夢なんてものは、寝過ごした昼、二度寝の現、そんな、ほとんど起きている眠りの狭間や、体だけが眠って意識の蓋をしている様な、そんな薄明の如き僅かな隙間に紛れ込んでくるものであり、見ている内にも目覚めと共に明け行くものだとの認識しかない。
ここまで鮮明に五感を刺激する頃には、既に起きていなければおかしいものなのだ。
そもそも、意識を失う脳の酷使から、明晰な夢を見れるまで快復するのに、どれだけの時間が必要だろうか。
……いや、これは医務室や病院、あるいは送り届けられた寮にでも寝かされて一日経っているということも考えられるだろうが……。
ならばむしろ、目を覚ましているときよりも明瞭な感覚をこそ言うべきだろうか。
高校の頃から悩まされ始めた乱視の歪みが欠片も無く、入ってくる視覚の情報量に眉間が痛む程であり、万年鼻炎で鈍磨した嗅覚も、見えない保護ビニールを外された様に鮮烈で目に染みる程。睡眠時間と共に削られた皮膚感覚まで甦り、肌に触れる僅かな風の動きすら痺れる位だ。
夢の中でそんな表現もどうかと思うが、目を覚まして周りを意識する程に、溢れる濃密な情報に酔いそうになる。
それで目を覚まさないということこそ信じ難い。
既に沈思黙考、深く過去へと思いを馳せた後の自分に、残る眠気は皆無である。ならば、後は目を開けるだけで目を覚ますと思うのに、どれだけ肉体側が疲れていたというのか、まるで目醒める気配が無い。
「これは一体どうしたことだ……」
再び同じ様な台詞を呟いて、何の気無しに、ほんの少し、僅かに軽く、地面を蹴ってそこから真上に飛び跳ねてみた。
飛び跳ねてみて、
「…………何だ……これは……」
少し台詞の温度が変わった。
夢の中で、それが夢かと悩んだとき、確認する為に取る一つの手段がある。
視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚……そんな五感が齎す刺激が確実ではないときに、頼りにしていた最後の一つ。
人は第六感を勘だと言うが、それより前に重要だと考えるその感覚。
重力覚、あるいは加速度覚と言ってもいいだろう、三半規管の齎すその感覚。
自分が立っているのか、横になっているのか、あるいは加速されているのかを知るその感覚。
体操選手ならば、夢の中でもその感覚を覚えるのかも知れないが、そんな感覚と馴染みの薄い自分には、夢の中で感じることなどはまず無いその力の感じ。
夢かどうかを判断するには、飛び跳ねてみるのが確実なのだ。
その感じない筈の感覚に、反応があった。
ぴょんと飛び跳ねて、落ちて、着地して、ずしりと全身に力が加わる。
感じない筈の重力を感じた。
(いやいやいやいや……)
また再び混乱に飲み込まれそうになり、意識的に胸の内で突っ込みを入れて踏み留まる。
ふと過ぎった考えを本当だとするならば、目の前に広がる光景が幻ではなく現であるということだ。
目の前にYの字に聳える黒い木は、まるで燭台の様に木の股に咲いた黄色い花から炎の舌を揺らめかせているが、それが現実だというのだろうか。
木肌を這う粘体は、粘菌や透明な蛭というより、まんまスライム。透明に膨れた体の中で、薄緑をした半透明な臓器が揺らいでいる。
そもそも、密林の中に裸でいるということがおかしい。
もう一度、飛び跳ねる。
手を大きく振り回し、ラジオ体操の様に体毎回転する。
前回りをしては勢いよく立ち上がる。
――三半規管で感じるその感覚には、欠片も違和感が感じられない。
その辺りの草を引き千切り、少し歯で噛んでみる。
その葉を指で磨り潰し、匂いを深く嗅いでみる。
手を叩き、体を撫で、耳を澄まして残る五感を確かめる。
――まるで、まるで、何の違和感もない。
腕に噛み付き、足に噛み付き、否、夢なら空を飛ぶことも不可能ではない筈だと重力方向が変化することをイメージしながら、木立を駆け上がろうとして背中から墜落したり……。
散々試してみて、結論を得た。
「うむ……わからん!」
例えば、やはりこれが夢だとした場合、気にすることは恥ずかしい寝言でもほざいていないかということ位だ。そこはもう開き直るしか手がないだろう。
山積みになっている仕事がどうとかなどは、そこは昏倒するまで働かせた会社側がどうにか考えればいいことだ。恩は感じていても、既に貸しはあっても借りはない。
しかし問題は、自分が奇想天外、奇天烈怪怪な何らかの事情に巻き込まれて、事実真実この奇妙な地球とは思えない密林の中に、実際生身で転位してしまっていた場合のことだ。
数多く読み耽った創作物には、当然の如く異なる世界に転生したり転位したりする物語は数多く存在した。しかしそれが現実起きうると真面目に考えるというのは、何処か狂っているとしか思えなくはないか?
だがしかし、だがしかし、現実目の前に広がる光景に異を唱えても仕方が無く、いやしかし、いやしかし、それを受け入れるのは剰りにも痛い人過ぎやしまいかと――。
そもそも、ここに自分が在るということは、あの会社の丸机に自分がいないということでは無いのだろうか。
突然の神隠し。目の前で消えた男。
見てみたかったものではあるが、現実に起こるとは思えない。
そう言えば、ここ最近仕事の合間に思い描いていた空想――いや、妄想は、仕事をしている最中に、突然目から血の涙を噴き出し、口から大きな黒い毛玉を吐き出すというものだった。
黒い毛玉はもそもそ動いて、黒い子猫として頭を上げる。司法解剖された自分の体には脳味噌が根刮ぎ失われていて、内側にはべっとりと猫の毛が。
そして自分は黒い子猫として生きていく、そんな妄想だ。
恐らく望んでいたのは、人としての柵を全て断ち切った、己一人で成り立つ道。全ての過去を捨て去った、再誕の儀式。
ならばならば、すわこれこそが、自分の望みの叶いたりし姿ではないか?
自分の元の体がどうなったのだとか、死んだにしては転生ではなく転位の様なのはどういうことだとか、そういった疑問は残るが、目の前にある現実は変わらない。夢なら夢で楽しんで、後で、「嗚呼、夢だったのか」と、肩を落とせば済むことだ。
再びあたりを見渡せば、炎の舌を伸ばす燭台樹が目の前に一本、少し離れてまた一本、何故か快復している視力の届く遙か彼方にまた一本。残るは色取り取りの緑、緑、緑。
鼻の奥がツンとする濃密な緑の匂いに混じる、甘い香木の様な香りは、目の前の燭台樹のものだろうか。
キィキィキャンキャンホッホホクルルと喧しい生き物たちの声が、この森の恵み深さを伝えてくる。
「そうだ! クロネコと名乗ることにしよう!」
突然思い立ち、声にする。
クロネコ……黒猫……素晴らしい!
何というも野生に還る響きだろうか!
そうだ、自分のことも、我と称することにしようではないか!
嗚呼、我はクロネコ! 未踏の地に降り立ちし我はクロネコ!
ふはははははは! 三度目の機会が白紙からの遣り直しとは思いもよらなんだ。
三十歳まであと少しというところ、切りが悪いとも思うが、ギリギリ二十代という言い方も出来ることを考えれば否もない。
会社に入って無理な生活で十キロ以上太ってしまったが、ぷより始めた体型は変わらないのに不思議なことに体が軽い。木の幹を蹴り上がってそのままバク宙でも出来そうな勢いだ。
実際に先程から何度も飛び跳ねているが、手も使って振り上げての垂直跳びで、軽く八十センチ以上飛び上がれているように思う。
神などは信じない。否、日本人として、神は野良猫の様に辺りにいてもいいと思うが、少なくとも全知全能の神などはいない。
だから、神の与える転生チートなんていうものも有り得ないと思っていたが、異世界では話が違うのかもしれないと、少し都合のいいことを考えてしまう程だ。
全裸な始まりには言いたいことも色々あるが、身一つ以外に何も持たない新たな門出と考えれば最高の始まりかも知れない。
見よ! 燭台樹の掲げる幽玄なる灯火を! 我が再誕を寿ぐ祝いの狼煙を! 祝福の篝火を!
今こそ我は、抑圧の鎖より解き放たれ、この異世界の地に降り立つべし!
「フリィイイイイダムゥウウウウウーーー!!!!」
万感の想いを込めて叫び上げた。
叫んだ瞬間、目の端を斑の紐が横切った。
カプリと首筋に焼け付く痛み。
一瞬遅れて注ぎ込まれる氷の戦慄。
――まるで冷たい幽霊を注ぎ込まれている様な……
一瞬浮かんだ想いを最後に、我が意識は闇へと堕ちた。
……………………えっ?
く……
GW中に、他の作品も全更新する予定が、全然予定通りにいかなかったですよ!
実家近くの山の中を走り回っていたら、毛虫の大量発生で、精神的にも肉体的にも死んでましたです。
毛虫やだー。夢にまで見るよ、最低です。うぅ……