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ねことたいやき

作者: 春矢トタン

 煮干しに満足して、温かく湿った舌が私の掌をなめる。ざらざらとしていて少しかゆい。私は彼女の耳を掻いてあげて、抱き上げ頬を寄せる。しかしすぐに暴れだして、子猫は側溝沿いに咲くコスモスの中に逃げ込んでしまった。

 風鈴の音が聞こえてくる。見上げると自分の住む部屋の窓で鳴っていた。もう仕舞わなければと思うのだけれど、思うだけで私も母も面倒くさがりなのでそのまま出してある。

 私はスカートに付いた埃を軽くはたいてから立ち上がる。ほとんど土と同化してしまっている飛び石の上を律儀に歩いて行くのは、もう癖のようなものだ。

 アパートの階段を登って、二〇七号室の扉を開ける。部屋の中からはピアノの音が聞こえていた。朝の十一時から、夕方の十八時までがアパートの中で楽器を演奏してもいい時間で、木曜日は仕事が休みの日だから、母は自由にピアノを弾いている。リクエストをすると、応えてくれることもある。母はポップスが苦手なようで、私はポップスしか知らないからあまりリクエストは出来ないけれど。

ピアノの置いてあるレッスン室の扉を開けると、母は手を止めてこちらを振り向く。

「ただいま、ママ」

 私は母の首にまとわりついて、頬と頬をくっつける。化粧をしていない、つるつるの肌が私は好きだ。

「あれ、どうしたの、久しぶりね、こんなことしてくるの」

 母は嬉しそうに抱きしめ返してくれた。

「何の曲弾いてるの」

 母から離れて、隣の椅子に座りながら聞く。家で生徒さんを教えている時にいつも母が座っている椅子だ。

「シチェドリンっていう、現代の作曲家の曲」

「ふうん」

 母が新しい曲を弾いていると、何の曲かいつも聞くけれど、知らない人ばかりで、私は相槌くらいしか打てない。おとなしく隣に座っていると、母はまたさっきと同じ曲を最初から弾き始めた。

私はバッグを床に置いて、中から文庫本を取り出す。物心ついたころから聞き続けた母のピアノは、一番落ち着くBGMだ。

 母が三回通り同じ曲を弾いたころ、玄関のチャイムが鳴った。

 母はピアノを弾く手を止めて、こちらを見た。私はため息をひとつついてから立ち上がる。本当は出たくないのだけれど、ピアノの音は外まで聞こえてしまうから、居留守は無理だった。

「こんにちは、桑田さん」

 私は扉をあけると、茶色の紙袋を持ったおじいさんにそう言った。

「夏子ちゃん、久しぶり」

 私はこの人のこの笑顔が苦手だ。母も同じように思っている。

「今日は早めに店じまいなんだけど、たくさんあまっちゃったから、おすそわけ。残りもので悪いけど」

 そう言って渡された紙袋は温かい。多分、これは私たちのために焼いてきたものだ。 中には十枚程の、焼きたてのたい焼きが入っている。もう開けなくてもわかる。甘いあんこの匂いも。

「いつもありがとうございます」

「最近夜は冷えるようになったけど、大丈夫? 風邪とかひいてない?」

 人のいい笑顔を浮かべて覗き込んでくる桑田さんに、私は不機嫌になる。会釈をして、部屋の中へ戻った。

 桑田さんはこのアパートの大家さんだ。不動産業の仕事はもうだいぶ前に子供に継がせているようで、副業なのか趣味なのか知らないけれど、下北沢駅の近くで、たまにたい焼きの屋台を出している。

桑田さんは数年前から、お土産を持ってはうちに尋ねてくるようになった。

 私はそれが嫌で、母に毎回ぶちぶち言っている。母ももらったお土産を、それは大体食べ物だったが、食べようとせずに、知らないうちに捨てるか、誰かにあげるかしていた。

 母は大分うまくやっていて、桑田さんはそんなことを知らずに、またお土産を持って母子家庭の様子を伺いに来る。

金曜日の授業は午後からで、私は早めのお昼を母と食べてから一緒に駅へ向かった。渋谷までは同じ井の頭線に揺られる。母はそこから副都心線で雑司ケ谷へ、私は山手線へ乗って大学へ向かう。

 プラットホームで電車を待っていると、後ろから、沢木、と声をかけられた。

声で誰かはわかるけれど、いきなり呼ばれるのは驚くからやめてほしい。しかし肩をたたかれるのはもっと驚くからやめてほしい。後ろからではなくて前から声をかけて欲しい。何度か言ったことがあるのだけれど聞き届けられないので、私はいつも一瞬肩を強張らせる。そして振り返ると、ベースのソフトケースを背負った、痩せ型の青年が立っているのだ。

「昨日メールしたのに、返してくれないから困っちゃったよ」

 橋場はまったく困ってなさそうに話しかけてくる。

「ごめんね、寝てたから」

 うそだね、と言われたが怒ってはいないようだ。

 橋場とは去年の大学の文化祭で知り合った。橋場はフリーターだが、彼の友人が組んでいるバンドに、エキストラのベース担当として参加していた。私もそのときはピアノ会に入っていて、演奏はしなかったが、頼まれて控え室の荷物番をしていた。一号館の窓は二重になっていて、外から見るとレトロだけれど、内側はステンレスの味気ない窓枠がはまっていることに気づいたのもこのときだ。

 橋場は私が外を眺めているときに話しかけてきた。橋場を文化祭に呼んだ友人たちがどこかに行ってしまい、同じく部外者だった私を仲間と認識したらしい。細長い雲が、風に流されて窓枠の中から消えていく時間を計っていたのに、と遊びを邪魔されて不機嫌になったが、橋場と話したほうがそんな作業よりはましな暇つぶしだとすぐに気づいた。

 三十分ほど二人で話していたが、ほとんど橋場が一方的に自分のことを話すだけで楽だった。童顔で同い年くらいにしか見えなかったのに、本当は四つも年上だった。

バンドを組んでいると言ってバンド名も教えてもらったけれど、もう覚えていない。

 橋場のベースは赤くて、きっと会場でも目立つのだろうと思った。

 金曜日はだいたいほぼ同じ時間に渋谷を通過するので、たまに待ち合わせて昼食をとることもある。昨日も誘われていたが、今日は母と昼食を取りたかった。そう言って断ればよかったのだけれど、面倒くさくて返信していなかったのだ。

「橋場、たい焼き好き?」

 動き出した山手線に揺られながら尋ねる。電車の中では私だけ座らされていたので、見上げる形になりながら。橋場は吊革ではなく吊革の下がっている棒の部分を両腕でつかんでいて、それでもまだ余裕があった。

「うん」

「大家さんがたくさんくれたんだけど、ママと二人じゃ食べきれないからさ、よかったらもらって」

 昨日もらったたい焼きは、まだ居間のテーブルの上に置き去りにされている。一口も食べられないまま。すっかり冷めきって固くなっているだろうけれど、温めればまだおいしいはずだ。

「ほんと、ありがと、今日?」

「多分今日じゃないとダメになっちゃう」

「ごめんね、今日は練習のあとすぐバイトがあるから取りに行けないや」

「バイト、何時から」

「六時からだけど」

「渋谷の?」

「うん」

「じゃあ、その前に渋谷まで持ってく」

「いいの? わざわざ」

「うん。暇だし」

「ありがと。そういえば沢木、バイトやめたんだっけ」

「やめた」

「どうして」

「ママが嫌がったから」

「厳しいの」

「意地っ張りなんだ」

 私がそういうと、橋場は不思議そうに相槌を打った。

「ママ、私が自分でお金稼ぐのが嫌なの。もっと私に頼ってほしいんだと思う。奨学金も申請させてくれなかったくらいだし」

「頼もしいお母さんじゃん」

「寂しがりなんだ。心配だよ。年下の男の人に甘えられたら、すぐにだまされそう」

 橋場が返事に困ってしまったので、そのまま話す。

「橋場、どう、うちのママ。四十だけど、綺麗だよ」

 橋場が苦笑すると、新大久保に着いたので、私は軽く手を振って見送った。


 授業が終わって家に帰ってくると、子猫は今日もアパートの前に来ていた。私の授業はすべて四限で終わるので、帰ってくる時間が毎日ほとんど同じだ。子猫はそれを把握しているようだった。

もうひと月、彼女はほとんど毎日来ている。私はかばんの中から煮干しの入った小袋を出す。子猫はそれが煮干しだと言う事をわかっているので、袋を開けないうちに私の足にすり寄ってきた。

 初めて来たときは毛艶も悪く、痩せて汚れていたが、今はもうぼろぼろの野良猫じゃない。毎日少しずつ可愛くなっていく子猫を見るのが楽しみだった。

「そろそろ名前を決めてもいいかな」

 私の手から直接煮干しを受け取る子猫に話しかける。

「ナコ」

 そう言ってあごをくすぐってあげると、ナコは気持ちよさそうに目をつむった。

 私はナコを抱き上げる。今日は機嫌がいいようだ。

 母が仕事で居ないことをいいことに、ナコを部屋の中へ連れ込む。片腕で子猫を抱きながら、居間の引き出しを開けて中を探った。探していたのは白いリボンで、奥にしまいこまれていたけれど、端っこだけ手前にでていたのでずるずると引きずり出した。

 リボンで林檎の直径位の輪を作り、仕上げに蝶々結びをする。ナコを抱きながらだったので少し大変だった。

「可愛いよ」

 完成した首輪を通してあげてからそう言って頬を寄せると、もう我慢が出来なかったのか、ナコはくるりと一回転して腕の中から飛び出してしまった。狭い部屋の中を暴れまわって、ゴミ箱を倒して、カーテンをよじ登る。風鈴がチリンチリンと音をたてた。CDプレーヤーの上に乗っかりふたを開けてしまって、椅子から机の上に飛び乗って、醤油をひっくり返したところでようやくつかまえた。すぐに外に出してやると、ナコは一目散に逃げて行ってしまった。

 部屋を片付けて時計を見ると、もう橋場との約束まで時間がない。私はたい焼きの袋をつかむとあわてて外へ出た。



 ハチ公改札口の前で橋場を見つけた。橋場もこちらに気づいて軽く手を挙げる。

 紙袋を差し出すと、ありがとうと言って受け取る。

「何この染み」

 橋場が袋の下の部分に出来た大きな染みを指して尋ねる。

「猫が醤油こぼしちゃって。でも中までは染みてないから大丈夫だよ」

「沢木、猫飼ってたっけ」

「最近よく家に来るようになったの」

「家にまで入ってくるの?」

「ううん。私が入れたの。名前もつけて、首輪も付けてあげたよ」

「ふうん。もう飼い猫だね」

 まだ時間があると言うので、私はナコの自慢をさせてもらった。自分の名前が夏子で、猫と掛け合わせてナコと名付けた事を言ったらセンスがないと言われた。

「毎日餌をあげてたんだけど、ひと月前はボロボロだったのに、今はもうすごくかわいいんだよ」

「餌って、何あげてたの」

「煮干し」

「それだけ?」

「うん」

 そういうと、橋場は何か考えこんで、しばらく黙ってしまった。

「体も綺麗なんでしょ? それってさあ、誰か他に世話してる人がいるんじゃない。煮干しだけじゃそんな元気にならないんじゃないかなあ」

 首輪とか名前とか、つけない方がよかったかもね。

 そう言った後、橋場が急に謝り、もうすぐ暗くなるから気をつけて帰ってね、とだけ言ってさっさとバイトへ行ってしまったので、多分私はその時随分傷ついた顔をしてしまっていたんだと思う。

 帰りの電車は随分込んでいた。人と人にぎゅうぎゅう押されながら、私は隙間からただドアを見つめていた。



「ただいま」

 家に戻ると、母が居間のテーブルに座っていた。仕事用の紺色のワンピースを着たままだったから、ちょうど今帰ってきたところだろう。

開けられた窓からは涼しい風が入ってきて、風鈴もチリチリと鳴っている。

「早いね」

「最後の生徒さんが一人お休みしちゃったから」

 久しぶりにどこか食べに行こうか、と言われたけれど断った。

「友達にたい焼きあげちゃったんだけど、よかったよね」

「もちろん」

「桑田さん、なんでいつも余計なことしてくるんだろ」

 私は母の傍に行きながらぶつぶつ言う。

「息子さんが自立しちゃって、やることもなくなって、さみしいのよ」

 母は細い眉を吊り上げながら言った。テーブルの上のコップを怖いくらいに凝視して。

 二人で頑張ってるんだから、邪魔しないでほしいよね。

 母はこちらに向き直って、私をぎゅうと抱きしめる。痛かったけれど、力はすぐに緩んだ。私はおとなしく抱きしめられて、背中をポンポンとやられていた。香水と化粧の匂いがする。私も母の背中をポンポンと叩いてあげたかったけれど、そうしたら母は泣いてしまう気がしてやめておいた。

体温の高い母に抱きしめられ、じんわりとかいた汗が目に入って痛い。風が止まって、風鈴の音も止んでいた。




 母は朝からピアノ教室で、土曜日、私は何もすることがない。期限がたいして迫っていない課題図書を読みながら、窓の外をちらちら見る。土曜日はナコがいつ来るかわからないからだ。

お昼過ぎに、橋場からメールが来た。

 明日、下北沢の箱でライブやるから見に来て。

 月に一度は同じような内容のメールが来るが、一度も行ったことがない。私はそれには返信しないでナコを待った。

 結局その日はナコは来ず、来たのは次の日の夕方だった。よく晴れた風が吹かない日で、少し蒸し暑かった。窓際に座って、風鈴を自分で鳴らしているとナコが塀の上を歩いてくるのが見えた。

 私は昼間コンビニで買ってきた猫缶と紙皿をもって下へ降りる。

 ナコは私が階段から下りてくると、塀からひょいと飛び降りてこちらへ歩いてきた。あごをくすぐってあげようとして、ナコの首輪に気づく。昨日つけた白いリボンはなくなって、赤くて細い革の首輪がついていた。銀色の金具が、西日に照らされて光っている。ナコが顔をあげると、首輪に名前が彫られていることに気付いた。もちろんナコとは書かれていない。

 私はしゃがんだまま途方に暮れてしまった。私が何もしなくても、子猫は足元へ擦り寄ってえさをねだる。仕方がないので猫缶を開けて紙皿に移すと、子猫は喜んで食いつく。あっという間に食べ終えて、私の足に頬を擦り寄せるとどこかへ行ってしまった。

 あんなに喜んでえさを食べる子猫の姿は初めてだった。

 母がもうすぐ帰ってくる。どこかへ出かけてしまおうと立ち上がると、桑田さんがアパートに入ってくるところだった。手に茶色い紙袋を持って。桑田さんはそれを私に渡そうとしたけれど、丁寧に断って私は部屋に戻った。

 携帯を取って、橋場に電話をかける。圏外なのか、電源を切っているのか、つながらなかった。冷蔵庫の中の牛乳を飲んでから、もう一度かけてみたけれどつながらない。メールで一言、連絡下さいと打ってから、カーディガンを羽織って外に出た。

 大分暗くなった住宅街を抜けて、駅前に出る。まっすぐ歩いて、大通りも横切った。橋場に連れられ、一度だけ行ったことのあるライブハウス。地下に降りると受付のテーブルにお兄さんが座っていて、そこから短い廊下を歩くと会場があるのは覚えているけれど、入る気にはならなかった。

 黒い鉄の柵に寄りかかってメールを確認するけれど、着信はない。背の低い立て看板には、今日のライブのチラシが貼ってあった。ワンマンライブではなく、いくつかのバンドが一緒に出ているらしい。五組のグループが一枚のチラシに載っている。近寄って見ると、左上に載っているバンドの中に橋場がいた。バンド名らしき所には、太目のイタリック体でD/Sと書いてある。前に聞いた名前は違った気がするが、もしかしたらその名前の頭文字だけ取って書いてあるのかもしれない。

 中心ではないけれど、橋場の赤いベースはやはり目立っていた。いつも髪なんて立てていないくせに、チラシの中の橋場は髪を整髪料でがちがちに固めている。

 また柵に寄りかかってじっとしていると、途中からライブを見に来たらしい人達が何人か横を通った。高校生から大学生の女の子が多かったけれど、たまに小学生くらいの子供を連れた母親も来た。

「下北沢club251と言うのはここですか」

 と、立て看板にあるチラシと同じものを持って私に聞いてくる人が一人いて、私は丁寧に、そうですよ、地下に降りてくださいと教えてあげた。

次に入って行った、黒髪でメガネの、襟もとにリボンのついた白いブラウスに紺色のスカート、白いソックスに黒いエナメルの靴という、大ホールのクラシックコンサートにでも行くような服装で来た女の子は、中でも存在感があった。

 三十分ほどそこでじっとしていると、地下から誰かが上がってきた。手ぶらだったから、きっとライブの出演者かその他の関係者だろう。階段の中ほどで立ち止って、私と一瞬だけ目があったけれど、すぐにそらすと煙草を吸い始めた。

 また誰かが上がってきて、もう一度階段を覗き込むと橋場だった。私に気づく前に、煙草を吸っている人に声をかけた。どうやら橋場のバンドメンバーのようだ。視線を感じたらしく顔をあげたので、手を振った。

「沢木、どうしたの。中に入ればいいのに。もう僕らのは終わっちゃったけど」

 階段を上りつつ橋場が言う。

「ここまでたどり着けないお客さんの道案内してたの」

「嘘でしょ」

 あながち間違いではないのだけれど、私は何も言わずにいた。

「会いに来てくれたの」

 黙っている私に、橋場がにこやかに問いかける。言いたいことは分かっているけれど、どう切り出せばいいのかわからない。私が橋場に会いたいと思ったのは、私自身にとっても唐突なことだった。どう話し出したところで、脈絡なんて見つけられない。

 橋場が、地下のライブハウスへ続く階段の隣へ腰かけた。隣にパンフレットを敷いて、こちらへ顔を向ける。

「座れば」

 私は言われるまま、そこへ腰かけた。コンクリートがひんやりと冷たい。橋場は特に何も話さず、隣でじっとしていた。

「猫の話なんだけど」

「ああ、ナコちゃん」

 仕方がないので、私は話す決心をつけた。

「ナコじゃなかった。飼い猫だったみたい」

 つとめて抑揚なく言ってみたが、結局声は震えてしまった。

 橋場は困ったように眉をハの字に下げて、そう、とだけ相槌をうった。

「子猫に頼られてるって思ってたのにな」

「利用されちゃったんだ」

 橋場が軽口を言ったと思って睨もうとしたけれど、橋場が真面目な顔をしていたのでどうしようもできなくなってしまった。軽口を言おうとして失敗したようだった。

「この間、大家さんがくれたたいやきあげたでしょう」

「うん、おいしかった」

 とりとめないことを話していると自分で思った。

「大家さんね、もうお年寄りで、さみしいの」

「一人暮らしなの」

「ううん。息子さん夫婦と一緒に暮らしてる。不動産の仕事は、もう息子さんが全部やってるの。習慣で、まだおじいさんを大家さんって呼んでるけど、実際もううちの大家さんは息子さんの方なんだよね」

「家族と一緒なのにさみしいの」

「息子さんはもう自立しちゃってるの」

「いいことじゃないの」

「それはつまり、もう息子さんに頼られないってことなのよ」

「……そうか、でも、自立してなくても困っちゃうと思うけど」

「そうだけどね。でもとにかく大家さんはさみしいの。ずっと面倒見てた子供が成長しちゃって。奥さんもずいぶん前に亡くしてるし。それで、暇をもて余してたいやき屋さんなんてやってるんだけど」

 私はそこで一旦言葉を切った。言いたいことはあるのだけれど、傲慢で、自意識過剰な人間だと橋場に思われないか不安になったのだ。橋場を見ると、私が話し出すのを待っていてくれた。

「大家さんは、今度は私たち母子に頼られようとしたの」

 もっと別の言い方をしたかった。こんな言い方をしては、大家さんが嫌な人みたいだ。それに、言葉にすると大家さんが可哀そうになって、大家さんを可哀そうだと思う自分自身も嫌になってしまった。

「余ったから、って言ってはたいやきを差し入れてくるし、どこかのお土産で、お菓子や小物なんかもしょっちゅう持ってくるの。それでね、必ず聞くの。何か変わったことはない、とか、困ったことはない、って」

 言えば言うほど、ああ自分は嫌な人間だ、と思えてしまったが、話し出したら止められなかった。

「気付いたのは最近だけど、うちの家賃、かなり安くしてもらってるのよ。建物の老朽化が原因だ、とか言ってるけど、それでも安すぎるの」

 話すごとに、自分が熱くなっていっているのがわかった。橋場が黙って聞いてくれているのはうれしいけれど、いたたまれない。

「私の家、母子家庭じゃない」

「そうだね」

 相槌だけだけれど、橋場が言葉を発したことで、少し肩の力が抜けた。

「前に、ママが意地っ張りだって言ったでしょ」

「言ってたね」

「他人に同情されるのに耐えられないの。両親が離婚したのはだいぶ前だけど、こんな小さい子を一人で育てるなんて大変だろう、かわいそうに、って思われるのが辛くて辛くてたまらなかったの」

「うん」

「家賃のこともね、ママ、多分悔しかったんだと思う。普通に考えたら、感謝するべきことだろうし、そのおかげで大分助かってるっていうのも事実なのよ。事実だからこそ悔しいの」

 私は手のひらをぎゅう、と握りしめた。爪の食い込んだ手のひらが白くなる。

「だから私のこと、うんと甘やかしたの。ひとりで娘は十分育てられる、って自分に言い聞かせたかったんだと思う。バイトやめさせられちゃったのもそのせいだし。……ママ、私に家事の一つもやらせてくれないのよ」

 橋場は何か言おうとして、口をつぐんでしまった。うん、とか、そうなんだ、だけでもいいから言ってほしかった。自分の言いたいことだけを言ってしまっていることに申し訳なくなる。

「……私ママが好きだった。意地っ張りでも、一生懸命でかっこよかった。ママに甘えてあげることが、私なりの支え方だ、って思ったの」

 橋場はやはり黙って聞いている。

「でも、甘えるだけじゃいやだったの。私も誰かに甘えられたかった」

 言ってから、自分も大家さんと同じだったということに気づく。いや、もともと気づいていたけれど、認めたくなかったのかもしれない。

「子猫を見たとき、あの子は私がいないと生きていけないんじゃないかって思ったの」

 私は初めて子猫を見つけたときのことを思い出す。ぼろ雑巾と見間違えるほどみすぼらしく、痩せて、背骨が浮いていた子猫。家の門の前で、おなかを冷たいコンクリートにべたっとつけて、小さく息をしていた姿。その背中が小さく動くのに気付かなければ、死んでいたと思ってしまうように弱々しかった。

「でも、勘違いだった。あの子にはもっと立派な飼い主がいて、私の助けなんてなくても生活してた」

 子猫に付けられていた、赤い首輪を思い出す。思い出すと悲しくなって、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。橋場はそれでも私がまだ何か言うのを待ってくれていたが、しばらくすると立ち上がって、どこかへ行ってしまった。

 あきれられたのだろうか、と自分勝手に話しすぎたことを後悔していると泣きたくなった。しばらく座ったままうつむいていると、足音が聞こえた。顔をあげると、橋場がコンビニの袋を提げて立っている。

「ごめん、これくらいしか買ってこれなかったんだけど」

 そう言って差し出されたのは、レモンティーのペットボトル。

「あと、チョコレートとか、ポテチとかも買ってきた。おにぎりとパンもあるけどこれはおれの夕飯」

 ビニール袋の中から、次々と食べ物をとりだしていく。渡されたペットボトルは冷たくて、周りについた水滴がしっとりと手のひらを濡らした。

「その、なんて言ったらいいか分からないんだけど、沢木の言いたいこととか、すごく悲しかったんだなってことはわかったから」

 橋場は袋の中身を出し終わると、またさっきまで座っていたところに腰かけた。

 私は渡されたレモンティーの蓋をあけて、一口飲む。

「いつもつれない沢木が、俺にそのこと話しに来てくれてうれしかった」

 こんなこと言ったら怒るかもしれないけど。とそう言って、橋場は困ったように笑った。

「……ただ愚痴を聞かされたのに、うれしかったの」

 私はもう一度ペットボトルに口をつけてから聞く。

「うん」

「何で」

「だって、頼りにされてたんだな、って思ったから」

「……そうね」

 あっさりと認めてしまえた自分に驚いた。誰かに頼りっぱなしなんて、嫌で嫌でたまらなかったのに。

「私は橋場がうらやましい」

「何で」

 橋場は自分用だといっていたおにぎりをほおばっていた。

「自立してるって感じがする」

「俺が?」

「そう」

 私が真剣にうなずくと、橋場は笑いだした。

「俺はただのぷー太郎だよ。あんまり買いかぶらないで」

「でも、橋場は、誰かに同情されたりなんかしない。誰かに頼られたいって思わなくても、自然に頼りにされる人なんだ」

 笑われたのが悔しくて、私は精一杯言い返した。橋場はまだ笑っている。

「同情されないだって? 頼りにされる? 沢木は、俺達みたいな人種が、社会的にどう思われるかまだ知らないんだよ。まあ、同情とはまた違った見方をされるわけだけど」

 橋場の大きな手が、私の頭をごしごしとなでる。

「俺は沢木に同情なんてしたことないよ。まじめで、頭がよくて、大学まで行ってる。それに優しいし強い子だ」

 橋場の手を頭に乗せて、私はあやされているような気持ちになった。

「……なんだか、お父さんみたいなこと言う」

 実際には、物心つくか付かないかというころに父親とは別れたため、本当にそうなのかどうかはわからないけれど。

「やっぱり橋場、うちのママどう?」

 私がいつだったか冗談で持ちかけたことを思い出すと、橋場はやっぱり困ったように笑っていた。私も一緒に思わず笑ってしまう。

「沢木が元気になったみたいでよかった」

 そういうと、橋場は残っていたおにぎりを口に詰め込んで立ち上がった。

「もう暗いし、送って行こうか」

「ううん、いい」

 私も一緒に立ち上がると、私は橋場に向きなおった。

「ありがとう」

 橋場は、私が礼をいうとは思わなかったのだろう、少々面食らった顔をしていたが、すぐに笑顔になって手を振る。

 橋場に背を向けると、母が待つ家へと急いだ。

 帰り道、赤い首輪の子猫が住宅地に入って行くのを見ると、やはり心がチクリと傷んだ。それでも、最初の時ほど悲しくない。

 アパートの部屋の窓は開いていて、相変わらず季節はずれな風鈴がチリンチリンと鳴っていた。


前に投稿させてもらった、猫とたいやきのリメイクです。

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