「君は分かってくれるよね」と言われたので、今年の署名はしないことにしました
婚約の更新書には、署名の欄が二つあります。
左が私。右がユーリウス様。
この三年、先に埋まるのは、いつも左の欄でした。
この国の婚約は、一年ごとに結び直されます。
両家がそろう宴の席で、婚約者どうしが更新書に署名をする。二人の名前が並んで、婚約はまた一年続くのです。
更新書の文言は、毎年同じです。
『双方の意思により、本婚約をさらに一年継続する』
読むたびに、私の目は「双方の」のところで、ほんの少し止まります。
ユーリウス様は毎年、署名の段取りに少し遅れていらっしゃいます。お忙しい方なのです。
私は先に名前を書いて、右の欄が埋まるまでのあいだ、客人に「もうすぐ参りますわ」と微笑んでいました。長い年には、一時間近く。
それでも、刻限の鐘に遅れたことは、一度もありませんでした。
宴は両家で一年ごとに持ち回り、今年はアルメイン家の番でした。
宴の前日、昼過ぎに、ユーリウス様がいらっしゃいました。
「明日の段取りを、自分の目で確かめておきたくて」
家令が、少し驚いた顔で私を見ました。
彼は広間を端から端まで歩きました。
どの扉から入り、どこで父と母にご挨拶するのか。署名台はどこに置くのか。
家令の答えに、一つずつうなずいていきます。私は一歩うしろで、それを見ていました。
最後に、彼は窓の外の空を見上げました。
「刻限は、日の入りの鐘だったね」
「はい」
「うん。覚えた」
それから私のほうを振り向いて、少し照れたように笑います。
「君の選んだ日だからね。今年は、ちゃんとしたかったんだ」
ひと月前、宴の日取りを尋ねる手紙が届きました。
いつがいいか、と。たった一行の問いでした。
婚約してから、日取りを尋ねられたのは初めてでした。
私はその手紙を、引き出しにしまう前に三度読み返しました。
「並んでご挨拶するのは、このあたりかな。……練習しておく?」
差し出された腕に、私はそっと手をかけます。
彼が歩き出し、私は半歩遅れて、その歩幅に合わせました。
デビュタントの夜も、こうでした。
壁際で一歩も動けずにいた私に、彼だけが手を差し出してくれたのです。震える指先ごと、包むように。
――僕に合わせて。大丈夫だから。
その声に身を任せたら、最初の一曲を、一度もつまずかずに終えられました。
あの夜から、私は彼の歩幅で歩いてきました。
合わせていれば、いつか彼のほうから、私の歩幅を尋ねてくれる日が来る。そう信じて。
今年、その日が来たのだと思いました。
帰り際、馬車の前で、私は彼を呼び止めました。
「ユーリウス様。明日は……」
一緒に署名をしたいのです。
右の欄が空いたままの時間を、今年はもう過ごしたくないのです。
「うん?」
「……いいえ。お待ちしております」
彼は「楽しみにしてる」と手を振って、馬車に乗りこみました。
言いかけた言葉は、いつものように胸の奥にしまいました。
言わなくても、今年の彼なら、きっと分かってくださる。
翌日の午後。
侍女に髪を結い上げてもらい、私は広間に下りました。
中央には署名台が据えられ、真新しい更新書が広げられています。脇には、例年どおり椅子が一脚。右の欄が埋まるのを待つあいだ、私が座っていた椅子です。
並んだ二つの空欄を見下ろして、私はペン先を一度だけ確かめました。
今年は、二つの欄が同じ時刻に埋まる。
あの椅子に座るのも、去年で終わり。
そんな気がしていました。
日の入りの鐘には、まだ間があります。
門のほうから、最初の馬車の音が聞こえてきました。
最初の馬車は、ユーリウス様のものではありませんでした。
次の馬車も、その次も。
私は父と母の隣に立ち、客人をお迎えしました。
ヴァンリート侯爵ご夫妻も、早くにお着きになりました。ユーリウス様は、お勤めを終えてから、直接こちらへいらっしゃると伺っています。
窓から差しこむ光が、床の上で長く伸びはじめたころ、家令がそっと寄ってきて、ある男爵家の名を告げました。
使いの者が、私に直接お伝えしたいことがあると申しているそうです。
その名には、覚えがありました。
ユーリウス様の、幼馴染のご令嬢のお家です。
控えの間で待っていたのは、息を切らした若い従僕でした。
「本日は、当家のお嬢様のデビュタントでございます。主人がユーリウス様に、お顔だけでもとお願いいたしましたところ、快くお引き受けくださいまして。ただいま、当家においでです。こちらへは、そのあとで、と」
従僕は、そこで深く頭を下げました。
「当家では、本日がこちら様の更新の宴とは存じ上げず……まことに、申し訳ございません」
頭を下げたまま、従僕は懐から、小さく折りたたまれた紙を取り出しました。
「ユーリウス様が、これを、あなた様に、と」
見慣れた、少し右上がりの字でした。
『鐘には必ず間に合わせる。先に署名を済ませておいてくれ。君は分かってくれるよね』
分かってくれるよね。
昨日、馬車を見送りながら、私が胸の中でつぶやいた「分かってくださる」は、私の願いの言葉でした。
この人の字で書かれると、それは、疑いのない決めつけでした。
デビュタントの夜が、どれほど心細いものか、私は知っています。
彼が断れなかったわけも、分かります。
分かるのです。いつものように。
「お嬢様に、お祝いを申し上げてください」
「ユーリウス様に、何かお伝えいたしましょうか」
「いいえ。確かに、承りました」
広間に戻ると、侯爵夫人が扇の陰で、入り口のほうをうかがっていらっしゃいました。
「あの子は、まだかしら」
「もうすぐ参りますわ」
微笑みと一緒に、するりと出てきました。この三年、毎年口にしてきた言葉です。
侯爵夫人は、ほっとしたように扇を下ろされました。
デビュタントのことは、言いませんでした。
式次第では、署名の前に、二人並んで客人にご挨拶をする段取りでした。
私は家令に頼んで、ご挨拶を署名のあとへ回し、かわりに父の乾杯を先にしてもらいました。父は何も聞かずに、うなずいてくれました。
昨日、ユーリウス様が「このあたりかな」と腕を差し出した場所を、何も知らない客人たちが行き交っています。
乾杯が済むと、立会い役の式部卿、レギウス・ハルデンベルク伯爵が、私の前にいらっしゃいました。
伯爵は父に目礼してから、私に向き直ります。
「アルメイン嬢。署名の前に、立会いとして確認を」
低く、平らな声でした。
「刻限は、日の入りの鐘。鐘が鳴るまでに双方の署名がそろわなければ、本婚約は満了となります。刻限の延長は、ありません」
毎年、署名の前に立会い役が告げる、決まりの文言です。
今年は、その一つ一つが、はっきりと耳に残りました。
伯爵は言葉を切り、私の答えを待っています。
「刻限のことは、承知しております」
伯爵は、もうひと言、言葉を継がれました。
「……これは、あなたの望みですか」
その問いに、私は、言葉では答えませんでした。
伯爵はしばらくのあいだ私を見て、それから、小さくうなずかれました。
「では、そのように」
伯爵は一礼して、署名台の脇の、立会いの位置へ戻っていきました。
やがて式次第が署名に差しかかり、家令が例年どおり、私にペンを差し出しました。
私が小さく首を振ると、家令は一度だけ私の顔を見て、ペンをそっと台に戻しました。
二つの欄は、白いままです。
脇の椅子も、引かれないまま。
たとえ今、門が開いて、ユーリウス様が駆け込んできたとしても、今年は、ペンを取らない。
そう決めていました。
私は署名台に背を向けて、客人たちのほうへ歩いていきました。
遠方からの方に席をお勧めし、話の途切れた輪には、私から声をかけに行きます。
広間の花を褒めてくださる方には、一つずつ名前をお答えしました。どれも、今年の宴のために私が選んだ花です。
窓の外で、西の空が赤く染まっていきます。
客人のなかにも、ちらりと窓のほうを見る方が出てきました。
日の入りの鐘まで、もう、いくらもありません。
門のほうからは、まだ、馬車の音は聞こえてきませんでした。
日の入りの鐘が、鳴りはじめました。
広間の話し声が、波が引くように静まっていきます。
客人たちが一人、また一人と、署名台のほうを振り返りました。
台の上には、家令が戻したペンが、そのまま横たわっています。
二つの欄は、白いままです。
左の欄が空いたままこの鐘を聞くのは、初めてのことでした。
鐘が一つ鳴るたびに、一年ごとに結び直してきたものが、一つずつほどけていくようでした。
私は手を前で重ねたまま、その音を最後まで聞いていました。
最後の音が消えると、ハルデンベルク伯爵が、立会いの位置から一歩進み出ました。
「日の入りの鐘をもって、刻限となりました。双方の署名は、ございません。本婚約の満了を、立会いとして確認いたします」
刻限を告げたときと少しも変わらない、低く平らな声でした。
伯爵は手元の記録に短く書き入れると、一礼して、もとの位置へ下がりました。
それ以上は、何もおっしゃいませんでした。
誰かが小さく息をのむ音がしただけで、ざわめきは起こりませんでした。
父が、私を見ていました。
私がうなずくと、父も一度だけ、うなずき返してくれました。母は黙って、私の背にそっと手を添えてくれます。
ヴァンリート侯爵が席を立ち、父の前で深く頭を下げられました。
父も、同じだけ深く礼を返しました。
侯爵夫人は閉じた扇を握ったまま、まだ入り口のほうをご覧になっていました。
今日あの入り口を見ていたのは、私だけではなかったのです。
それから侯爵夫人は、私に向き直られました。
「あの子は、いったい……」
この三年、するりと出てきたあの言葉は、今度は出てきませんでした。
「幼馴染のご令嬢のデビュタントに、お顔を出していらっしゃるそうです」
侯爵夫人はしばらく目を閉じ、それから小さく「ごめんなさいね」とおっしゃいました。
「いいえ」とだけお答えして、私は頭を下げました。
式次第では、署名のあとが、ご挨拶です。
昨日ユーリウス様が「このあたりかな」と腕を差し出した場所まで、私は一人で歩いていきました。
自分の歩幅で歩くと、そこは思っていたより、ずっと近いのでした。
「本日はアルメイン家の宴にお運びくださり、まことにありがとうございます。どうぞ最後まで、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
広間に、少しずつ話し声が戻ってきました。
私は席を回り、家令に頼んで灯りを増やし、遠方からの方には今夜のお部屋を整えさせました。
誰も待たない宴は、驚くほど早く過ぎていきました。
閉会まで、私は一度も、あの椅子に座りませんでした。
門の音に、耳を澄ませることもありませんでした。
侯爵ご夫妻は最後まで席にとどまり、父と母にもう一度頭を下げてから、お帰りになりました。
ほかの客人たちを、広間の入り口でお見送りしていたときです。
門のほうから、馬車の音が近づいてきました。
広間に駆けこんできたユーリウス様は、髪も上着も乱れていました。
帰りかけた客人たちが、足を止めて彼を見ます。
すぐそばにいた私に、彼は気づきませんでした。
まっすぐ署名台へ向かう背中を、私は見送りました。
彼は台の脇の空いた椅子に目をやり、それから、いつものようにペンを取りました。
ペン先が、右の欄の上で止まりました。
彼の目が、ゆっくりと左の欄へ動いていきます。
三年間、一度も確かめる必要のなかった欄です。
彼はそこを、長いあいだ見ていました。
自分の欄よりも、ずっと長く。
やがて顔を上げた彼の目が、広間をさまよい、入り口の私のところで止まりました。
初めて見る顔でした。
私が何と答えるのか、分からない人の顔でした。
私は、署名台のそばまで歩み寄りました。
「セシリア、これは……」
私はお辞儀をしました。
「ヴァンリート様。ようこそお越しくださいました」
婚約する前の、呼び方でした。
彼の手の中で、ペンがかすかに揺れました。
「あいにく、宴は先ほど閉会いたしました。せっかくお運びいただきましたのに、申し訳ございません」
彼は、何も言いませんでした。
「お疲れでしょう。すぐにお茶をご用意いたします。よろしければ、そちらにお掛けになって、お待ちくださいませ」
署名台の脇の、あの椅子を手で示してから、私はもう一度お辞儀をして、お見送りに戻りました。
背中のほうで、ペンが台に置かれる、小さな音がしました。
椅子を引く音は、しませんでした。
更新書の二つの欄は、白いまま。
もう、誰の名前も待ってはいませんでした。
あの宴から、三週間が過ぎました。
門の音に耳を澄ませることのない毎日は、静かで、そして案外忙しいものでした。
来月、領地にいる従姉が、王都の聖堂で婚礼を挙げます。
遠くにいる本人に代わって、花の支度は私が引き受けました。
「まだ、休んでいてもいいのよ」と母は言いましたが、これは私が自分で決めたことです。
従姉からの手紙には、「花は、セシリアの好きなように」とありました。
聖堂の式典は、式部が預かっています。飾りの花も、式部と相談して決める習わしです。
その日、私は式部の執務室を訪ねました。
応対してくださったのは、書記官ではなく、式部卿のハルデンベルク伯爵ご本人でした。婚礼の立会いも、伯爵がお務めになるのだそうです。
「アルメイン嬢。お待ちしておりました」
あの夜、刻限を告げたのと同じ、低く平らな声でした。
伯爵は、そのことには、ひとことも触れられませんでした。
勧められた椅子は、伯爵の机の、ちょうど向かいにありました。
机の上には、聖堂の図と、花の計画書が広げてあります。
壇の両脇と通路沿いに、背の高い白百合。
式典の花といえば、まず百合です。これまでの宴でも、ずっとそうでした。
「通例の案です。決める前に、ご希望を伺えますか」
「このままで、構いません」
答えは、考えるより先に口から出ていました。
三年のあいだに、すっかり身についた答えでした。
伯爵はペンを持ったまま、少しのあいだ、私を見ていました。
急かすような目では、ありませんでした。
「構わない、とは伺いました。お好みは、いかがですか」
言葉が、喉の手前で止まりました。
宴の前の日、言いかけたまま胸にしまった言葉のことを、思い出しました。
私は、膝の上で重ねていた手を、そっと離しました。
「……本当は、百合の香りが、少し苦手なのです。白薔薇のほうが、好きです」
口に出してしまえば、それは思っていたより、ずっと短い言葉でした。
「では、そのように」
伯爵はそう言ってうなずくと、計画書の「白百合」に線を一本引き、その横に「白薔薇」と書き入れました。
迷いのない手つきでした。
「香りの淡いものを、選ばせましょう。高さは、いかがなさいますか」
図の上では、背の高い花が、席の列をすっかり縁どっていました。
「……少し、低いほうが。座った方からも、従姉の顔がよく見えるように」
今度の言葉は、さっきより少しだけ早く出てきました。
伯爵は、図の花を一段低く描き直しました。
「ほかに、ご希望は」
「いいえ。……今日は、それだけです」
「では、次の折に、また、お尋ねします」
伯爵はペンを置き、書面をこちらへ向けてくださいました。
まだ乾ききらないインクで、私が口にしたとおりの花の名が、そこにありました。
婚礼の日、聖堂の扉をくぐったところで、私は足を止めました。
百合の、重く甘い香りがしなかったのです。
入り口の花は式部が用意するもので、あの日の相談では、話にも出なかったはずです。
けれど、そこに生けてあったのも、白薔薇でした。
見渡しても、聖堂のどこにも、百合は一輪もありません。
低く生けた白薔薇のあいだを、従姉がゆっくりと歩いていきます。
花に隠れることなく、どの席からも、その顔がよく見えました。
途中で一度だけ、従姉は私のほうを見て、笑いました。
式は、滞りなく終わりました。
参列の方々が散りはじめたころ、立会いを務めた伯爵が、私のところへ来られました。
「香りは、お障りありませんでしたか」
「はい。……入り口のお花も、伯爵様が?」
「苦手だと、伺いましたので」
刻限を告げたときと同じ声のはずなのに、今日は少しだけ、やわらかく聞こえました。
伯爵は一礼して、次の段取りへ戻っていかれました。
「君は分かってくれるよね」と言われることには、慣れていました。
尋ねられて、覚えていてもらえることには、まだ少しも慣れていません。
入り口の白薔薇は、すぐそばに立っても、ほんのかすかに香るだけでした。
私は、深く息を吸いました。
ヴァンリート侯爵家の封蝋の押された手紙が届いたのは、あの宴から、四か月が過ぎたころでした。
見慣れた、少し右上がりの字でした。
封を切る指は、思っていたより落ち着いていました。
詫びの言葉と、もう一度だけ話をさせてほしいという願いが、丁寧に綴られていました。
終わりのほうには、こうありました。
「会いたくなければ、返事はいらない。会ってもらえるなら、日と時刻は、君に決めてほしい。その時刻に、必ず伺う」
会わずに済ませることも、できました。
けれど、何を言われるにしても、返事は自分の口からしたいと思いました。
私は、十日後の、昼過ぎの鐘が鳴る時刻を書いて、封をしました。
約束の日、侍女が私の部屋の扉を叩いたのは、鐘が鳴るより、まだ一時間近くも前のことでした。
「ヴァンリート様の馬車が、門の前にお着きです。中へとお勧めしたのですが、お約束の鐘が鳴るまで、そこでお待ちになるそうです」
待つのは、これまで、いつも私のほうでした。
私は、書きかけていた従姉への手紙に戻りました。
急ぐことも、わざと遅らせることも、しませんでした。
最後の一行を書き終えたころ、昼過ぎの鐘が鳴りました。
鐘の余韻が消えないうちに、門の開く音がしました。
三年のあいだ、あれほど待っていた音でした。
私はペンを置いて、応接間へ降りました。
ユーリウス様は、椅子にかけずに立っていらっしゃいました。
私に気づくと、深く頭を下げられました。少し、痩せられたように見えました。
「会ってくれて、ありがとう」
向かい合って腰を下ろすと、ユーリウス様は、膝の上で両手を握りしめられました。
「あの夜のことを、謝りたかった。男爵家は、あの日が更新の日だとは知らなかった。知っていて引き受けたのも、君に相談もしなかったのも、僕だ」
一度、息を整えてから、ユーリウス様は続けられました。
「君は待っていてくれると思っていた。だから、時計を見ることもしなかった」
「遅れて着いて、更新書を見た。君の欄まで空いていて、やっと気づいた。三年間、先に書いてあった君の名前は、君が待っていてくれた時間だったんだと」
「君なら分かってくれると、ずっと思い込んでいた」
そして、まっすぐに私を見て、おっしゃいました。
「次は、必ず時刻どおりに来る。君の望みも、きちんと聞く。……だから、もう一度、婚約を結び直してはもらえないだろうか」
時刻どおりに、来てくださること。
私の望みを、聞いてくださること。
あの夜、私が欲しかった言葉が、ひとつも欠けずに、そこにありました。
署名をしないと決めたあの日も、私は最後まで、門の音を待っていました。
決めても、待ってしまう。それが、私でした。
「ありがとうございます。そのお言葉は、うれしく思います。……本当です」
私は、目をそらさずに続けました。
「けれど、そのお言葉は、あの夜にこそ、いただきたかったのです」
ユーリウス様の手に、いっそう力がこもるのが見えました。
「今日は、ヴァンリート様が、鐘が鳴るまで門の前で待っていてくださいました。変わろうとしてくださっていることは、分かります」
「それでも、結び直せば、私はきっと、また門の音に耳を澄ませてしまいます。信じたいと思うほど、来てくださるかどうかを、待ってしまうのです」
「私はもう、待つ暮らしには戻りません。ですから、お申し出は、お受けできません。……これは、私が自分で決めたことです」
誰かのもとへ行くために選んだ答えではなく、この先、誰とも署名を交わすことがなくても、答えは同じでした。
ユーリウス様は、何か言いかけて、口を閉じられました。
握りしめていた手から、ゆっくりと、力が抜けていきました。
長い沈黙のあとで、「……分かった」と、静かにおっしゃいました。
それから立ち上がり、もう一度、深く頭を下げられました。
「答えを聞かせてくれて、ありがとう。……どうか、元気で」
君の望みを聞く、とおっしゃったとおりに、ユーリウス様は、最後まで私の答えを聞いてくださいました。
引き止める言葉は、ひとつもありませんでした。
変わってくださったのは、本当なのだと思います。
ただ、それは、あの鐘のあとのことでした。
玄関でお見送りをして、しばらくすると、門の閉まる音が聞こえました。
それはもう、ただの門の音でした。
あの宴から、一年が過ぎました。
私の家の広間で、今年もまた、署名の宴が開かれました。
レギウス様と婚約を決めたのは、この宴の、ふた月ほど前のことでした。
その日も、私は式典の花の相談に伺っていました。相談が済んで腰を上げかけたとき、伯爵はすぐには席を立たれませんでした。
「……私事を、申し上げてもよろしいですか」
私事を、とこの方がおっしゃるのを、私は初めて聞きました。
「はい」
「私は、あなたと夫婦になりたいのです」
まっすぐな言葉でした。けれど、その目は、答えを急かしてはいませんでした。
「急ぎません。お考えになってからで、構いません」
私は、その場で答えました。
「……私もです。レギウス様と、夫婦になりたいのです」
いつも私の望みを尋ねてくださった方が、初めてご自分の望みを口にされた日でした。
広間の花は、今年は、白薔薇でそろえました。
燭台に火が入るころには、窓の外は、もう夕暮れの色をしていました。
両家と賓客が見守るなかを、私たちは並んで、署名台へ向かいました。
今日は、自分の歩幅で歩きました。
ふと気づくと、隣の靴音が、私と同じ間合いで、床を鳴らしていました。
どちらが合わせたのかは、分かりません。
ただ、どちらも、急いではいませんでした。
署名台は、去年と同じ場所にありました。
置かれた紙に、署名欄が二つあるのも、去年と同じでした。
けれど、それは更新書ではなく、レギウス様と私の、初めての婚約書でした。
台の横に、待つための椅子はありませんでした。
いつも私が座って、門の開く音を待っていたあたりには、窓からの夕日が差しているだけでした。
椅子は二脚、署名台の前に、並べてありました。ペンも、二本。
段取りを相談したとき、そうしてほしいとお願いしたのは、私でした。
席に着くと、レギウス様は、ペンを取る前に、私のほうへ向き直られました。
一年前、立会い役として、この署名台のそばで私の意思を確かめてくださったのも、この方でした。
「昨年と同じことを、伺います。……これは、あなたの望みですか」
あのときの私の答えは、署名をしないことでした。
今年は、迷わずに答えました。
「はい。私の望みです」
私は、レギウス様の目を見て、続けました。
「レギウス様の隣で、同じときに、名前を書きたいのです」
レギウス様は、ほんのわずかに目もとをゆるめて、うなずかれました。
「では、そのように」
花の相談のときから、私が何かを願うたびに、レギウス様はそう答えてくださいました。
私たちは、それぞれのペンを取り、インク壺に浸しました。
ペン先が紙に触れたのは、同じときでした。
静かな広間に、二つのペンの音が、重なって聞こえました。
セシリア・アルメイン。
一文字ずつ、急がずに、自分の名前を書きました。
隣では、レギウス様のペンが、同じように紙の上を進んでいました。
三年のあいだ、私の名前はいつも先に書かれて、もうひとつの名前が並ぶころには、すっかり乾いていました。
今年は、どちらの名前も、待ちませんでした。
ペンを置くと、見守っていた方々から、拍手が起こりました。
レギウス様は、すぐには立ち上がろうとなさいませんでした。私も、そうでした。
ほどなくして、日の入りの鐘が鳴りはじめました。
去年、空いたままの二つの欄を前に聞いたのと、同じ鐘でした。
けれど今年は、何かの終わりを告げる音には、聞こえませんでした。
インクはまだ濡れていて、燭台の灯りを、小さく映していました。
私の名前と、レギウス様の名前は、並んだまま、同じ速さで、静かに乾いていきました。




