最後の一杯
この街では、働き終えた機械にも、酒を注ぐ。
坂の下の六番井戸が、水を吐かなくなったのは、秋の終わりのことだった。
朝いちばんに、隣の家の婆さんが工房の戸を叩いた。桶を提げたまま、息を切らしていた。
「修理屋さん。おろくが、上がらん」
おろく、というのは、六番井戸の井戸ポンプのことだ。坂の下の家々は、もう何十年もそう呼んでいる。
アニカは工具袋を腰に巻いた。工房の隅で、鉄の胴が起き上がった。バレル。樽に短い脚を生やしたような、古い機械だ。
「朝食がまだです」とバレルが言った。「本日の摂取カロリーは、現在、規定値の零パーセントです」
「あとで」
「あとで、は今朝一回目です」
アニカは戸を開けた。バレルの鉄の脚が、砂利を踏んでついてきた。
おろくの前には、もう人が集まっていた。
坂の下の井戸は、この街でいちばん古い。石の井戸枠に、黒い鋳物の胴が据えてあって、長い柄が一本、空に向かって突き出している。胴の肌はでこぼこで、ところどころに緑の錆が浮いていた。
「百四十年前の規格です」
バレルが作業腕を伸ばして、胴を軽く叩いた。鈍い音がした。
「この街の井戸ポンプでは、最古の型です」
「知っとるよ」と、隣の婆さんが言った。「うちの婆さまの婆さまの代から、ここにあるんよ」
アニカは柄を押した。手応えがない。空気を押しているような軽さだった。
胴の口を開けた。弁の革は、まだ使える。底の玉も、ちゃんと座っている。では、なぜ水が上がらないのか。
アニカは胴の内側に灯りを入れて、指でなぞった。
指先が、引っかかった。
鋳物の内側に、髪の毛ほどの線が、上から下まで一本走っていた。
「割れてる」
アニカは言った。
「胴の内側。縦に、いっぽん。ここから空気を吸ってる」
人垣が、しんとした。
「直せるかい」
「胴の鋳物は、もう作れる者がいません」とバレルが言った。「この規格の型は、残っていません」
「作れなくても、塞げばいいよ」
アニカは工具袋を開けた。
割れ目に沿って、鉄の帯を巻く。帯の内側に樹脂を練って塗り、締める。締めすぎると、割れが広がる。緩すぎると、空気が漏れる。帯を三本、手の感覚だけで締めていった。
昼過ぎ、柄を押した。
一回。二回。三回目で、手応えが返ってきた。四回目で、口から水が出た。
人垣が湧いた。隣の婆さんが、桶を差し出して笑った。アニカはしゃがんだまま、帯の締め具合をもう一度確かめた。
「これで、大丈夫かね」
「今日はね」
アニカが答えると、婆さんは聞こえなかったふりをした。
翌朝、おろくはまた水を吐かなくなった。
帯を外すと、割れは、昨日より長くなっていた。帯で締めた力が、鋳物の古い肌に負けたのだ。
アニカは帯を巻き直した。今度は四本。樹脂を厚く。
その次の朝も、駄目だった。
三日目の夕方、アニカは井戸枠に腰を下ろして、外した帯を膝に乗せていた。手は油と樹脂で黒く、指の先が切れていた。
「割れは、昨日より十一ミリ進んでいます」
バレルが言った。いつもと同じ声だった。
「鋳物が、締める力に耐えられません。塞ぐほど、割れが進みます。同じ方法を続けた場合、成功する確率は」
「言わなくていい」
「はい」
アニカは帯を握った。握ったまま、しばらく動かなかった。
隣の婆さんが、湯呑みを二つ持って出てきた。一つをアニカに渡して、自分も井戸枠に座った。
「もう、ええよ」
婆さんは言った。
「百四十年、水を上げてくれたんじゃ。それで十分よ。送ってやろう」
「送る?」
聞いたのは、アニカではなかった。いつのまにか集まってきた、坂の下の子どもだった。
「働き終えた機械はね、ちゃんと送ってやるんよ。この街じゃ、そうするんじゃ」
「お酒も、あげるの?」
「あげるよ」
「おろく、飲むの?」
「機械は飲まんよ」
婆さんは笑って、湯呑みの湯気越しに、おろくの長い柄を見上げた。
「でも、飲ませるんじゃ」
「明日の夕方にしよう。みんなに声をかけとくよ」
アニカは湯呑みを両手で持ったまま、何も言わなかった。バレルも、何も言わなかった。
次の日の夕方、坂の下に人が集まった。
井戸を使ってきた家の者たちだ。年寄りも、子どもも、仕事帰りの男たちもいた。誰かが、秋の祭りの残りの新酒を、徳利に一本持ってきていた。
子どもたちは、もらえる部品の話で、勝手に盛り上がっていた。「柄は、うちの井戸がもらうんだ」「うちのほうが古いもん」。誰かの母親が、しっ、と言った。
送りには、決まった手順がある。アニカは子どものころから何度か見ていたが、自分が真ん中に立つのは初めてだった。
最初は、最後の一杯だ。
隣の婆さんが、徳利を傾けて、おろくの胴の口に、新酒を一杯注いだ。祭りのとき、街じゅうの機械に注ぐのと同じ一杯だった。酒は胴の中を伝って、割れ目から、ほんの少しだけ外へにじんだ。
次は、部品を分ける。
アニカは工具袋を開けた。手は、もう震えていなかった。
長い柄を外した。百四十年分、人の手に握られて、木の芯まで黒光りしている。柄は、坂の上の三番井戸の、折れかけた柄と替えることになった。
弁の革を外した。まだ使える。これは、市場の水桶のポンプへ。
底の玉を外した。これは、粉挽きの水車の、給水の弁へ。
ひとつ外すたびに、受け取る家の者が前に出て、両手で部品を受け取った。誰も、何も言わなかった。言わないのも、手順のうちだった。
最後は、名前を呼ぶ。
隣の婆さんが、柄の外れたおろくの胴に、手を置いた。
「おろく。長いこと、ありがとね」
それから、一人ずつ、同じように胴に手を置いて、同じように名前を呼んだ。子どもも、男たちも。誰かが鼻をすすった。
順番が、アニカに回ってきた。
アニカは胴に手を置いた。鋳物は夕日を吸って、まだ少し温かかった。
何か言おうとして、口を開けた。言葉は出てこなかった。
代わりに、アニカは工具袋から布を出して、胴についた樹脂の跡を拭いた。三日分の、自分の帯の跡だった。乾いた樹脂は、こすっても、なかなか落ちなかった。
「もう、ええよ」と、隣の婆さんが言った。
「まだ」
アニカはもう一度、布を動かした。今度は、落ちた。
胴は、井戸のそばに残した。外せない胴は、その場に置いて、苔に覆われるまで、そのままにしておく。それが、送りの最後の手順だった。
人が帰ったあと、アニカはしばらく井戸枠に座っていた。
バレルが、隣に立っていた。百四十年前の機械の胴と、それより古い機械の胴が、夕暮れの中に並んでいた。
「バレル」
「はい」
「もし、動かなくなったら」
言いかけて、アニカは口をつぐんだ。
「その予定は、ありません」
バレルは言った。
「次の点検は、木曜です」
「……知ってる」
バレルは、少し黙った。
「木曜の次は、来月です」
「それも知ってる」
アニカは立ち上がって、尻の土を払った。
翌朝、まだ暗いうちに目が覚めた。
坂の上のほうから、井戸ポンプの軋む音が聞こえた。きい、こ。きい、こ。三番井戸の、朝いちばんの水汲みの音だ。
その音が、いつもと違っていた。
低くて、少しだけ間延びした軋み。子どものころから、坂の下で聞いてきた音だった。
おろくの柄の音だった。
アニカは寝台の上で、しばらくその音を聞いていた。それから起き上がって、工具袋を腰に巻いた。
ポケットに、ゆうべ外した柄の楔が入っているのに気づいた。
取り出そうとして、やめた。
「朝食がまだです」とバレルが言った。
「何がある?」
「芋です」
「……また芋」
アニカとバレルの話は、連載『機械に酒を注ぐ街で 〜迷いの森の修理屋と、樽型ロボット〜』で続いています。
この話で描いた「送り」の作法は、連載の森渡りの章で、もう一度、別の形で出てきます。




